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表現


敬愛する太宰治の小説のなかで、
私が特に気に入っているフレーズがある。

思わず着ているものを引き裂いて
金盥を打ち鳴らしながら
奇声を上げて外へ飛び出しそうになった、
トいった意味合いのものであるが、
これは登場人物が、どうしようもなく恥ずかしい場面に出くわした時、
取り乱して発狂する一歩手前の心境を表したもので、
先にも書いたが、私はこの乱れっぷりが好きで
自分でもよく口にしているほどだ。

「いやぁ、思わず金盥を打ち鳴らしながら走り回りそうになっちゃったよ。」
このように使う。

hana ordinary 花「講釈いらねーからwww」


この金盥~の他にも、
憤怒をもってかなぐり捨てた、などがお気に入りであるが、
これは、粋を気取ってつま先立ちの見栄を張る主人公が
東北の出身を言い当てられた際に、
着ていたお洒落着を脱ぎ捨てた場面で使われたものであり、
一見シリアスなのだけど、ユーモアの隠し味に、
読み手は思わず苦笑いする。

sora mumu そら「そこは涙の場面でしゅ!」


さて・・・
この二つが私の大のお気に入りであるが、
実はここにもう一つ重大なフレーズが加わることとなった。

鉄球のような軽蔑が膀胱を直撃し
熱湯のような尿と自己嫌悪が逆流して
口から噴出しそうになった
(といった意味合い)

このところ、南直哉さんの著書を読み返しているのだが、
そこで出会ったこののフレーズ、
先の二つを遥かに凌駕するインパクトだ。

これは、南さんが子供の頃に、
テストの答案用に施したちょっとした細工を
教師に見破られた際に感じた心境で、
気まずさと恥ずかしさと自己嫌悪といたたまれなさに、
頭の中が凄まじい恐慌状態になっているのがよくわかる。
本当に、こう、思わず金盥を打ち鳴らしたくなってしまうほどに、
読んでいる方が苦しくなるほどだ。

太宰治は一見すると私小説に見えるけども、
あれは計算されて作り上げられたキャラクターなのだと思う。
そして、筆で食っている以上は、表現も調整しているはずだ。
ところが、南さんは小説家ではないので
架空のキャラクターを作り上げる必要もなければ
表現を程よく調整する必要もなく、即ち、全てがリアルだ。
そのリアルさ故に、文章に凄惨さが加わり、
より一層のインパクトを生み出しているのだと思う訳であるが、
いやはや、この鉄球~噴出の見事な流れに
思わず感動して書き留めてしまった次第。




読んでくださった方、ありがとうございます。

続々・成仏


ここまで私の心に大きなインパクトを残したお話は
もう一度読み直さねばならない。
重大な本は本棚の特別なセクションに並べあるので
すぐに取り出せる。
この後早速手を伸ばすつもりだ。

さて、南直哉さんの著書とは、新書の「恐山」が出会いで、
その後、Amaz〇n のサーチにヒットする本は
全て拝読させていただいた。

しかし、どれも内容が難解で哲学的な思考を要する為、
感覚人間の私が果たして十分に理解できたかトいうと、
少々、いや、かなり怪しい。
ニーチェを原文で読むような感覚に
何度も挫けそうになったけども、
何か得体の知れない強烈な力場に惹かれて
読み続けてきた。
ものすごく重大な人生の何かを語ってらっしゃるはずなのに、
それが何なのか、思考の足りない私には明確にわからない。
なぜ私はこんなに頭が悪いのか。。

昔、三島由紀夫をとりあげた映画で、
森田必勝がユッキーに向かって同じ悩みを打ち明けるシーンがあった。
「私は先生の考えを愛し、心の底から尊敬しているのだけども、
書かれている文章の意味がわからない、わからないのです!」
(セリフはうろ覚えです)

難しすぎてわからない、理解したいのに出来ない、ト、
悲しい自分を打ち明けて涙する弟子を
ユッキーは静かに微笑んで受け入れる名シーンだが、
私にもこの気持ちがわかってしまう。
自分に対する苛立ちと焦燥と戸惑い。
なんで自分はこんなに出来ないんだ、という
どうしようもない怒り。

私は無駄に気位だけ高いので
こういった告白を人前ですることはないが、
心の中ではいつも歯ぎしりしていて
南直哉さんの著書に相対する際は
常にこの感覚を感じることになるので
実は少々悔しかったりもする。

なるほど、わからん。

難解な掛け軸の書を前に
夏目漱石が漏らしたこのセリフ。
私の人生のいたるところにあってほとほと困ったものだが、
南さんの著書については、
諦めずにいつか理解できるようになれば、と努力を続ける心持。



読んでくださった方、ありがとうございます。

続・成仏


先の例の最初の方、
毎日お墓に通われた悲しいご婦人は、
このままでは魂が成仏出来ない、と知人に言われて
悩んだ末に著者の僧侶に相談したのだそうだ。

僧侶曰く、
もしもその状態が続きご婦人の健康に害が生ずるようであれば
諭して違う方法を考えることになるかも知れないが、
原則として残された方の気のすむようにさせてあげたかった、と
そんな内容を語ってらしたと思う。
その過程が必要だから行われているのであって、
無理に止めるとかえって歪みが生ずる考えだ、ト私は解釈した。

損失の後は、ある種の過程を経てのちに、漸く平穏にたどり着ける。
無理をして自分をごまかせば、その歪みは必ず、いつかどこかで、
押さえつけられた反動と共に暴発することになるのだ。

私の場合は非番の度に神社やお寺を訪問して
旅立った者たちの魂の安寧を祈った。
この世で生を無事にまっとうできたことを
神仏に感謝し、ご報告し、手を合わせてお祈りをした。
自転車でまわったこの旅は、数年に渡り、
片道2時間程度の範囲にある神仏には
ほぼ、ご報告ができたと思う。
この過程を経て、漸く、ひとつの落ち着きが生じた。


読んでくださった方、ありがとうございます。

成仏


いつかある僧侶の本で読んだ成仏の解釈が
非常に素晴らしかったので記しておきたいと思う。
ただ、目にしたのがずいぶんと昔のことなので
細かくは覚えていない。
したがって、内容に間違いがあってはならないので
著者のお名前を記すことは出来ない。

あるところに子供を亡くした母親があったとする。
その母親は、子供の死後、
雨の日も風の日も毎日お墓に通って、
一日を共にした。
年月が流れ、やがて訪問は毎日である必要がなくなり、
ご自宅の仏壇へのお祈りといった
毎日の生活に重大な影響を及ぼさない
自然な営みへと移り変わっていった。
ここをもってして、成仏、となる。
僧侶はこう語られた。

また別の方は、
失くした子供を投影する等身大の人形を持ち続けた。
その人形には生活の痕跡が見えるほどであり、
生きていた時と同じように接せられたことが明白であった。
しかしある時、その人形は寺へと納められた。
人形が代役を務める必要がなくなったのだ。
即ち、それをもってして成仏。
小林秀雄の「人形」にあったご婦人も
ここに至ったことを願う。

一般に成仏とは、
亡くなった方の魂を主体とするが、
こちらの僧侶は、残された側の心境の変化を以て
成仏としされている。
この点が非常に興味深く、
強く印象に残っている。



読んでくださった方、ありがとうございます。

続・心無罣礙


さて、
意味が云々なんて気にしない、などと書いたが…

こうなってくると、
この「心無罣礙」という言葉が非常に気になってくる。
言葉ではこのままスラスラと続きも出てくるのだが、
はて?果たして意味は・・・

私の般若心経の写経は既に500枚を超え、
そらで書くことも出来るのだけども、
なんと、意味について詳しくは知らない。
いや、見栄が働いてそんな言い方をしてしまったが、
実は本当に理解していないのだ。
要するに、氷で覆われた天体を研究するのに
表面だけ撫でていて、その下の海を無視しているようなものだ。
エウロパやエンケラドゥスに謝らねばなるまい。

話が逸れたが、とにかく、心無罣礙、である。

早速(今更ながら)意味を調べてみた。
いや、言い訳になるが、
以前にも般若心経の全編に渡って
意味は調べているのだ。
しかし、それが身につかないまま現在に至ってしまった訳だが、
決して学問しなかった訳ではなく・・・
などと、延々と言い訳が続きそうなので
ここまでとするが、
この「心無」というのは何となくわかる。
問題は「罣礙」だ。

いろいろと調べてみたが、
直訳から意訳に転じて、
どうやら「煩悩」を指すらしいことはわかった。
般若心経はここから、
心に煩悩無くば故に云々、ト続くので、
なるほど、日めくりカレンダーの教えに繋がっている。

こころに漂う悪意が妄想となり、
結果、自分自身の中に鬼を生じさせて
自らを苦しめることになる。
今の私がこれなので、なんとかしたいと思っていたのだが、

 無罣礙
心を空っぽに

この言葉が重大なヒントとなって
少しだけ前に進めた気がする。

日めくりカレンダーの進行が停滞していたことには
意味があったようだ。

神仏に感謝、である。




読んでくださった方、ありがとうございます。

心無罣礙


自宅にある禅語日めくりカレンダーが更新されず、
早や一週間が経つ。

この日の禅語は、

 無罣礙
心を空っぽにする


ある朝ふと目にとまり、その時は、
ふむ、なるほどな、程度にしか感ずるものがなかったが、
日中、そりが合わないある人物のことを考えて
ムカムカと一人で腹を立てていた時に、
ふと、解説文を思い出した。

概ねこんなことが書いてあったと思う。

禅の修行とは心を空にすることである。
空の心は鏡のように澄みきっているので、
映るのは畢竟、美しいものとなる。

なるほど。
それなら、どんなに嫌なことでも
きっとポジティブに転化されるのだろうから、
無駄に怒りのエネルギーで自分を消耗させなくてすむ訳だ。
これは便利だ。
しかし困った事実がある。

そうだ。
私は修行不足なので心を空にする境地からは
ほど遠いところにあるのだった。
前提が先ず、成り立たないのだ。

よって、私の曇った心の鏡に映る
その人物の姿は、間違いなくぼやけたものとなろう。
もしかしたら、頭に角のある姿かも知れないし、
陰口をまき散らす
狡猾で陰険な光景を想像してしまうかも知れない。
そうすると余計に疲れるだけだ。

ではどうしたらいいのか考えた。

ヒントは既に目にしていた。
「心を空っぽに」
これである。

もう最初から余計なことは考えないことにした。
ムカムカしてきたら、こう自分に呟くのだ。
心無罣礙、心無罣礙!
心を空っぽに!

意味が云々なんて気にしない。
これでずいぶんと楽になった。



読んでくださった方、有難う御座います。








ある一言


SNSなど、なんとなしに見ていると
友人がポストした名言/格言などに
うん、なるほどね・・ などと
独り言で反応することはよくある訳だが、
ハッと目を見開くことはまず少ないだろう。

先日のこと。
週末を前にして例のFaceb〇〇kなるものを
なんとなく眺めていたら、
ある友人の以下のようなポストが目にとまった。

ジーザス・クライストが伏目で微笑み
こんな意味のことを云っている。
「この週末は、あなたの抱えているストレスや悩みを
全て私に預けて、ゆっくりと休みなさい。」

私はその時、次の週の予定に気が重く
とても週末を楽しむという気分ではなかったのだが、
この一言でずいぶんと救われた気がした。

予定はしっかり立てていて
準備は出来ているのだから、
心配ばかりしたって仕方がないのだ。
だから、抱えている不安や心配事やストレスを
全てJesusにお預かりしていただいて
自分は頭を空にすることにした。

これでずいぶんと休めたと思う。

私は神仏に甘えることが多いけども、
そのぶん結果を出せるように励もうと思う。




読んでくださった方、有難う御座います。

私と大山


つい先日の話。
自転車で約10分の場所へ所要があって出向し、
その帰り道でのこと。
ふと大山に目をやると
山の8分目辺りがキラリと光った。

私は何故だかそれを大山のウィンクだと感じ、
心の中で浮かれあがって、
「あぁ、大山が私を応援してくれている!」
などと、一人ぽっと頬を染めて、
自転車のペダルに一層の力を込めた。
矢張り大山は女性的な優しさを持っていて、
こうして私を祝福してくれるのだ、などと考え、
うむ、と頷き納得した。
初春の風はまだ冷たくも心地よい。

さて、小躍りで階段を上がってオフィスへ着き、
カバンを置いて、ふぅと一息ついた時、
漂う幸福感を貫く霹靂が一閃。

あっ!
なんと私は雑用をこなして満足し、
メインとなる要件を完全に忘れていたのだ。

再び出向となってから、その道で気づいた。
先だって私がウィンクと勘違いしたものは、
大山からの問いかけのサインに違いなかった。
「おいおい、何か忘れてやしないかい?」

まったく・・・
ウィンクだなんて甘っちょろいことを
云ってるんじゃないよ。

呆れ顔の大山が目に浮かんでしまったが、
対話を感じた気がして、
それはそれで、十分に貴重な経験だった、と、
やっぱり頬を染めた私であった。
なるほど春の到来を実感。




読んでくださった方、ありがとうございます。




雪の大山


一日降り続いた雨は
3月だというのに肌を切り裂くような
厳しい冷たさであったので、
次の日の朝は丹沢の雪化粧を期待していたら、
案の定、大山も周囲の山々も、
真っ白な雪に覆われて、
透明に輝く朝日に照らされたその姿は
ほとんんど蓬莱の神の地であるかの如くに見えた。

私は大山に向かって丁寧にお辞儀をし、
おはようございます、大山! ト、小さく呟き、
職場へ向かって張り切って自転車を飛ばした。
今冬で雪の大山をみるのはこれできっと最後だろう。
そう思うと少し悲しい気もするが
大山はいつも大山で、
その姿が消え去ることはない。

ちらりと横眼で大山の姿をみる。
大山はいつもそこにあって、
いつも私を見守ってくれている。

春霞のむこうで、
夏の濃い緑に覆われ、
秋の夕日を背に、
そして冬の雪に覆われながら、
大山はいつも私を見守ってくれている。



読んでくださった方、有難う御座います。

永遠の記憶


確かにこの腕に抱きとめて決して放すことはない。

そう信じていた子らは、
いとも簡単に私の抱擁をすり抜けた。
あっさりと手の届かないところへ行ってしまった。
あの日、私はもう二度と、
過去が蘇る事はないと痛感した。
消して同じにはならないのだ。

併し、共に過ごしたあの日々は現実だ。
決して無くなることはないし、
消え去ることもない。
その記憶は天のサンタマリアに守られて
私の中で永遠の輝きを放ち続ける。

私の求めた永遠は完成していた。



いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。


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