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手段


前回、故紙録の飯塚染子さんが
悟りに至るきっかけとなった言葉を記した。

念仏一辺倒から
一旦立ち止まって息をつき、
落ち着いて周囲を見回すことによって
禅と出会い、
禅を通して悟りに至ったという話であるが、
これは決して念仏を貶めている訳ではない。

公案をみてもわかるが
悟りとは人それぞれだ。
畢竟、それに至る手段も様々となる。
千差万別、多種多様、バラエティーに富んでいて
どこに探し求めた答えが落ちているのかわからない。
ここでのポイントは、
視野を広く持つことによって
行き違いを防ぎ
目指す相手をしっかりと見逃さない、ということだ。
染子さんの場合はそれが禅であった。

まぁ、それだけのことで、
もう一度云うが、
これは禅と念仏を比べる話ではない。
念仏が尊く有難いものなのは当然の話で、
念仏を心の拠りどころとする人は
歴史を見ても枚挙にいとまがないし、
今だってそうだろう。
私も念仏をお唱えする。

禅が合わない人もいる。
禅は自分と真っ直ぐに向き合う修行なので、
かえって己を追い詰めることになり、
悲しく結末した話も多く聞いた。
要は、前述もしたが、人それぞれ、なのだ。
私は禅をやらせてもらっているが、
これはだらしない自分を引き締める目的だ。
豆腐を鍛えて鉄にする手段は
禅しかないと思っている。

これだと思って傾倒してきたものが、
実は自分には合っていなかった、ト、
そんな悲劇は大いにある話だ。

何かに集中した時間というのは
決して無駄になることはないけども、
やはり目指す目標に回り道はしたくない。

一旦立ち止まって周囲を見渡す。
道に迷ったら勘で曲がらず地図をみる。
あらゆる縁を大切にする。
人の話を聞く。
悟りのきっかけはどこにあるのかわからない。





読んで下さった皆様、有難う御座います。

続 故紙録


生まれてくる子供が次々と亡くなる。
苦しみの中で女性は
念仏に全てをまかせて
ただひたすらに念仏を唱えるのであるが、
そこに救いを見出す事はなかった。

そんな時、夫より以下の忠告を受ける、曰く、
念仏は確かに尊く有難いものだ。
然し、それだけに頼っていてはならない。

大きな転機になったのだという。
私はこの話に大いに感銘を受けた。




いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。

故紙録


故紙録、
ある古い時代の女性の記した書である。

この女性は、
子を次々と失くされたことから
なぜ自分だけが、という思いに
大変に苦しまれた、とのことだった。

然し、その後、悟りを認められるに至る。

そんな苦しみからどうやって
心の平穏にたどり着いたのか
私は尋常でない興味があったので、
話を聞かせて下さった方に
思い切って質問してみた。

しかし、その女性が悟りに至った過程を
話してはもらえなかった。
何故だろうと一瞬思案したが、
後になって考えてみると
単純な話、絶望から平穏への道程を
そんな簡単にまとめて語れるものではないし、
そもそも答えを求める私の姿勢が
あまりにも性急すぎたのではないか、と思った。
私はそこに、
凡てを転覆させるほどの
力強いヒントを求めようとしたのだ。

これでは話はしてもらえないだろう。

人が悟りに至る方法は様々で、
また、その悟りも人によって違うはずだ。
内容も程度も全てが異なる。
共通しているのは、
小さな気付きを一つひとつ実行する毎日が
先ず土台を作り上げ、
その僅かな積み重ねの
繰り返し、繰り返しの先にのみ、
漸く小さな蕾が結実するというこの事実だけだ。
花が開くきっかけも、又、様々だ。

地道な思考の繰り返し、
それがある年月を経て遂に満ち満ちて、
ひっそりと小さな花として現出する。
それが悟り、人の強さ、平穏であり、
そこに行きつくには内容と過程が必要なのだ。
簡単には語れない。

さて、理屈ではこうしてそれっぽく語れる。
然し果たして、私は本当に理解しているのか?
趙括談兵、笑止、であろう。
だからこうして考えてゆくしかないのである。





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人間世界の中の猫


もう完全に陽の落ちた帰宅の路に
猫の家族を見た。

母猫とおぼしき茶色の美しい猫が
草むらに身をかがめており、
三匹の子猫が寄り添うそうようにして
頑なに身を緊張させている。

皆がこちらを見ている。
目には警戒の色が浮かび
そこから怯えが読み取れる。
私は決してこの子らの敵ではないのに。

この家族が笑って暮らせる日はくるのだろうか。
私はなんだか悲しくなった。
人の世界にひっそりと生まれた野良猫の家族に
倖せはあるのだろうか。
母親の温もりが唯一の倖せなのだろうか。
何のために生きるのか、命とはなんなのか。
この純粋無垢な魂の尊さは絶対だ。
それなのに、
その澄んだ心に平穏を予感出来ない。
見ないふりをして立ち去るしかなかった。



いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。

蓬莱


墨流しのような薄い雲に
遠く、ぼんやりと浮かぶ丹沢の山々。

もう遥か向うに沈んでしまった
夕陽のオレンジが
山々の稜線を淡く照らして、
それは恰も火鉢の底の熾火のような
暖かい輝きを描いている。

蓬莱、という言葉が頭に浮かんだ。

遥か昔、
中国の人々が思い描いた神界の島。
何かのきっかけにこの世にその姿を現す
伝説の世界。
それが蓬莱島。

私は蓬莱伝説を決して絵空事とは考えぬ。
今、目の前にある丹沢をみれば、
蓬莱の実在に何の疑いもない。
そこに神仙はきっと存在するし、
死んだ者の魂だってあるはずなのだ。

私は誓って夢想主義者ではない。
リアリストである。
韓非子やマキャベリである。
その私が、数々の現象を根拠として
確かに蓬莱を感じている。
あの西の空のむこうで、
私はいつか必ず花とそらに再会するだろう。


AUG18 073a



いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。

黒ラベルで心に緊張を


ニヤリと二本の黒ラベル。

この二本、というのが重要だ。
殊の外に重要であるので
強調しておきたいが、
一本では駄目なのだ。
安心できないのだ。

酒を飲む人ならわかると思うが、
飲める量はその日の体調によって異なる。
これは最初の一すすりで直感出来るものだ。
うむ、今日はとことん飲めそうだ。
今日はほどほどかな。
飲める時には徹底的に飲みたいものだ。
酔いの程度がそのまま幸福感に繋がるからだ。
そんな時は、いつものビール一本では足りなくなる。
毎日一本で十分に満足できるとして、
それがほぼ決まった事実だとしても、
そうでない例外の日も極々稀に生じえるのだ。

その為の二本目確保。
この安心が平穏に繋がる。
心の保険と思えば安いものだ。
しかも、手にしたのは黒ラベル。

三本買ってはならない。
これは無粋というものだ。
10対0で勝っているのに
まだ送りバントをするような野暮と云える。
福々しく肥満した動物園の虎と
鋭い緊張感を持った野生の虎。
二本と三本にはこれ程の差があると云える。
余裕というものは持ちすぎると
心の弛緩に繋がる。

バックアップも含めての必要最小限に収めることにより
緊張感を保ちつつストレスを生じさせない
このバランスが重要なのだ。
ちょっとした日常にちょっとしたスパイスを加えることで
人生が少しだけ楽しくなる。(たぶん)



いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。

夕陽


ふと思い立って夕陽を見に行った。

歩いて5分の場所に
丹沢を素晴らしく眺望出来る場所がある。
広い畑のずっと向う、
相模川を渡った遥か彼方に
堂々と存在する美しい山体。
中央にゆったりと構える大山は、
なだらかな三角錐の山頂が
力強さと優雅さを併せ持っていて
いかにも神の宿る山といった趣だ。
いつも静かに私を見守ってくれる大山。

今の季節はすこし北の端の
三峰山に陽が沈んでゆく。
もう本当に暗がりの山体は
稜線だけが明るいオレンジ色に縁どられて
なんだか朧気な影絵のようにも見える。
この世とあの世の境があるならば、
きっとあんな風に見えるに相違ない。
西方浄土とは、
あの向うにあるのだろうか。

そんなことを考えていると、
2羽の鳥が寄り添うように飛んでいくのが見えた。
あぁ、花とそらだ。

古来より、
山には亡くなった者の魂が集まると信じられている。
私は直感した。
花とそらは、丹沢に見守られて幸せにしている。
今でも楽しくやっている。
雄大な丹沢の空をゆったりと羽ばたいている。
あの子らは自然に帰ったのだ。
本当にもう自然の一部なのだ。

私もいつの日か、
あの子らと共に空を飛べる日がくるだろう。
その日までは頑張らなければならない。
あの子らに胸をはって報告しよう。
私は君らに負けず劣らず全力を尽くした。

帰り道のコンビニでは
ニヤリと笑っていつもの黒ラベルを二本。




いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。

太宰治は疲れに効く


そのパンドラの匣であるが、
太宰治の青春ものの一つな訳だが
よくよく考えてみたら
こういう清々しい作品は珍しいような気がする。
中期の彼は、人の美しさを描いた
人間賛歌の傑作が多いけども
この作品は一種独特で
なんだか爽やかに吹き抜ける
初夏の風のような印象だ。

こういった作品は、休憩時間などで
パラパラと気軽に読めるので気分転換によい。
雲雀だ越後獅子だ、オルレアンの少女だと、
軽快に、然し、じっくりと、
たまに微笑ましい場面にあたっては
頬を緩ませながら
(傍から見ると気持ち悪いかも知れない)
どんどん読み進んでゆくと、
私のようなロマンチストは
いつの間にか
その世界の住民の一人になっている。

>ロマンチスト
hana ordinary 花「自分で云うところが偉い!」


しかも、あの独特の文体に加えて
この作品は書簡体をとっているので
ますます、こう、主人公が私に
直接個人的に
語りかけているように錯覚するという訳だ。

こうした気軽な作品であるが、
基本的に主人公の成長の物語であるので
ビルドゥングスロマン的な奥深さもあって
ところどころではっとするような
場面にも出くわす。
竹さんの結婚の話を聞いた後の
主人公の不思議な胸の苦しさなどがそれだ。

SORA 28JULY08 065 そら「ぎゅっとつねられるトコなんかも、切ないでしゅねぇ・・・」


主人公はあらゆる日常を通して確実に成長する。
小説の終わりに於いては
もうすっかり肩の力が抜けて
自然体に近い境地にまで達する、曰く、

あとはもう何も言わず
はやくもなく、遅くもなく、
きわめて当たり前の歩調でまっすぐに歩いてゆこう。


この道はどこに続いているのか。
主人公は、伸びてゆく植物の蔓に聞いたほうがよい、ト云う。
蔓のこたえはこうだ。

私は何にも知りません。
しかし、伸びてゆく方向に陽が当たるようです。



陽の当たる方向に伸びるのではなく、
伸びてゆく方向に陽が当たる、ト、云っている。
ここは重要だ、読み飛ばしてはならない。
進んでゆく場所にこそ陽が当たる、ト云っているのだ。
運命は常に味方だと励ましているのだ。
なんというさりげない優しさだろう。
挫けないで進んでゆこうという、背を支えるような言葉。
がっちりと抱きとめるのではなくって
そっと手を添えるような柔らかさ。
人を愛する者にしか書けない言葉だと思う。

私は最近、極端に疲れている。
そのおかげだと思うが、
この小説の最後に
このような美しい言葉があったことに
この年になってはじめて気が付いた。
この台詞の爽やかな尊さに
漸く気が付けた。
苦労してきていない者の思考の軽さだろう。
人生を知らなければ、
金の林檎をだされても気が付けないのだ。

こんな言葉を綴ることが出来る太宰治という作家は
誰がなんと云おうと、陽性と勇気と希望の人だ。
私は改めて、彼への敬愛を深めたのだ。




いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。

苦境に思う


カントの鳩の不幸は、
自らの飛翔が空気の抵抗を拠所とすると
気付かなかったことだ。

重い空気を押して掻いて、
それこそ筋肉は千切れ
骨は軋むほどに羽ばたいてこそ
鳩は空高く飛翔できる。
真空の中では、
鳩はただ地面でハタハタと
虚しく翼を空回りさせるだけだ。

今、私は苦境にある。
しかしこの苦境は
次なる飛翔に絶対必要なものだ。
逆に云うと、
苦難なくして進捗はありえないのだし、
バネの抵抗は大きいほど
跳ね返りも強いと云える。
シラーだったかの戯曲に曰く、
こんなにも苦難が多いところをみると
運命は余程に私を大人物に仕立て上げたいようだ


うむ。
私は、要するにこうした文を綴ることによって
自分を励ましたいわけだが、
どうにも虚飾や見栄が見え隠れしていけない。

カントやシラーを引き合いに出すのは結構だが、
もうすこし、こう、
小川に笹船を流すように
さりげなく語ることは出来ないのだろうか。
小賢しさが鼻についてどうにもいけない。
草枕に曰く、角が立つのだ。

冒頭の鳩の話は
パンドラの匣にでてくるが、
いかにも自然にサラリと嫌味なく語られている。
こういったところに
自分の技量のなさというか、
もっとこう、根本的な人間性の欠陥を感じるわけだが、
まぁ、悩みすぎずに頑張ろう。





いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。

損失の連続


作家の名前は忘れたが、
十年くらい前にこんな短編を読んだ。


あるところに男がいた。
平凡で、何処にでもいるような男ではあったが、
男は努力して新築の家を建てた。

丘の上に悠然と存在するその家には、
愛する妻と子があった。
暖かい家族、帰るべき住処、
人生の安らぎに無条件で浸れる約束の地…
要するに、その丘のうえには男の全てがあった。

男は、今、丘のふもとの酒場から
静かに一人でグラスを傾け
美しく実った幸福の果実を眺めている。
男はその時間を幸福だと感じた。

併し男は、
世にも恐ろしいある事実に気付く。
「この幸福もいつかは終わるものなのだ。…」


恐怖による動揺は男を
妄想の沼へと引きずり込む。

近い将来必ずくるであろう老い。
老いた姿の自分がこの酒場から、
同じように丘の上の家を見上げている。
其処には最早、灯りはともっておらず、
老朽化した家は夜風に吹かれて
不気味に軋みながらぼんやりと存在している。
家は荒廃し、家族を失い、
最早老いて死んでゆくだけの自分が、
一人で酒を飲みながら、
真っ暗な丘の上の家を見上げてこう呟くのだ。
「あの頃はなんて幸せだったのだろう。……」

きっと来るであろうこの未来に、
男は悲しみの涙を流し、この話は終わる。
(大体大筋こんな話だったと思う)



さて、このように、
恐怖による妄想とは恐ろしいものです。
こんな考えに取り憑かれていれば、
未来は自然と荒廃の道へ繋がってゆくでしょう。
莫妄想、妄想することなかれ。

どうせ考えるなら
もっと楽しい可能性を追求したほうが
いいに決まっているのですが、
人間とは不便なもので、
何故か恐怖に支配されがちです。
実にいけません。

こういう時は津軽のあれを
声に出して読むに限ります、即ち、
さらば読者よ、命あったらまた他日。
絶望するな、元気でゆこう、では失敬!





いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。

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