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懸命の不格好


ボクシングの練習というのは元々過酷なものであるが、
特にこの暑い季節は輪をかけて苦しいものとなり、
練習のレベルを思わず落としそうになるのも人情であるけども、
そこをぐっと堪えて、否、より一層スピードを上げて取り組むところに
努力、研鑽の尊さがあるのだと思う。
練習の後で思い起こし、あの時自分に負けないでよかった!などと、
ぐっと胸をはれば今日もビイルがより一層の旨さだ。
努力とは人生の充実、幸田露伴はあらゆる場面で正しい。

さて、その苦しい練習をこなすには
ある程度、自分を捨てなければならない。
どこかで他人の目を気にしていたのでは
なりふり構わない努力など出来ない。
必死の形相、ぶかっこうな動き、
それを笑わば笑えばよい、
私はキミ達を置いて行こう。
捨て身の研鑽なくして先へは進めない。

私の同志の話をしよう。

その男は元々が不器用で、運動神経などゼロに等しい。
身体も弱く、小さいころからすぐに風邪をひいた。
色白で、例えて言うと、ガリガリに痩せたナマコのような外見だ。
フィジカルの能力は絶望的。

しかしその男は努力の出来る天才だった。
とにかく云われたことをやる、やろうとする。
出来なくてもやる、途中でやめない。
少し足りないんじゃないかと心配になる頭なのだが、
単純なだけに、サボったり手を抜いたり
誤魔化したりといった発想が先ずない。

この男が云われた通り、最も過酷といわれる
手を止めない連打の練習をする。
ただでさえ過酷な特別な練習方法で、
これを続けられる強者は稀な訳だが、
それをこの男がやる。

打って打って、打ち続ける。
動かない体を無理に動かそうというのだから、
スタミナの練習はとにかく過酷だ。
気を抜けばすぐに体は休もうとするので
精神の緊張を一瞬も緩めず、
ある種の発狂の状態を保たねばならない。
これをこの男がやろうとするのだ。

懸命に打ち続ける。
最初のうちはそこそこに動ける。
しかし、ただでさえ苦しい練習でこの暑さだ。
スタミナが切れてからは
その挙動はとたんに不格好になり、
とにかく、動かない体を無理に動かすのだから
正直、目を覆いたくなるほどの無様な動きになる。
歪んだ顔は汗とヨダレで増々醜悪になって、
意識は半分とんだ状態なので少し失禁もしている。
本人が大真面目に真剣なだけに、
苦しみに喘ぐ声と、溺死寸前のような動きが
その姿をより一層滑稽にしてしまう。
しかしながら、
私は常々彼の懸命の姿は美しいと考えていたし、
周囲も華麗に緊張して彼を見守るのが常となっているのだが、
ある時、これを笑う者がいた。

「君らにこの努力ができるのか?」
とっさに問うた者があった。
「出来るわけないよな。 じゃあ、笑う資格はないぞ。」

質問者は続ける。
「しかし、笑ってしまったからには、同じことをする義務が生じたぞ。
おまえら、やんない限りは今日は帰れないからな!」

私の言いたかったことを的確に言い放ってくれたこの彼もまた、
努力の人であるが故に努力の尊さを笑う者を許せなかったに違いない。




読んでくださった方、ありがとうございます。

全日教養


松下幸之助に、
「一日休養、一日教養」という言葉がある。

週二日の休みのうち、
休養は必要なので一日は休むとして、だが然し!
もう一日はせっかくフリーの時間なんだから、
自分を磨くのにあてようではないか、トいった、
叱咤激励の言葉だったように思う。
(面倒なので詳しくは調べない)

然しこれは、二日間という自由の時間を
半分は甘く、半分は厳しく過ごそうという
万人向けの努力のススメ、といった印象で、
正直いって甘い。

甘いというのは蔑みの言葉ではなく、
半分の努力が出来る人間はもう半分も必ず出来る、という、
要するに、もったいないという点を指摘したく
敢えて厳しい言葉を選んだつもりなのだが、
それならそれで、気取らずにそう云えば余計な誤解も生じないのだから、
ここが私の大いに反省すべき点だ。
…などと、いつも通りに話が本筋から逸れている。

それにしても恐るべきは、
こういう言葉の言い出しっぺ本人は、まず間違いなく
2日の教養では満足していないということだ。
万人に無理のない努力を勧める為に
敢えて甘い提案をしているけども、
こういう人は休日の2日を全力で「教養」しているはずだ。

しかも、残りの5日に於いても、
例の「隙はなくとも隙あらば」を実践しているのではないか、と思う。
忙しい仕事の合間にちょっとした隙間をみつけて
1分でも3分でも抜け目なく勉強する、というあれだ。

こういったことは既に習慣化されているので、
本人にしてみれば当たり前のことすぎて
敢えて特筆もしない。
毎日の生活態度の基礎に、既に努力が組み込まれている。
休日の過ごし方も、推して知るべしなのだ。

まず間違いなく、なんて書いちゃったけども、
まぁ、完全な当て推量であります。
然し、偉人に夢を見てそれを無邪気に目指すことが出来るのは、
一般人の特権ともいえますので、
ここは大目に見ていただきましょう。
私も又、全日教養を目指す使徒の一人であります。



読んでくださった方、ありがとうございます。

ある一日


今年に入ってからは
安定した日々が続いているような気がする。
新しい部署に移ってから
漸く仕事の骨(コツ)に手がかかった感がある。
しっかり掴んで自分の血肉と出来るのも
時間の問題だろう、などと考えているが、
否、油断は禁物なので、矢張り努力は怠れない。
努力を怠れば後退。
同じ場所に立っていたければ、常に走っていなければならない。
努力は人生の充実。
努力は才無き者に残された最後の希望。
赤の女王、幸田露伴。

窓の外がやけに明るい。
真っ青な空のところどころに
ポカンと浮かぶ白い雲。
瀬戸内の小島群のようだ。
空の海は明るく浅い。
太宰治ではないけど、
舟を浮かべたくなるくらいに綺麗だ。

そう云えば今年2019年は、
太宰治の誕生から110年なのだそうだ。
敬愛する太宰治。
私は親しみを込めてスーパースターと呼んでいる。
何度か書いたと思うが、
彼の本領は「人間失格」のような
わざとらしく醜いナルシズムの記号化作品ではなく、
「眉山」や「黄金風景」、「東京だより」「パンドラの匣」のような
市井の人間の慎み深い、ちょっとした美の表現にある。
彼の目は、人の素朴さと狡さ、厳粛と滑稽、
それらを包括した一つの何と云うか、
生きた人間の美を写実的に追い続けた。

嘘、嘘、そんな奇怪な理屈ではない。
「貧の意地」に登場する貧乏浪人たちは、
そんな小賢しい考えでは描かれていない。
素の人間、ちょっと気取って
懸命に爪先立ちで見栄を張りながら
力いっぱいに生きる人間たち。その美しさ。
人間賛歌、これが太宰治の本領だ。

とりとめもなくことを自由に書いた。
心に浮かぶよしなし事だか何だかを
ただ書き続けるのは意外と楽しい。
窓の外は明るい青空。
舟を浮かべたくなるほどに綺麗だ。





読んでくださった方、ありがとうございます。



6年前の夜


そらが亡くなる少し前、
夜中にお散歩に行くことが何回かあった。

深夜、目を覚ましたそらが
玄関のドアをガチャガチャと押して外に出たがるので
慌てて身支度をしてお散歩に出たものだが、
歩き方がいつもと違って
ウキウキとした歩調の代わりに
なにか焦ったような小走りだったのを覚えている。

突然、止まる。
泰然と何事か考えているような表情で、
一歩たりとも動かずに立ち尽くす。
農道の四つ角の真ん中に
静かな表情で凝っと立っていたそら。
今思うと、迫りくる運命を知っていたのかも知れない。
そんな顔だった。
しかし悲しく痛ましいものではなく、
何か、人生の意味を理解した
全てを悟りきったような落ち着いた表情だった。
そらが歩き出すまで彼の背中を撫でていた。

ワンコは心が綺麗なぶん、
私たち人間よりも神様に近い存在なのだと思う。
そらは全てを知っていた。
大いなる存在と対話していたからだ。



読んでくださった方、ありがとうございます。

6年


死生存亡の一体。
死と生は一体であり決して離して考えることは出来ない、
故に、何かを失う時には必ず何かが生ずる、という考え方だ。
古い中国の賢人に由来する。

そらが現世を去ってから明日で6年だ。
失うものがあまりにも大きすぎて
ただ呆然とふらつきながら生きてきたが、
生じたものがなんだったのかト考えてみると、
落ち着いて考えてみると、
私の頭上に青空の如くに広がって
いつも見守ってくれている大きな愛を
感じることが出来る。

いつもそこにあって、
それがあまりに当たり前だったが故に
気づかなかった愛、青空のそら、自然のなかのそら。

死生存亡の一体、とは、
死と生に本質的な違いはない、という考えなのかも知れない。
なんにしても、
私は今もこうして、花そらと一緒に歩いている。



読んでくださった方、ありがとうございます。



新九郎譚 「ストレスはプロセス」


新九郎君の話が続きます。

彼のオフィスの米人たちが
如何に明るくポジティブに生きているかを
お話ししました。
そんな中にあっても、
どうしても重大で難しい仕事を任せられた者は
Easy day!ではすまなくなる場合もあるそうです。

若きTさんが正にそれで、
ある極めて厳粛なイベントを取り仕切ることになった時、
経験の薄さから準備には大いに苦労することとなり、
不安とプレッシャーで
眉間に縦皺の消えない日が続いたのだそうです。

そんな時、あるベテランが発したこの短い一言が、
彼の余計な緊張をほぐします。
「ストレスはプロセス。」

そうです。
何かを成し遂げようとしたら
必ずストレスはついて回るものなのです。
その事実を落ち着いて
改めて認識することにより、
ストレスを受け入れることが
(ある程度は)出来るようになるわけです。
米人たちが陽気なのは、
陽気でいる自分を保つ術を知っているからなのでしょう。

若くしてある一定の立場を持ったために
苦労も多いTさんですが、
こうした所謂、強制レベルアップを繰り返すことにより
これからどんどん成長してゆくはずです。
新九郎君のオフィスは
いつも物語に溢れています。



読んでくださった方、ありがとうございます。

新九郎譚 「Easy Day!」


愉快なネタを提供し続けてくれる
私の素晴らしき友人、
新九郎君から聞いたお話をしましょう。

彼が語る日常のエピソードは、
私の人生のちょっとしたスパイスのようなもので、
自分のなかだけに留めておくのは
実に惜しいので、こうして記録している訳です。

さて、新九郎君は前にもお話しましたが、
米人だけのオフィスに唯一の日本人です。
日本人にない発想を多々学ぶことがあるそうですが、
なかでも彼らの底抜けなポジティブさには
毎度ながら感心させられるとのこと。

以前にもお話しましたが、
大規模な査察に際して部署が窮地に陥った際、
火事に燃える家の中で「This is fine.」と呟くイラストを
グループチャットに掲載して皆で大笑いするなど、
大丈夫か、と問いたくなるほどの
明るさなのだとか。・・・
日本人なら、顔面蒼白、胃に穴を開けて
血を吐きながらの地獄のノイローゼ勤務になるところが、
米人は笑い飛ばして、さぁ、と仕切り直すのです。

私は、真面目で実直な日本人を美しいと考えますが、
その先に思い詰めての不幸な結果が生ずることもあるのならば、
米人のような大らかな心も、ある程度は必要と考えます。
それは生まれついての気性だとか
お国柄などという単純な話ではないようです。
実は私たちにも真似出来る、
考え方ひとつで自分をコントロールする
ある種の技術のように思います。

例えば新九郎君の部署の皆さんが
いつも口にしているというこの言葉、Easy Day!がその最たる例でしょう。
(Easy Day:簡単な一日、転じて、楽勝、トいった意味合いです)

新九郎君は物事を無駄に複雑に考えます。
必要以上に悲観的に考えて、
簡単な話を勝手に困難にしてしまうので、
要するに意味もなく苦しむのが日常になっている様子なのですが、
その光景に慣れている米人にいつもこう云われるそうです。

「シンクロウ、その件はコレコレこうだから、こうすれば解決だろう?
ほらね、Easy Day!」

チームで難しい取り組みをする前は必ず、
「これは、こういう段取りでこうアプローチし、こうすればOKだ!
Easy Day!」

「あ~、それならこれでいいだろう。
もう片付いた、Easy Day!」

「Easy Day! Easy Day!」

何かの説明の最後に必ず発せられるこのフレーズ。
新九郎君曰く、
目の前の困難に対して
肩肘張って無駄に身構えていたものが
一気に軟化してゆく魔法の言葉、なのだとか。

米人たちは、こういったちょっとしたコツをもって、
自分たちをリラックスさせてポジティブを保っているようです。
悶々とした負のスパイラル思考に陥らないように、
要所々々で歯止めをかけているのでしょう。
笑い飛ばして、Easy Day!

なるほど。
緊張を和らげるトリガーとなる言葉を
日常から使っていれば、
ある種の儀式のようなものでしょうから
いざという時に上手く機能するかも知れません。





読んでくださった方、ありがとうございます。











お坊さん


私はよく僧侶に間違われる。

これは、身体から発する徳の成せる技である、などと
でたらめを語っても仕方ないので正直に云うが、
要するに坊主頭、というだけの話だ。

ある時、花そらと一緒に公園の丘に座っていると、
小学生の男児が隣に座ってきて曰く、
「おじさん、お坊さん?」

男児の真剣な眼差しに圧倒されて
少々しどろもどろになりながらも
残念ながら違う旨を伝えた。

「じゃ、トラックの運転手?」
普通車のバックでの車庫入れもままならない私には
トラックという長い車体を、
空間を認識しつつ操ることなどまず不可能だ。
これも否定した。
大型車両の運転には特殊な技術が必要で
習得には訓練を要するものだろうし、アレコレあれこれ、などと
動転して訳の分からない演説をする自分を
男児は不思議そうに見ていた。

またある時、近所のお寺にお参りして自転車で帰る際、
下校する小学生の列に出くわした。
「お寺のお坊さんだ!」
一人が叫ぶと、他の全員がやまびこのように叫びだす。
「お坊さんだ!」
「お坊さんだ!」
「おーい!お坊さーん!!」

なんと、全員が手を振りながら全力で走って追ってくる。
一人ひとりが眩しいばかりの笑顔だ。
私は咄嗟に、この子たちの夢を壊してはならない、などと、
妙な義務感に背筋を伸ばして
精一杯の笑顔を作って手を振り手を振り、
そのまま走り去ったのだった。






この他、あるスポーツ選手に間違われることが
本当に、頻繁に、もううんざりするほどあって、
こちらは冗談で語れないほど深刻だ。・・・


読んでくださった方、ありがとうございます。


表現


敬愛する太宰治の小説のなかで、
私が特に気に入っているフレーズがある。

思わず着ているものを引き裂いて
金盥を打ち鳴らしながら
奇声を上げて外へ飛び出しそうになった、
トいった意味合いのものであるが、
これは登場人物が、どうしようもなく恥ずかしい場面に出くわした時、
取り乱して発狂する一歩手前の心境を表したもので、
先にも書いたが、私はこの乱れっぷりが好きで
自分でもよく口にしているほどだ。

「いやぁ、思わず金盥を打ち鳴らしながら走り回りそうになっちゃったよ。」
このように使う。

hana ordinary 花「講釈いらねーからwww」


この金盥~の他にも、
憤怒をもってかなぐり捨てた、などがお気に入りであるが、
これは、粋を気取ってつま先立ちの見栄を張る主人公が
東北の出身を言い当てられた際に、
着ていたお洒落着を脱ぎ捨てた場面で使われたものであり、
一見シリアスなのだけど、ユーモアの隠し味に、
読み手は思わず苦笑いする。

sora mumu そら「そこは涙の場面でしゅ!」


さて・・・
この二つが私の大のお気に入りであるが、
実はここにもう一つ重大なフレーズが加わることとなった。

鉄球のような軽蔑が膀胱を直撃し
熱湯のような尿と自己嫌悪が逆流して
口から噴出しそうになった
(といった意味合い)

このところ、南直哉さんの著書を読み返しているのだが、
そこで出会ったこののフレーズ、
先の二つを遥かに凌駕するインパクトだ。

これは、南さんが子供の頃に、
テストの答案用に施したちょっとした細工を
教師に見破られた際に感じた心境で、
気まずさと恥ずかしさと自己嫌悪といたたまれなさに、
頭の中が凄まじい恐慌状態になっているのがよくわかる。
本当に、こう、思わず金盥を打ち鳴らしたくなってしまうほどに、
読んでいる方が苦しくなるほどだ。

太宰治は一見すると私小説に見えるけども、
あれは計算されて作り上げられたキャラクターなのだと思う。
そして、筆で食っている以上は、表現も調整しているはずだ。
ところが、南さんは小説家ではないので
架空のキャラクターを作り上げる必要もなければ
表現を程よく調整する必要もなく、即ち、全てがリアルだ。
そのリアルさ故に、文章に凄惨さが加わり、
より一層のインパクトを生み出しているのだと思う訳であるが、
いやはや、この鉄球~噴出の見事な流れに
思わず感動して書き留めてしまった次第。




読んでくださった方、ありがとうございます。

続々・成仏


ここまで私の心に大きなインパクトを残したお話は
もう一度読み直さねばならない。
重大な本は本棚の特別なセクションに並べあるので
すぐに取り出せる。
この後早速手を伸ばすつもりだ。

さて、南直哉さんの著書とは、新書の「恐山」が出会いで、
その後、Amaz〇n のサーチにヒットする本は
全て拝読させていただいた。

しかし、どれも内容が難解で哲学的な思考を要する為、
感覚人間の私が果たして十分に理解できたかトいうと、
少々、いや、かなり怪しい。
ニーチェを原文で読むような感覚に
何度も挫けそうになったけども、
何か得体の知れない強烈な力場に惹かれて
読み続けてきた。
ものすごく重大な人生の何かを語ってらっしゃるはずなのに、
それが何なのか、思考の足りない私には明確にわからない。
なぜ私はこんなに頭が悪いのか。。

昔、三島由紀夫をとりあげた映画で、
森田必勝がユッキーに向かって同じ悩みを打ち明けるシーンがあった。
「私は先生の考えを愛し、心の底から尊敬しているのだけども、
書かれている文章の意味がわからない、わからないのです!」
(セリフはうろ覚えです)

難しすぎてわからない、理解したいのに出来ない、ト、
悲しい自分を打ち明けて涙する弟子を
ユッキーは静かに微笑んで受け入れる名シーンだが、
私にもこの気持ちがわかってしまう。
自分に対する苛立ちと焦燥と戸惑い。
なんで自分はこんなに出来ないんだ、という
どうしようもない怒り。

私は無駄に気位だけ高いので
こういった告白を人前ですることはないが、
心の中ではいつも歯ぎしりしていて
南直哉さんの著書に相対する際は
常にこの感覚を感じることになるので
実は少々悔しかったりもする。

なるほど、わからん。

難解な掛け軸の書を前に
夏目漱石が漏らしたこのセリフ。
私の人生のいたるところにあってほとほと困ったものだが、
南さんの著書については、
諦めずにいつか理解できるようになれば、と努力を続ける心持。



読んでくださった方、ありがとうございます。

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