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新九郎譚 「思い出は温めるもの」


ここまで映画「ひまわり」の話をしてきました。
美しい記憶を再体験しようと
うっかり本物の映画を観てしまったものだから、
長年に渡って作り上げたイメージを
壊すことになってしまった、という、
少々情けない話ではありましたが、
時として虚実を虚実のままで信じきることは
幸せなのかも知れません。
大概、真実なんて知らないほうが
幸せなものなのですから。

ト、こんな話を
私の良き友人、新九郎君にしてみましたところ、
彼も似たような話を最近聞いた、とのことでした。
なんでも、彼の同僚である米人から聞いた話だそうですが、
ことは所謂SNS、〇ェイス〇ックなるものに関することだそうで、
うっかり過去を探求してしまったばかりに生じた
ある悲劇(?)のお話でした。

新九郎くんの友人、仮にKとしましょう。
ある時、KはこのSNSを使って
遠い昔の恋人を探すことを思いつきました。
米人というのは、たとえ名前が変わっても
このSNSには旧姓を記載している方が多いと聞きます。
検索にかかりやすいようにするのでしょうが、
これは歩いてきた遠い道のりに
花びらを落としてくるようなものなので、
探したいと思う人があれば
簡単に見つけることが出来るのだそうです。

とにかく、Kは容易に目標となる人物を発見したそうです。
Kは10年以上に渡ってその人物を思い続け、
結婚して子供が出来ても忘れることが出来ず、
その美しい姿は年月を重ねるごとに
いよいよ神格化されて
もうどうにもならないくらいに
確固たる存在となっていったとのことでしたので
発見の際の彼の狂喜は尋常でなかったでしょう。
その存在自体は確かに「過去」なのですが、
彼女を思う気持ちは「現在」なのです。

さて、元来過去とは、静かに佇むだけのシロクロの存在です。
それが今、SNSというツールを以て彩色され、
現実として動き出すのです。
諦めていた過去と夢でしかなかった現在に
不自然な接点が生じた訳ですが、
時間の摂理に逆らうこの行為が
果たしてKを幸福にしたのでしょうか?
新九郎君に聞いてみましょう。

曰く、Kは年月の残酷を知った、とのことでした。

呆れた話ですが、要は、
Kは、勝手に理想の人物像を作り上げて、
勝手に探して勝手にがっかりしたということです。
Kにとって、思い出は追及すべきものではなく
温めておくべきものだったのです。

SNSを貶めるつもりはないので一応記しますが、
今回のお話は悪い一例で、
多くの利用者は新九郎君のように古い友人を見つけて
旧交を温めるという良い使い方をしているようです。
まぁ、手段とは常に使いようだし、使う人次第ということです。





読んでくださった方、ありがとうございます。
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続 ひまわりDEC18


私のなかの映画「ひまわり」は
永遠に自分バージョンのままであろう。

何故なら、ひまわりは長年に渡って私の中で
美しくありすぎたので、
今更オリジナル本編の内容を受け入れられないからだ。

ひまわりとは、こうでなくてはならないという
確固たるイメージが既に出来上がっている。
このイメージとは、とても悲しく、
悲しいが故に更に際立つ美しさを根拠としているので、
ある意味の聖なる存在に近いもののような気がする。
要するに、汚されたくない過去の美しい記憶、
それが(私にとっての)映画「ひまわり」だ。

ところが、である。
その記憶を追体験しようと、
うっかりDVDなどを買ってしまったものだから、
恐ろしい現実と相対することとなってしまった。
私の美しい記憶は、ある意味完全に否定されて、
理想を追い求める虚しさを思い知らされることとなった。

現実とは常に期待を裏切るもの。
夢を見ているだけのほうが
幸せであるのかも知れないが、
どうしても現実に期待を抱いて
迂闊な一歩を踏み出してしまう為、
人はいつも打ちひしがれる。

もうなんだか、
なんの話だかわからなくなってしまった。




読んでくださった方、ありがとうございます。


ひまわり DEC18



前回の話にちょっとだけでた、
映画「ひまわり」。
戦死したと伝えられた恋人を探し、
遠いロシアの地へ旅する悲しい女性の物語だ。

鑑賞したのは最早30年以上前であり、
懐かしさもあって、ふと、DVDを購入してみた。
そして驚いた。

長年の間になんと、私の心のなかで、
内容がすっかり改変され、アレンジがかかり、
もう完全に違う映画になってしまっていたのだ。

そもそも、私の中のソフィア・ローレンは、
可憐でおとなしく、日本的なか弱い、
おくゆかしい女性であったはずなのに、どうも違う。
本編に於いては
役所で係員を怒鳴りつけるほどの
豪快な女傑であって、しかも、
なかなかに開放的で、
離れ離れになる恋人との出会いも、
なんだかビーチで出会ってそのまま懇ろ、といった流れで
その後の別れに、いまひとつ、こう、同情出来ない。
もっと歴史ある、
時間を積み重ねたカップルだった気がしたのだが、
どうも、まぁ、違っていた。

こんな調子で、終始、記憶とは悉く
異なった展開が続いていって、驚いてしまった。

そして、最大の問題点はラストだ。
私の知る「ひまわり」は、
最後に傷心のソフィア・ローレンが
汽車からふと見た窓の外には、
美しひまわりの畑が一面に広がっていて、
そのまま幕を閉じる感動のラスト・・・ のハズだった。
ところが、その後、蛇足とも思えるエピソードが延々と続き、
なんだか正直、美しく簡潔に終わらなかった印象だ。

とにかく、驚いたのは自分自身の記憶のねつ造だ。
どうも、あのポスターの印象から
自分の理想のストーリーを長年にかけてでっちあげ、
熟成し、本物と疑わないほどに信じ込んでいたらしい。
本当はこうだったけど、こうであって欲しかった、という
願望もあったのかも知れない。

私バージョンのラストシーンでは、
ひまわり畑から段々とカメラが引いていって
広大なロシアの大地を映し出し、暗転したところで、
Fin の文字が筆記で記される細部まで記憶にあるのだから
もう、呆れるばかりである。
因みに、後にDVDを見直した時の記憶でさえ、
実はもう10年くらい前になるのでかなり怪しいという始末だ。

「ひまわり」は、私の心の中の、
素晴らしき映画トップ10の上位にランクされている。

にも関わらず、
私はオリジナルの「ひまわり」からは
緩やかに目を反らし、
このまま自分バージョンに
こだわり続けてゆくのだろうが、
これも、まぁ、ひとつの楽しみ方。






読んでくださった方、ありがとうございます。

菜の花


年末、近所を自転車で走っていて
菜の花畑に出くわした。

菜の花といえば春のイメージだ。
枯れ草色の景色の所々に
アクセントのように咲く黄色が、
数日のうちにあっという間に広がって
こうして私たちは春の到来を実感する。
空は限りなく青く、地には菜の花が広がり、
そして花そらは
天然のサラダバーだと云わんばかりに
菜の花を夢中で食べていた・・・
私にとっては非常に思い出深い花だ。

まさか12月に菜の花を見れるとは考えていなかったので、
私は一瞬、面食らって、とまどい、
それから徐々に湧き上がってきた感動に
心地よく浸った。

ひまわり畑を見つめるソフィア・ローレン。
私はまさにそんな心境で、
迂闊にも、心のなかに、
映画「ひまわり」のテーマが流れてしまった・・・

という、ある冬の一日。




読んでくださった方、ありがとうございます。

ひとつの幸福


夢を見た。

花とそらと一緒に
涼しい川沿いの公園を散歩する夢だった。

以前ならば、
夢の中に描かれるこの美しい絵画は、
目が覚めれば間近に見る事が出来た。
幸福の額縁にしっかりと収まったこの絵は、
かつてこの世にあり、現前しており、
当たり前のように手に触れる事が出来た。
然し、その絵は最早永遠に失われた。
見る事も出来ず、形を成す事もなく、過去に静かに佇むのみなのだ。

今昔の差と、此処まで5年の間の風雨を思い、
過去が未だに現在であると錯覚しながら
私は自らを過ぎ去った日々に閉じ込める事に決めた。

過去に生きる静寂の人生。
これも又、ひとつの幸福の形であるのだ。





いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。


新九郎譚 「You are my son」


さて、我らが新九郎君は
いつも悪い事ばかりしている訳ではありません。

常識がないとか無鉄砲とか、
まるで伊予松山あたりに赴任した
例の教師のように云われていますけども、
いいところだってあるんです。

あれでなかなか義侠心があって
たまにそれを発揮することもあり、
人助けに首を突っ込む事だってあるくらいです。
勿論、常に全力、猪突猛進なので
良かれと思って行ったことが
どう結果に結びつくかは
神のみぞ知るといったところですが、
手抜きというものがないだけに
その行動には人の心に訴える力があると、
私はそう信じています。

今日は、
新九郎君のこんな話をしましょう。

先日、
新九郎君の10年来の親友(米人)が離婚の危機を迎え、
相手方(日本人女性)のご家族と
話し合いをすることになりました。
話をしっかり理解したいというご家族の希望があり、
第三者の通訳が必要ということで、
新九郎君に白羽の矢が立った訳ですが、
よく知った仲の、それも特別に気の合う友人の
離婚ということで…

いつもエネルギッシュな新九郎君が
なんだかボンヤリとしていたのを
私はよく覚えています。

こういった話し合いに於いては、
中に立つ者は双方の感情を
まともに受ける訳ですから、
その心的負担というのは想像以上です。
私にも経験がありますけども、
美しい海を汚す流出した重油のように
感情のぶつかり合いは
精神を荒々しく汚染します。
深淵も又等しくこちらを見返すに近い理屈です。

しかも良く知った者の関係なのですから
その負担ははかり知れないでしょう。

さて、話し合いの内容については
決して明かされることはありませんでしたけども、
その後の新九郎君の様子から
決して呑気ではすまされないものと伺えました。

しかしその長い、数時間に及んだ話し合いの中で、
一瞬だけ、
破壊され、廃墟となった町の片隅に
ひっそりと咲いた一輪の花のような
美しい場面があった、と、
傷心の新九郎君が
以下の如くに語ってくれました。

話し合いもいよいよ終盤となった際のことです。
離婚という言葉が皆の心を支配し
最悪の結末を予感しつつ、押し黙る中、
日本人妻方のお母さまが一言、
こうおっしゃったのだそうです。

「これからも私達はあなたを息子だと思っています。
あなたは私たちの息子よ。」

新九郎君は役割から一瞬通訳しそうになりましたが、
然し咄嗟に思いとどまり、通訳しなかったそうです。
何故なら、
言葉は訳せても気持ちまでは訳せないからです。
ここでは明らかに、伝えようとしているのは心です。
「お母さま、それは直接彼に云ってあげて下さい。」

「あなたは私達の息子よ、わかる?
 You are my son. You are my son. 」

気持ちは確かに伝わったようでした。
この言葉に顔を紅潮させて涙を流す彼に、
新九郎君は、
嵐の後で漸く差した陽射しを見た気がしたそうです。

今回のお話はここまでです。




いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。

読書


私の毎日は読書と共にある。
書は師であり友であり、私自身であり、
欠かすことの出来ない暇つぶしの道具でもあったり、
現実を押し付けてくるおせっかいな存在で、
同時に現実から逃避させてくれる救いでもある。
要するに、
なくてはならない人生の伴侶だ。

ハムレットにオフィーリア、
藺相如と廉頗、
助さんといえば格さん、といったほどの
切っても切り離せない存在、それが書だ。
これだけ言っても、まだ言い足りない。

さて、ここ数か月の疲労困憊の日々に
どうにも気分がすぐれなかった。
自分の能力に疑問が生じ
自信の根底が揺らぐ事態が続いた。
こんな時は三島由紀夫だ。
三島由紀夫の格調高い文章を読めば
なんだか自分が優秀であると錯覚できるので
きっと調子も戻るだろうと画策し、
すわ!と一冊取ってみたが、
なんと、拡張が高すぎて
読み進む気力が続かない。

よかろう、ならば、と、
今度は川端康成を手にした。
川端康成の静かな文章に浸りたい、などと
ある種、泣く子が母親に甘えるような姿勢で本を開いた。
淡々とした刺激のない、淡い色彩の美しい風景がひろがる。
人々は誠実に、懸命に生きている。
史記などには決して登場することのない
名もなき市井の人々。
一人ひとりに感情があり、思いがあり、人生があって、
そのひたむきな姿は私に勇気を与えてくれる。
登場人物の上品な言葉遣いも大きなポイントだ。

なるほど、今風の表現をかりれば、これは癒しの文章だ。
早朝の澄んだ森林に漂う霧のような清々しさだ。
今更ながら、回復の書を発見した。




読んでくださった方、ありがとうございます。


写経 後半


さぁ、いよいよ後半である。
前半は文字の大きさの調整に難儀した。
後半は前の行と見比べながらなので
文字のサイズには微調整がきいてくる。
上から下まで(ほぼ)同じサイズの文字が
(だいたい)整然と並び、
一行に(概ね)美しくおさまっている。
この時点で最大の問題は解決している。
(かのように見えなくもない)

さて後半。
後半は後半で実は深刻な問題がある。
苦手な漢字が集中しているのだ。
「夢」「呪」「等」「能」
これらはいずれもバランスが難しい。
「密」「羅」などはバランスが取りやすく、
悪筆の私でもそれなりの見栄えなのだが、
先に挙げた漢字はバランスを取るのが極めて困難で
複雑で厄介だ。
もう、どう練習しても、ダメだ。
そういえば、前半で頻出する
「苦」「菩」などの、ひし形に収める漢字も苦手だ。
結局、どこへいっても苦手な漢字があるようだ。

こうして最後の真言、
羯諦羯諦~にはいってゆくのだが、
このころはもうふっきれていて
字体やバランスにはこだわらなくなる。
のびのびを書けているのが自分でもわかり、
文字も悠々ハツラツとし、楽しい気分にさえなる。
自然、止めや払いに余計な力も入らず
結果として、なんだかそれっぽく見える出来になる。
真言は、書くのもリズミカルだ。

こうして私の写経は出来上がる。

供養のためにはじめたものであるが、
ただ続けることが今では楽しくなってきた。



読んでくださった方、ありがとうございます。





写経 前半


写経が上手くいかない。
既に500枚近く書いてきたのだが、
未だに
字の大きさがうまくいかない。

一行の文字数は決まっている。
きっちり17文字だ。
行の最初から始めて
きっちり17文字。
最後の文字の下に隙間が出来てはならない。
また、スペースが足りなくなって
最後の3文字などが極端に小さくなってもならない。
同じ大きさで同じ間隔、整然としていなければならぬ。

然し、である。
先にも述べたがこれには相当の修練を要するようで、
私などは500枚近くも書き上げていならがら
未だに文字のサイズ調整に難儀している。
最初の一行など、常に、いつも、年がら年中、
開けても暮れても、絶対に何故か、
スペースが足りなくなる。

気が付いた時にはどん詰まりが目前なので、
畢竟、最後の3文字は極端に小さくなる。
バランスが悪いし、何より美しくない。
稚拙で未熟、
他愛もない子供っぽさだ。

二行目にすすむ。
一行目を見ながら、今度は文字を若干小さくする。
一行目の最後にスペースが足りなくなった反省を踏まえ、
間隔で文字のサイズを調整しながら進めてゆくのだが、
ここで大きな障害が生ずる。
「一」という一文字だ。

これは難しい。
ただの横に一本の線が、この文字だ。
書くのはいいだろう。
多少弓なりにしながら、力強く左から右へ。
最後はぐっと踏み込んで終了。
立派な「一」の完成だ。
ところがである。
なまじ単純であるがために、
なんと、この文字は上下の幅をとらない。
今、問題の焦点は
一行の中に如何に17文字をバランスよく収めるか、であるので、
上下の幅を取らない文字がそこに入ると
全体のバランスが崩れてしまうのだ。
要するに、「一」を含む一行は、
他の16文字が多少大きくても
行の最後でスペースが足りなくなることがなくなる。

では、「一」とその前後の文字の間隔を大きくとればよかろう、と
指摘してくださる諸兄もいらっしゃるだろう。
ところが、その調整が微妙で難しい。
私が如何に、進歩とは遠い存在かがわかる。

三行目にかかる。
前の行の文字サイズを参考にしながら進めるのだが、
そうすると又、二行目の「一」が問題になる。
「一」とその横にくる「是」では
縦のサイズが全く違うので、
どうしても「是」のほうが長くなってしまう。
横一列にがそろわないのだ。
これはもう、見えないマス目を書いて調整するしかないのだが、
感覚で生きている私に
そんな器用なことは不可能だ。

こうして様々な問題を抱えながら、
いよいよ後半に突入していくわけだが、
少々長くなったので
今回はこのへんにしておこう。



読んでくださった方、ありがとうございます。

うた



前回、見知らぬ誰かがインターネットに掲載した
廃校の写真の数々と、
朽ちてゆく教室の黒板に記された
ある素晴らしい歌について語った。

改めて、日本の文字文学の素晴らしさに感動した。

流れゆく悠久の時の中で朽ちてゆく母校、
それを現在というポイントに立って見つめている自分。


例の歌は、
決められた文字数で心情を見事に表現していた訳だが
和歌の素晴らしいのはここなのだ。
無駄な装飾が一切なく、必要最低限の言葉で以て、
決められたルールの中で最も効果的に思いを表現する。

まぁ、和歌に限らず俳句や川柳も同じだ。
制限の中で、如何に言葉を選んで、抑揚を工夫し、
己の心情を表現するのか。
これはある種、
ゲームや遊びに通ずるとも考えられるので
気楽で楽しい文学ともなるのだ。
例のお茶商品の川柳など、皆さん楽しんでいて
実に微笑ましい。

こう云うとなんだか
決まりにこだわっているようだが、
これは決して自由律の句を否定している訳ではない。
尾崎放哉のように
心情をそのまま何の細工もなく表現するのも
芸術の極みの一つであるし、
そこに規制がないぶん
かえって自然がそのまま自然というか、
これはもう別のジャンルといって良いくらいなのだから
こちらはこちらで、また、美しい。

私は派手な装飾を好かない。
お金と言葉は無駄に使うな、トいった意味合いの言葉があるが、
シンプル且つ内容の充実したものが
最も美しいと思うし、
そこに文学の極みがあるとも思う。

ちなみに前述の言葉は中国のものであるが、
中国の歌も又、素晴らしい。
漢詩の美しさは芸術であるし、
その技法や平仄に則った整然、しかも、
雄大で且つ繊細な美しさ。
こういった文字文学は世界共通で美しいと思う。
漢詩を読むと一献かたむけたくなるのも、また愉快だ。

しかし私が最も好きな漢詩は
実は怒りの作品である。
所属する組織と決別する際、
己の怒りを漢詩に込めて
壁に殴り書きにして去ってゆく士が
中国の物語にはよく登場するが、
私のような俗人には
その姿がとても崇高に見えて眩しく、
ある種、ヒーローを見上げる少年のような心境になる。

何の話だったのか、かなり本筋から逸れてしまった。
黒板の和歌にもどろう。

作者不詳、山奥の廃墟にひっそりと綴られた
美しい人の痕跡。
血脈の通ずる言葉。

これが達人の作であることは最早疑う余地もなく、
私はただただ、心底、いたって感動してしまい、
在野の賢人とは実在するものなのだなぁ、などと、
膝を打ってうんうんと何度も頷いたのでした。



読んでくださった方、ありがとうございました。

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