座って克服すべし


ある高名な老師によると、
うつ病質の人が座禅をするのは危険なのだそうだ。

座禅は己の精神を鍛錬する目的で行うもの、トいうのが
私の認識であるが、
まぁ、一般的にもそう考えられているハズだ、ト思うが、
それが何故々々、危険となり得るのか?
答えは意外と簡単だった。

うつ病質の人たちとは、その繊細さ故に
己と向き合う事を苦とする種別の人たちであるので、
己と向き合う事を大前提とする座禅とは
極めて相性が悪い、という理論、
当然の理であったのだ。

併し、うつ病と座禅が相容れない関係であると
結論付けるのは少々早計であるようにも感じた。

私は元々人生に於ける弱者であるので
己と真っ直ぐ向き合う事を頗る苦手とする。
だが、座禅を続けてきて多少は何と云うか、
自信が強化されてきたのを実感している。
何かを成し遂げた時など、
これは座禅の効果に違いない!などと、
これまで座ってきた、という実体験を明確な根拠として
出てきた結果に関連付けする事により、
その結果に更なる確信が持てるようになった、という訳だ。

これだけやってきたのだ、トいう、
疑いようのない真実を背景に持つ事には
重大な意味がある。
座禅はその意味を生み出す手段として機能する
実務的な訓練と云っても
云い過ぎではあるまい。

根拠を持てれば自信が生まれる。
つまり、己と向き合う事が苦痛でなくなる。
よって、座禅がうつ病質と反発し合う存在と結論付けるのは
早計である、ト、私は考えたのだけども…

併し、である。
この私の考えが素人の希望的観測である事は
否定出来ないし、
皆が皆、私と同じに考えるとは限らない。
座禅という修行を積んでゆく過程で、
つまり、経験という事実を造り出すその手前で、
重きに耐え切れなくなる繊細な人々も多く在るはずだ。
そうなってくると、
挫折という結果は負担にしかならないので
これはかえって逆効果だ。
たとえそれが単純に相性の問題であり
恥ずべき事でないのは当然なのだとしても、
結果は結果として
その人の歴史を創ってしまうのである。

私の考えは往々にして非現実的であるので、
ここはやはり、経験豊かでその道のプロである
老師の言葉がより真実に近いのは当たり前、ト、
再認識したという結論で締めくくっておこう。




いや、待った。
併し、矢張り、座禅によって鬱を克服する可能性は
ゼロではないとも記しておかねばならない。
極めてリスキーな諸刃の剣、ト、
挑戦するならそれをしっかり認識する事が不可欠となるが、
諸刃の剣の切れ味は前後に鋭いのだから
身に付ければ大変な武器になる。
いやいや、挑戦を思い立った時点で
その人は既に鬱ではない、とも云える訳だから、
ちょっと論点がズレてきてないだろうか。

うむ、なるほど。
どうも、私の文章はまとまりがなくていけない。
すこし座ってきます。



いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。


現世に於いての
花とそらとの生活は終わった。

あれから三年、
唯々、悼歌のなかで
静かに冥福を祈ってきたのみである。

然しこれは、
一歩を踏み出せない
落胆の人生ではない。

何故ならこの今は、
私の望む静かな哀悼の時間だからだ。
幸福だった人生の鐘の音は
今も静かに響き、
私はその残響に心地よく浸りながら
こう呟く。

今はさようなら。
また会う日まで…。






いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。




他人を支える杖となる


人間の苦悩とは
生きている限り続くものであるが、

そのなかで如何に生きるか、
どれほどの大股で
この荒波を渡ってゆけるのか、
どれだけ平気な表情を保てるのか。
そこに器量が問われる。

リンカーンだかが、
自分の心は鉄板だ、といった意味の言葉を残したと思うが、
私は自分流にこう云いたい。
私の膝は決して落ちない。

何故なら、
守るべき者もあれば
すべき事も多くありすぎるので、
何かに悩む暇がないからだ。

「世の弱者を救いたければ
己が強くなくてはならない。」

これはある高名な禅僧の言葉である同時に
私の親友である現役の兵士が口にした言葉である。
彼らがその傷んだ身体にモルヒネを打ちつつ
脂汗を滲ませて前進する理由は
この信念に根拠を持つ。

さて、大口叩いてはみたものの、
私は実際、彼らの様に行動出来るのか?
それとも、
誤魔化し笑いでそっぽを向いて
何もなかったかのように振舞うのか?

さぁ、じっくりと己を見てゆこう。







sora mumuそら「見てゆくでしゅ!」

hana ordinary花「もちょっとユルユル頼むぞな~www」




いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。

気は抜くものでなく入れるもの


ある戦国武将が座右の銘とした言葉、「油断大敵」。

油断というものは
事が上手くいっている時に発生しがちだが、
そうでない時にも
常時どこかにじっと息をひそめて
私たちを狙っている。
私たちの心を支配しようと抜け目なく監視し、
虎視眈々と牙を研いで隙あらば一気に征服しようと
まさに身構えた猛獣のような恐ろしさを持つものなのだ。

sora scaredそら「なんか怖いでしゅぅぅぅ!」


心の浮つきは行動に現れるので、
一度この油断というものが発生すると
内憂外患という致命的な挟撃に
自らを陥れる事になる。
それはまさに、一度起動すれば凡てを滅ぼしかねない
忌まわしき災厄の鉄槌なのだ。

sora scaredそら「地獄の黙示録のBGMが流れてきそうでしゅ!」



先だって重要な会議があった。
絶対に失敗が許されない状況だったので
何週も前から緊張していたのだが、
会議前半は思いの外スムーズに事が運んだ。
そしてそれが落とし穴となった。
私は油断してしまったのだ。

後半、一つの躓きをきっかけとして
しどろもどろに狼狽する醜態を晒すはめになった。
油断さえなければ、ト、後悔してみても遅い。
私は自らに敗れた。

「常に緊張」の一言を座右の銘として
毎日うわ言の様に繰り返していても、
油断から逃れるのは実に難しい、というお話。


hana ordinary花「なんか、まぁ…、いんじゃね?www」






いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。

新九郎譚 「既にやっておいた」


さて今回は、
我らが新九郎君が
いたく感動したというお話をいたしましょう。

新九郎君は先だって、
幸運にも昇格のチャンスをいただきました。
この機会、逃してなるものか、ト、
軽く書類選考をパスし
勢い込んで2次試験の面接への運びとなったわけですが、
若い新九郎君はどうにも落ち着きませんでした。
高官達が待つ面接室を前に、
新九郎君の鼓動は破裂せんばかりです。

すわ、ここぞ! などと、腹をくくる事も能わず、
ウロウロおろおろ歩き回っているうちに、
(指揮系統は違うのですが)
ある上役にあたるアメリカ人に
ばったりと出くわしてしまいました。

緊張のあまり、
既にすっかり狼狽して
舞い上がっていた新九郎君は、
まるで筋違いの一言を
声を裏返して発してしまいます。

「す、す、推薦状を書いてくれませんか?」

面接の寸前でのそんな要請に意味があるわけもなく、
又、そんな話をいちいち引き受けていたら大変なのですから
承知してもらえるハズもありません。
しまった!と思った時にはもう遅く、
上役の方はいつもの強面で
モルモットの様に縮こまった新九郎君を
じっと見下ろしています。

新九郎君はアタフタおどおどと
冷や汗に額を濡らしていましたが、
この方、突然ニヤリと笑って曰く、

I already did.
(既にやっておいた)


転瞬、
新九郎君の胸が爽やかな感動で満たされた事は
云うまでもありませんが、彼は決して浮かれませんでした。
同時に生じた新しい目標に
彼の背筋はきちんと正されたからです。
目指すべきはこういう人格である、と。






いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。

(因みに新九郎君、見事に昇進を果たしました。)

勝敗を決する要因


試験の勝ち負けとは
実際の試験を受ける前から
既に決まっているものであります。

それまでに、
如何に努力を重ねてきたか。
どれだけ歯を食いしばってきたか。
どこまで冷たく、
ゴミを見る様に甘い誘惑をあしらってきたか。

これらが勝負を決する絶対のファクターであり、
そこに、
マグレや奇跡の割り込む余地などありません。
行動こそが真実であり
苦しんだ者だけが太陽と握手をする
権利を与えられるのです。

試験とは! (孫子曰く)
得点という、誰にでもわかる結果を見せつける事によって
相手に敗北を理解させてやる作業に過ぎず、
勝負はそれまでの過程で既に決しているものです。

つまり、勝敗を決する分かれ道は、
試験勉強中、疲れた、ト感じたその時。
そこで踏ん張るだけの
精神的に強靭な足腰があるのか、ト、
この一点にかかってくるのです。

結果を出したいのなら
甘えは禁物です。




hana ordinary花「では、遊んでないで勉強しましょう~!www」

sora mumuそら「………(はむむぅ!)


いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。

新九郎譚 「落とし物」


これまでこのブログでは、
新九郎という名の若者の話を何度かしてきました。
○○新九郎君は、作者がよく知る実在の人物で、
珍しい話をよく提供してくれますので
これをシリーズ化して記録してゆくことにします。

さて、今回のお話はある落とし物に関するものです。
新九郎君は役人でありますので
落とし物係も経験したことがあるそうで、
今回はその時の
ある印象深いエピソードを紹介しましょう。



落とし物

ある時、人の集まる大きなイベントがあり、
我らが新九郎君は臨時で落とし物係に配属されました。
届けられた拾得物には
凡て書類が作成されて記録が行われ、
保管までには複雑な手続きが求められます。

新九郎君は普段は非常に真面目なのですが
若干合理主義者的で冷酷な部分があり、
財布などの重要なアイテムに対しては
書類作成をはじめとした複雑な手続きも当然と考え
事務的に淡々とこなせたのですけども、
明らかに価値のないと思われる物については
この手続きを無駄に感じた、ト、告白してくれました。
そればかりか、忙しい勤務でしたので、
多少なりともの苛立ちも感じていたそうです。
次にお話します、ある写真についても同様でした。
(役人風情がけしからん、ト御腹立ちでしょうけども、
どうか最後までお読みください。)


それは猫の写真でした。
発見者が道で拾ったというその写真は、
一見して手作りとわかる粗末なケースに入っていて
ゆわえられた鎖もなんだか安っぽく見えました。
ケースを形作るテープの端は黒く変色して薄汚く、
正直なところ何の価値もないゴミのように
新九郎君の目には映ったそうです。
然し手続き上、新九郎君は何枚かの書類を作成せざるをえず、
時間を費やして手続きを終えましたが、
無駄な手間だ、ト、そんな不満だけが胸に残ったとの事。
彼は良き友人ではありますが、
これは少々不届き千万と云わざるとえません。

それから数時間の後、
一人の老人が新九郎君の係を訪ねてきました。
老人はおどおどしながら、
申し訳なさそうにこう尋ねたそうです。
「猫の写真を探しているのですが…。」

それなら先ほど届きましたよ、と、
新九郎君は軽い気持ちで写真を取りだしました。
本当に何の特別な気持ちも感情もなく、
決まり仕事の一環として淡々と行っただけでした。
あんなものを探す人もあるのか、ト、
少々の驚きがあって、
何より手続きが無駄にならず、やれやれ、などと
考えただけだったそうですが…、
この何でもない手続きが、この後しばらく、
強く深く、新九郎君の心に残る事となります。

老人は写真を見るなり、それです!と叫び、
受け取った写真をしっかりと胸に抱いて
「ごめんな、みーちゃん、ごめんな!」と、
涙を流して膝から崩れ落ちました。
「ごめんな、本当にごめんな!もう離さないからな!」
あまりの展開に、新九郎君は一瞬あっけにとられましたが、

人目も気にせず号泣する老人の
丸まった小さな背中を見下ろしながら、
新九郎君は凡てを悟って硬直しました。

粗末と思えた写真入れのケースは、
不器用な老人が
大切な写真の保存と携帯の為に
懸命に作成したものであり、
汚れたテープは老人が何度となく
写真を撫でた悲しみの痕跡だったのです。

猫が既にこの世にいない事も明白であり、
そしてこの猫が老人にとっての
大切な家族だった事も
この状況が雄弁に物語っていました。

この厳粛に際し、新九郎君は、
己の軽率さと馬鹿さ加減を心の底から恥じて、
老人の涙が辛かったのだ、ト、
独り言のように険しい表情で語ってくれました。

新九郎君がこの係に配属されたことには、
きっと意味があったのだと思います。
彼のことですから、きっと無駄にはしないでしょう。
それは、
この初冬の高い青空の如くに明らかです。




いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。

古書


私は古本が好きです。
古本に魅力を感じるのは、
その本をかつて誰かが読んだ、トいう
歴史的事実に基づきます。
何かを共用しているという、妙な仲間意識に
心強さをおぼえるのです。
そして、中でも「痕跡本」というものを特に愛しています。

痕跡本。
過去のオーナーが書き込みをしている本を指してこう呼びます。

痕跡本には、その本を読んだ誰かが、
「ここは大事だ。」
「このフレーズは素晴らしい。」
そう感じた時に印や線が引いてあったりしますが、
甚だしい場合には
抑えきれない興奮の思いが綴ってあったりします。
ここに、「共用」という、一方的な私の思い込みが
知らない誰かとの精神的「接触」に変化します。

さて、こんな書き込みに出会った時は、
見知らぬ誰かの、真っ裸の心の叫びを
偶然に聞いてしまったような
そんな気まずい感覚をおぼえますが、
然し同時に、
屋敷の奥に大事に秘し隠されている誰かの美しい妻を
垣根の隙間から偶然に目にしてしまったような、
妙な甘い胸騒ぎと心地よい罪悪感をおぼえたりもします。

hana ordinary花「それは逃げんと危ないぞな~!www」

sora scaredそら「た、た、忠興しゃん・・・! ガクガクブルブル



しかし、この程度で心を動かされてはなりません。
痕跡本の醍醐味は
人の心の生の声を聞けることにあるのですから、
もっと赤裸々な書き込みとの出会いに
期待と鼓動を高めなければなりません。

本当に素晴らしい書き込みとは、
何故その書き込みがされたのかを推察できるような、
書き手とその過去を思い起こさせる
エピソードが浮かび上がるようなものです。
要するに、
「○○子さんと共に歩いた何処其処が~でこうこうコレコレ」
などと、具体的な名前や書き手の気持ちが
生々しく書き記されている、
鼓動を打つ感情を文書化したもの。
書き手の過去と人生が、
その書き込みの奥に透けて見えるものでしょう。

その多くは、過ぎ去った過去を懐かしむものや、
失われた時を嘆くものですが、
だからこそ、そこには書き手の強力な感情がこもっています。
それは最早、
人と書との或る種の「霊的な混血種」と云えるほどです。

この様な書は、最早単なる古本としての痕跡本ではなく、
誰かの人生の痕跡本、と種別できましょう。
不謹慎かも知れませんが、
赤裸々な人の感情なんて滅多に見れるものではありませんから、
そういう意味では、
極めて貴重な文化遺産と呼べるはずです。
人の目に触れる事を意識して書かれていないからこそ、
そこには真実があるのです。
真実とは、人の捜し求める極まりのゴールでありますから、
これは一つの、人間が到達し得る最頂点と呼べましょう。

然し、常識で考えたら私のこのような考え方は
人の心を覗いて喜ぶ悪趣味なものと解されかねません。
いえ、その通りですね。



本邦には付喪神に代表される「物に魂が宿る」トいう考え方があり、
書物もこの例外ではないでしょう。
それは最早、単なる紙とインク以上の存在なのです。

17NOV16 019a







私がこれまでに最も心を打たれた痕跡本の書き込みは、
ある男性がある女性に贈ったと思われる本に
記されていた美しい一文です。
極めてプライベートな内容なのでここでは紹介しませんが、
半世紀以上も前の美しいラブロマンスに
不思議に胸が高鳴ってのをおぼえています。

ずいぶんと古いものですから、
きっともうこの男性も女性もこの世の人ではないでしょう。
この本も、ご遺品整理などで業者に売却されたものと思われます。
それが何のご縁があってか、今こうしてここに在る。
本の状態は美しく保たれており、
その事が持ち主のこの本に対する気持ちを
雄弁に物語っています。
会った事もない見知らぬ他人ではありますが
この本から妙な親近感を感じ、
そして、
誰かの人生の痕跡に触れるという厳粛に
思わず眼が熱くなってしまうのです。



いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。

対照


良く晴れたこの初冬の日曜日、
用事があって出かけるのに
久々に近所の散歩道を歩いた。

歩くべき理由を失った今となっては、
最後にこの道を歩いたのが何時だったか
それすらも思い出せない。

街路樹の緑が
高い位置の太陽に照らされて
キラキラとした木漏れ日を零していたのを
ぼんやりと覚えているのみ。
季節は無言で推移する。


確固たる足取りで変化し続ける
私を取り巻くこの自然の様相と、
そして、最早、花とそらはいないという
この変わらない空虚な現実。

思わぬ対照の材料に出くわして
私は又もこの世の摂理について
考えなければならなかったが、
こうやって、何処で何をしても
頭に浮かぶのは花とそらの事だけだ、ト、
そう考えていると、
悲しいはずなのに、ふと頬が緩んだ。


月に太陽、花に小鳥があるように、
私たちの魂は決して離れることのない
一対の美しい勾玉をかたち成している。


13NOV16 004







いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。

他人を使って名を上げよ


* 最近また、我が人生の指南書である
三島由紀夫の「不道徳教育講座」という
ちょっぴり皮肉でユーモアに富んだエッセイを
空き時間にむさぼり読んでいます。
恥ずかしながら、今回ちょっとその口調を真似てみます。
「不道徳」という前提ですので少々ハメを外していますが、
どうぞ冗談と笑い飛ばして下さい。…



他人を使って名を上げよ

自分では何もせずに
常に人の力ばかりを当てにしている人種というのは
何処にでもおりますもので、
このような人たちは事あるごとに
他を使って己を利する
上手い方法ばかり考えています。

自分の実力を如何に向上させるか、という
オーソドックスな方法に思慮を巡らる事はないので、
ますます事の処理が出来なくなってゆき、
畢竟、他人を利用するしか手段がなくなってしまうのです。

そして困った事に、
日頃からそうした術ばかり考えているので
その腕前に於いてはどんどん熟練してゆくのです。
最早、技術と呼んでも差し支えないでしょう。

彼らは実に様々な方法で
他人からの支援を引きだそうとします。

同情を買うように弱々しく振舞ったり、
お追従の言葉を並べ上げたり、
知恵の限りを尽くして他人を動かし
平身低頭して感謝の意を表しますが
下を向いた顔は
ペロリと舌をだしたりしているのですから
実に油断なりません。

然しながら、中々のしたたか者ですので、
ある意味抜け目のない策士とも云えるでしょう。

こういった人たちを
冷たくあしらってはいけません。
たとえ方向性が間違っていようとも、
彼らは必死な人たちです。
その一見姑息な手段が
彼らの生き残りをかけた戦略である以上は、
私たちはさりげなく
風にタンポポを飛ばすように、
つとめて自然に手を差し伸べなければなりません。
窮鳥懐に入れば猟師も是を撃たず、と云いますが、
ここに或る種の「美学」が発生し、
それは私たちの存在を
今より更に美しく見せることになるでしょう。

さて、美学とは一体何を指すのでしょうか?
敢えて云います、サムライの精神です。


もう一昔前になりますが、
「七人の侍」という映画がありました。
山賊に襲われて壊滅の危機に瀕する村が、
侍(浪人)を雇って村を防衛するというストーリーです。
身体を張った命懸けのミッションにも関わらず
成功しても何の功名もあがることなく、
危険ばかりで
割に合わない馬鹿々々しい依頼ですけれども、
侍たちは是を引き受けます。
そして村を守る為に次々と死んでゆくのです。

多くの戦いの後、ついに山賊を撃退し、
村の安全が保障されたところで
この映画は終わります。
しかしラストは決して大団円とは云えません。
村の民たちは恩人であるはずの侍たちを
無碍に扱い、もう用済みだ、とばかりに
半ば追い出すような態度に豹変してしまうからです。
「お侍さま~!」と、地面に膝をついて
泣きついていた姿は、最早ありません。

然し、生き残った何人かの侍たちは、
そんな村人たちの態度に怒ることもなく、
静かに去ってゆきます。
「勝ったのは彼らだ、儂たちではない。」
と、言い残して…。


私はあの高潔な精神にサムライを見ました。
私たちのその心に
サムライの精神が生きているのなら、
懐に飛び込んでくる窮鳥を
決して追い払ってはいけません。
その鳥は、安全を確認したら、
さっさと飛び去って、
しかも、私たちの頭にフンを落としてゆくでしょう。
然しそれでも私たちは、
涼しい表情でこう云わなければならないのです。

勝ったのはあの鳥だ。
儂らではない。


これだけ聞けば、
なんだか馬鹿をみたような気になるかもしれません。
しかしこの話は美学だけに収まらず、
実学に於いても実は有効です。
何故なら、私たちの周囲の人たち、
彼らこそ、映画「七人の侍」を観終わって
感動や義憤をおぼえた観客に相当する存在だからです。
皆が私たちを見ているからです。

世の策士たちは、
他人を利用して生き残りを果たし、
利用される側はその功績によって名を上げる。
この図式を良く見てみて下さい。
誰も損をしていないばかりか、
なんと、関係者全員が幸福な状態にありますね。
ここに一つの社会的基本相互作用が見事に完結した
理想の人間関係があるように思えます。

そして私たちは決して使い捨てにされたわけではなく、
他人を支援する事によって
しっかり名を上げるという利益を生み出していますので、
利用されたようで、実は他人を見事に利用していますので、
決して妙な屈辱感に捕らわれることはありません。




いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。

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