続、浄土 


さて一方、
禅の僧侶に浄土を語らせるとどうなるか?
これはもう、大変な事になる。
いや、実際、すごいインパクトだった。

「何処まで西に行ったって
そんなものありゃしませんよ!」
「地球は丸いんだから、
元の場所に帰ってきちゃうでしょ!?」
などと、大胆に笑い飛ばしてしまう始末である。
これにはさすがに
苦笑いするしかない。

私は、禅とは、
この世界に真正面から向かい合って
現実を如何に生きるのか、ト、
この人類の持ち得る最難関の学問を
学ぶ場だと思っている。
それは、
一切の妥協がない
リアリストの世界に他ならない。

従って、この禅僧の答えには
充分に納得がいったし、
なんの反論も持たなかった。
そして、少しの嫌な気もしなかった。

これは、私が心の何処かで、
禅の世界観とは全く異なった浄土の世界観を
決して交わる事のない
別の枠で考え分けているからでもあるが、
理由はそれだけではない。
私がもしも浄土を口にした時、
何故それを云わねばならないのか、を、
しっかりと見抜いて理解してくれるだろうという
安心感があったからに他ならない。
(併し、決して抱擁などはしてくれない)

私は禅を信望するし、実際に学んでいる。
しかし浄土も必要だ。
そして、
禅僧という人たちははきっとそれを見抜いている。
科学者以上のリアリストであるが故に、
人の心もそのまま鏡に映すように
精密に観察している。
人を樹木に例えるならば、
地中に這う根までも見通すのが禅僧なのである。

だから、冒頭であげたような話は
(いちいち口には出さないが)
自然科学の話、という前提で話されていて、
信仰とはまるっきり切り離しているはずだ。

はっきりとわかる形での優しさはないが、
私たちはその豪放磊落な姿勢の向うにある
もっと大きな「何か」に気付かねばならない。

いちいち口には出さないが、というのが
また禅的で痛快ではないか!








いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。

浄土


私にとっての浄土とは、
死者がこの世のあらゆる苦しみから解放された
安らぎの場所である。
もはや、何の痛みも心配もない
安寧の世界である。

だから私は、
愛する者が浄土に在って欲しいと
強く、強く、願う。

ある時、浄土真宗の僧侶に
浄土はあるのか?と問うた事があった。
僧侶は、ただ信じないさい、と云い続けるのみで、
それ以上は語らなかった。

あの時、たった一言、
確信に満ちた目で「ある」と答えてもらえたならば、
私はもうそこで死んでもよいとまで
思っただろう。
それまで流した悲しみの涙を凡て
洗い流すほどの満足の涙を流しただろう。
しかし、僧侶は、それ以上を
決して語ろうとはしなかった。


時が経って漸く気付いたが、
あの僧侶は実に公明正大であった。









いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。


早春の朝に


このところ
非常に気持ちの良い朝が続いている。

西に崇高な大山の姿を見ながら
頭上に大きく広がった空は青く、
まるで白の薄絵具を流したような雲が、
人生のところどころに波打つ悲しみの様に
仄かな抑揚を添えている。

こう云うとなんだか悲しい空を想像するが、
そうではない。
私は生きる意志に満ち溢れていて、
それはもう、まるで、
いますぐその青空に
ぽかんと船でも浮かべたいくらいの心境なのだ。

こういうと太宰治になってしまう。
そういえば彼にも、
こんな風に生と相対した時期があった。
希望とがっちり握手をした日があった。
人生は常に手探りだ。
私たちは先ず、今日をしっかりと生きよう。





いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。

明日の自分は今日作るべし


のどかな週末に何をするか。
寝るか、遊ぶか、ビールを飲むか、
それとも勉強するか。

目の前の安易な幸福に溺れるのも良いでしょう。
併し、そうする事によって
将来確実に訪れるであろう失態の可能性を
少しでも減らしたいのであれば、
ちょっと踏ん張って勉強すべきです。

颯爽と凛々しく、自信に満ち溢れている人は、
こういう分かれ道では例外なく
苦難の道を選んできているものです。
しかも、何の躊躇もなくそうしていましょう。
楽をするという選択肢が最初からないから、
今こうして精悍な姿であるのです。

明日の自分は今日作られます。
遊べばそれなりにしかならないけども、
努力すれば理想の自分に近づける。
更に云うと、
立ち止まれば忽ち追い越される、の、
所謂、泣くのが嫌ならさぁ歩け、を謳う戸黄門理論も
ここに関係してくるでしょう。
やるしかないなら、やるしかないのです。






とはいえ、気分が乗らない時は乗らないものです。
そこで、
私のような気分屋にも有効な
すばらしい呪文をここでこっそりお教えましょう。

失態、失態、失態。
三度唱えてみて下さい。

怖くなってきて勉強するしかなくなります。







いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。

人形


小林秀雄に「人形」という
有名なエッセイがあります。

これは戦後間もない頃、
あるご婦人が人形を自分の子供に見立てて
まるで生きた人間の様に扱っていた、という
実に悲しいお話でありました。

人形が亡くなった子供の代わりである事は明白でありますが、
果たしてこのご婦人は正気だったのでしょうか。
正気を保つ為に自らをだまし続けていたのか、
或いは、最早心は壊れてしまっていたのか。

私はこれと似た光景を目にしたことがあり、
その時の衝撃は未だに胸に残っています。
背後にある悲しみの涙を思うと
胸が痛くなるほどであり、又、
自分もいずれこうなるのではないか、という恐怖に
足が震える思いでした。


あれから何年も経って、
倖いにも自分は今こうしておりますが、
移り変わりがこの世の定めであるのなら
誰でもが
あのような悲しい境遇に陥る可能性があるのです。
それはある意味、無垢の美しさを備えてはいますが、
やはり、本質は純然たる悲しみでしかない。

併しそれがこの世の理に根拠を成すものであるならば、
真の人生が始まるのはそこから、という見方も出来るかも知れません。
ゲーテも似たような事を云っていたような気がしますが、
仮にそうであるならば、
人生とは実に厄介極まりないものであります。

只管打坐、ちょっと座ってきます。






このエッセイには感ずる事が多く、
過去に於いてもいろいろと書いていました…。

古馬乃秀邦、人形に心を痛める

お散歩で見たこんな光景(2012年3月)


いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。


一度はヘタれるべし


私は常に自らの価値観を絶対視しているので、
努力という行為には強い拘りがある。
したがって、
努力しない者を軽蔑する傾向にあるし、
それは死ぬまで変わらないだろう。

しかし、ある日の朝、
なんとその私自身がヘタれてしまった。
その日が雨というのもあったろうが、
自転車で出勤途中に、
突然、超絶に憂鬱な気分になったのだ。

毎日、頭が沸騰するほど勉強し、
気が遠くなるほどのショックを受けながら
難しい仕事に取組み、
それでも何一つ計画通りに事は運ばず
どうにもならないものを
どうにかしなければならないというプレッシャー。
何故こんなことをしているのか?

もっと楽な生き方はいくらでもある。
無理して毎日勉強しなくてもいいではないか。
そんか事より、帰宅したら
ビールを飲んでテレビをみて、
頭を悩ますのはゲームの攻略のみで
好きな本を読んで、史書を楽しみ、
休みの日は計画など立てずに
ただただ遊んで暮らす。…

そういう生活にすこし憧れた。
ただ楽しんで生きるのは良い、とても良い。
本気でそう思ったし、羨ましさも感じた。
真の幸福とは、
緊張の無い安らかな日々にあるのではないか、とさえ思った。
併し、しばらくして思い直した。

幸福とは常に相対的なものだ。
人それぞれに倖せの形はある。
私の幸福は、きっと、苦難の後にある
大きな達成感にあるのではないか、と
迷いの後にふと気づいたのだ。

苦難が大きければ大きいほど、
その幸福も又、大きなものとなる。
それは、困難な道を選択した者のみが
その果てに出会える
魔法の青い蝶々のようなもので、
楽な道を選んでいては
絶対に見つけることは出来ない、
要するに、
神と交わす精神的等価交換の産物と云ってもよい。
(かも知れない)

そうだ。 私はその為に、困難な道を選んでいたのだ。
なんという事はない。
私の艱難辛苦は
自らの倖せに直結するものだった。







と、自転車通勤の20分の間にこんな事を考えていて、
我ながら阿呆だな、とちょっと笑ってしまいました。



いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。

新九郎狐


丹沢の山奥に一頭の狐が住んでいた。
狐は名を新九郎といった。
新九郎は天蓋孤独の身であったけども、
ある春の朝、家族ができた。
彼の巣穴の近くに
純白に輝く兄妹の花が咲いたのだ。
それは、雪をも欺く白さだった。

新九郎は花たちを愛した。
それはそれは大事に世話した。
うっとりと眺めているうちに春は過ぎた。
梅雨には花たちが流されないように、
煉瓦で囲って土を盛った。
夏は灼熱の日差しよけに
傘をこしらえた。
秋には降り始めた霜を避ける為、
新九郎は花たちの根本に丸くなって眠った。
やがて丹沢に冬がきた。

この世界は一つの法則に支配されている。
新九郎がもうどんなに頑張ったところで、
花たちはその可憐な花弁を散らしていくしかなかった。…
新九郎は、コーンと一声だけ鳴き、
その声は丹沢の山々に美しく響いた。




「それから新九郎はどうなりましたの?」
人間の女の子が父親に聞いた。
「滅んだよ、無論。」
父親は遠くを見るような目でこたえた。
「新九郎は現実を受け入れる事を拒んだんだ。」

「お可哀想なことをしました。」
女の子は目を伏せてしまったが、父親は云った。
「然し彼は、愛する花たちと幸福に生きる事が出来たのだ。
哀れに思うことはないさ。」
「彼は自分の倖せを追及したんだ。」

女の子にはよくわからなかったが、
新九郎と花たちの魂は
きっと今でも丹沢にあるのだろうと、
それだけは間違いのないように思えた。







いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。

雪の朝


昨夜の雪に窓の外は真っ白だ。
快晴の青とのコントラストに思い出すのは
花とそらのいたあの日々だ。

こんな朝は、慌ただしく支度をして
真っ先にドッグランへ向かったものだった。

誰にも踏み荒らされていない
真っ白なドッグランに
花とそらを解き放つと
子らは大はしゃぎで走った。
確かに素晴らしい日々だった。

過ぎ去った過去に頬を緩め
楽しかったよね、と、語りかけた。
そうだ、私たちは幸福だった。






いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。

新九郎譚 「スーパーヒーローを問う」


さて、今回は又、我らが新九郎君から聞いた
馬鹿々々しくも微笑ましいお話をいたしましょう。
新九郎君の職場はほとんどが米人でありますので、
本邦の日常では決して聞かれないような
奇妙な会話が日常的に交わされるそうです。
正に、日常の中の非日常。
屹度お楽しみいただけるかと思います。




「スーパーヒーローを問う」

以下、新九郎君の職場で交わされた
あるアメリカ人達の青筋立てた議論です。
登場人物は、
BOSS(職場の長)
部下A
部下B
部下C
女性部下

ト、なります。
皆、アメリカ人で、立派な大人たちです。


BOSS 
「スパーマンこそが真のスーパーヒーローだ。
これはアメリカ国民であれば当然の常識として認識している事実だ。」

部下A
「バットマンは勝つための工夫をしますが、
スーパーマンはただ力押しで勝つだけです。
面白味がありません。」

BOSS
「面白い必要があるのかね?
彼はやるべき事をやっているだけで、
キミを楽しませる必要はないのだ。
彼の任務はエンターテイメントではないのだよ?」

部下A
「いや、そのエンターテイメントこそ、彼が生み出された理由でしょう?」

BOSS
「よく聞きたまえ。
スーパーマンは其の名が示す通り「スーパー」ヒーローなのだ。
一方、バットマンは単なるヒーローだ。そこに大きな差がある。
更に云うならば、スーパーマンは現実的だが
バットマンはてんで空想漫画の主人公ではないか。
スーパーヒーローとは呼べないな。
せいぜいSFヒーローだ。」

部下A
「スーパーマンは異星人なのだから、名前を変えるべきです。
スーパーエイリアンとすべきでしょう。」

BOSS
「彼はスーパーヒューマンなのだからスーパーマンで問題ない。
論点のすり替えはやめたまえ。
私たちは、活動の内容を議論しているのだ。」

部下A
「いや、彼はヒューマンではありません、エイリアンです!
これは事実ですよ!」

BOSS
「スーパーマンが地球生まれでないから人間でないと云うわけか。。
では、キミは、
アメリカ生まれでない人間を
ヒューマンでないと定義するわけだな?
それは人種差別主義者の考えだ。恥を知りたまえ!!」

部下A
「スーパーマンは弾丸より速く飛んで
ビルから落下中の人を救ったりしますが、
その速度でビルから落ちている人と接触すれば
つまりそれは
高速移動中の物体同士が衝突しているわけですから、
双方ただではすまないのではないのですか?
映画の映像は捏造に違いありません。」

BOSS
「彼は”スーパーマン”なのだ、そこが重要だ。
彼がスーパーである事を忘れてはならない。」

部下B
「みんな、忘れていませんか?
スパイダーマンこそが真のスーパーヒーローですよ。」

BOSS
「何を以てして彼を”スーパー”と呼ぶのだ?
あれは気味の悪いクリーチャーだ。」

(議論が続く)

部下C
「キャプテンアメリカはあまり好きではないなぁ。」

BOSS及び、その場の全員
「正気か?彼はキャプテン『アメリカ』だぞ?
おまえは愛国者ではない!!」

(一同に動揺が走る)

BOSS及び、全員
「おまえさてはテロリストじゃないのか? 
こいつは共産主義者に違いない!!」


ここで女性が登場。


BOSS
「キミが最も好きなスーパーヒーローは誰だね?」

女性部下
「スーパーマンね。
なんたって彼はボディが最高にセクシーだわ!」

BOSS
「うむ、キミはよくわかっている。
女性に人気なのも、スーパーヒーローの条件なのだ。」

女性部下
「バットマンはお金持ちなのが魅力だけど…
顔が見えないから不安だわ。
マスクを取った顔が醜かったら、と思うと。」

BOSS
「ではあのクリーチャー(スパイダーマン)など論外だな。」



…などト、この様な議論が延々続いたのだそうです。

バットマンファンの人がバットマンを賛美すれば、
スーパーマン信者のBOSSが
「バットマンはリッチマンであるにも関わらず
女遊びを一切しない。この点は尊敬しよう。
しかしだ!
何故、彼は女性を侍らせずに
ロビンなどという少年をパートナーにしているのか?
あれはバットマンがゲイである証拠ではないのか?
キミたち!
ゲイをスーパーヒーローと呼んでいいものだろうか?
やはり、スーパーヒーローの名が相応しいのは
その名の通り、スーパーマンだけではないのか?」
ト、口角泡を飛ばして問いかけるなど、
議論は白熱してやまなかったという事でした。

こんな熱い議論を日常的に楽しめる新九郎君を
少々羨ましく思います。 (少しですが)






いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。

冬着は出し惜しむべし


2月を目の前にして
遂に冬服を出すに至りました。

これまでの通勤は、
春秋ジャケットで
颯爽と自転車を飛ばしていたのですが、
さすがにちょっと寒くなってきました。

指は寒いを通り越して痛いし、
つま先にいたっては
どうやら霜焼けになってしまったようです。

しかし私は、厚着は甘えだと思っていますし、なにより、
我慢する自分の姿に美学を感じているので
そのことが支えとなって薄着でしたが、
残念ながら、
現実との折り合いをつける時がきてしまったのです。

私が冬用のジャケットを出し惜しんでいたのは
もうひとつ理由があります。
後ろにもう一つ心強い存在を控えさせておいて
心に余裕を持つ為でした。
持っているもの凡てを出し尽くしてしまったら
もはやそこに余裕などありません。
河を背にして陣を敷くようなものです。
奥の手は軽々しくださない、という言葉に通じますし、
もしかしたら、手の内を明かさないとも解釈できるので、
能ある鷹は爪を隠す、という言葉と、
どこかで意味を共有している可能性だってあるのです。
そういった陽性の性格を秘めた行為であるならば、
薄着は最早、兵法といっても過言ではないでしょう。
切り札はとっておくもの、なのです。

と、まぁ、服装にもその法則が当てはまるか
いろいろこじつけてみましたが、
よく考えたら、あるものは使え、に勝る法則はないので、
風邪をひく前に馬鹿々々しい習慣はやめました。
最近ちょっと疲れ気味です。


(昔は意味もなく、3枚以上着たら負け、と思っていました。
なんだったんでしょう。)


hana ordinary花「まったく意味がわからんぞなwww」

sora mumuそら「・・・・・・・・・ (はむぅぅぅ~)」





いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。

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