新九郎譚「蝉」


夏の終わりは新九郎君を
ちょっぴりメランコリックにさせるそうです。

盛夏の折、
あれほどの隆栄をほこった
蝉たちが

一羽、そしてまた一羽、

乾いた死骸になって
地面に横たわる様は、
まさに虚しい無常を表しますので
まぁ、新九郎君でなくとも
物悲しくなる人はなるでしょう。

蝉は暗い地面の下で何年も、
ただじっと、慎ましく暮らします。
何の贅沢もせず、
何の栄華も望まず、
ただじっと、
身の丈にあった生活を粛々と続けるのみです。

そんな蝉ではありますが、
人生の最後のほんの一瞬、
ついに太陽を目にする時がきます。

もはや、蝉を冷たく重く圧迫する
圧倒的な質量、地面に抑え込まれることもなく、
蝉は自由に、力強く、
この一瞬を満喫するように
どこまでもどこまでも、
高く高く、この大空を思うがままに
飛んで行くのです。
初めて感じた生きる喜びに
全身を満たされながら。。

しかし、蝉は知っています。
この幸福は長くは続かないことを。
だからこそ、
この一瞬が輝いているのだということを。

墜落してゆく仲間たちを横目で見ながら、
蝉はただ、己に許された残り少ない時間を
精一杯に生きるしかありません。
それが蝉の人生…

さて、
夏の終わりにはいつも、
意外にもロマンチストな新九郎君は
この様な思いに耽っている訳ですが、
そんな時は大抵、ガサツな一言が
うっとりした表情の新九郎君を現実に引き戻します。

Awww!うるさい!
ヤツらはいったい何を叫んでいるんだ!?

新九郎君は故あって米国人と職場を共にしています。
無常観など欠片も気にしない米人には、
蝉の悲しさなど理解しようもありません。
出身の州によっては蝉を知らない人もいますので、
ますます無理もない事情となります。

よくわからないけど、たぶん、
Push, Push a hat (突く突く帽子)じゃないかな?

そう、返答する我らが新九郎君は今日もいい加減です。




いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。








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彼岸花


先日、老師のお話に彼岸花の話題がでた。

彼岸花といえば思い出すのが、
そらが亡くなった後に
花と二人きりで歩いた、
丹沢のある小さな小道だ。

そらのいない違和感と、
色を失い花弁を落としはじめた
無残な彼岸花の群れ、
物事の終焉を予感させる薄暗い曇天。
物悲しさの中を私たちは無言で歩いた。

その時になぜか、
山間に見えた大山の姿が
妙に神々しく感ぜられたのを思い出す。

花は凝っと座って、
何事かを考えながら
大山を見上げ、
私はその背をそっと抱いて寄り添った。
そらの死に、
私たちは傷つき疲れていた。


彼岸花の、
あのはっとするほどの鮮烈な赤には
古来より多くの歌が残されているのだという。

その歌は、喪失に係る痛恨の思いが
迫真の力で綴られたものが多い、トいった意味合いの
老師のお話だったので、
私は少々調べるのに躊躇してしまったが、
否、躊躇はしなかったかも知れないが、
そんな悲しい歌に触れてみようと思った
自分に驚きはした。
かつては、
そんなものは遠ざけねばならなかったからだ。

果たして、矢張り悲しい歌ばかりであった。

地に浮かぶその赤い花を
幼子の血に見立て、
咲いた花は
ちょうどその子の(亡くなった)年の数、ト詠む歌などは、
特に彼岸花と死の関係を
生々しく描写していた。

彼岸花の赤は、厳粛な死出の彩なのだ。
従って、あの日、私たちが歩いたあの小道は、
矢張り死んだ後の世界への旅の始点であり、
その先にそびえる大山は
亡くなった者たちの霊が眠る場所なのだと、
私は改めて確信した。





いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。

LUKA 後編


子供というのは100%親に依存して生きている。
だからその親から攻撃を受けると
もうどうにも逃げ場なんてありはしないのだ。
だから、
『現実の自分は実際の自分ではない(これは単なる悪夢だ!)』と信じきようとする
悲しい逃避しか残されていない。

こういった逃避は
「乖離」という現象に結果する。
この言葉を書くだけで、もう胸が痛く指が震えてくるが、
どうしようもない現実の自分を自分ではないとし、
「あの可哀想な子は自分ではない」
という架空の自分、要するに、
『現実の自分を傍観している第三者』つくりあげて
それを『本当の自分』として認識しようとする。
これは当然無意識に行われるので
自分のなかにあるAという人格がBという人格を認識することはない。
つまり、よくある多重人格と自称する人が
いろんな人格を説明するのは嘘っぱちなのだ。

犯罪の言い訳に多重人格云々をいう者の主張は
決して通じはしないし、鼻で笑われるだろう。

人と違った自分を演出したいが為に
くだらない多重人格ファンタジーを語るものは、
乖離性障害、旧:多重人格障害(MPD)、の深刻さを知れば
死ぬほど己を恥じることとなるだろう。

「LUKA」という歌は単なるポピュラーソングでは断じてない。
淡々とした抑揚のない独白に、最初は、
なんだか変わった歌だな~、くらいの印象しか持たなかった。
R.E.M.など米国のアーティスに多くみられるように、
本稿にあげた「LUKA」も、
もうその歌詞を書いたアーティストにしか
意味がわからないという、ある種の芸術性を持った歌だと
誤解していた。

そうではなかった。

最初にこの歌の背景や本当の意味をしった時、
私は戦慄し、しばし言葉を失って硬直していしまった。
そして再度この歌を聴き直し、プロモーションビデオを観て、
正直に告白すると切なさに涙してしまった。

私は直情的であるので、
もうその勢いで本稿を書いている。
したがって、読みにくい箇所もあるとは思うが、
そこは勘弁してもらいたい。






いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。


LUKA 前編


女性のアカペラが静かに流れるなかで
コーヒーを飲むだけの情景。
昔そんなCMがあった。
(すこし大袈裟だが)
80年代を生きた日本人なら誰もがおぼえているだろう。

あの不思議に美しい歌声の主は
スザンヌ・ヴェガという米国カリフォルニアの歌手で、
日本でも、まぁ、件のCMソング(「Tom's Diner」という題)もあり
お馴染みだと思うが、
彼女の「LUKA」という曲については
本邦に於いてどの程度の認知度があるのかはわからない。

どれほど理解されたかもわからない。
何故なら、当時、日本ではまだ
子供の虐待という深刻な社会問題が
それほど表面化していなかったからだ。

私の名前はルカ、
(あなたと同じ集合住宅の)2階に住んでいる。
多分会ったことあるよね。


こういった独白で歌は始まり、
最後まで淡々とこの調子で終わる。
そしてこの「淡々と」が、
この歌を
不思議に厳粛にさせている。

ルカに何が起こっているのか。
歌詞はその現実を伝えない。
ただ、
「何も聞かないで」
この言葉を繰り返すのみだ。

「私は不器用だし、馬鹿(クレイジー)だし、」
これはルカが
日常浴びせられている言葉に相違ない。
だから、
「自尊心を以ての振舞いはしないようにしている。」
(日本語にするのは極めて困難ですが、強いて云えば、
 「(ダメな子だから)出しゃばらないでひっそり生きる」
 くらいの意味になると思います、消極の極みだと感じて下さい)

という言葉が実に自然にでてしまう。

これはもう、正常な子供の姿では断じてない。
本来、のびのびとしているべき子供が、
限界を超えて萎縮しきっていることを意味する。

歌は淡々と進行し、
「私は別に大丈夫だし、
 これはまた、ドアにぶつけただけだし」

トいう悲しい説明の後、

「It's not your business. 」
(「あなたには関係ない」という意味ですが、
 「(関係ないんだから)引っ込んでいろ」という
  攻撃的ニュアンスを含みます)

という、この歌で唯一の強い言葉へと続く。
質問への
苛立ちを隠せない印象だ。

そしてまた淡々と進行し、

「どんな調子?(大丈夫?)なんて聞かないで」
「聞かないで」
「聞かないで」
「聞かないで」
「聞かないで」

「(何を言われても黙って)言い返さない」
「言い返さない」
「言い返さない
「言い返さない」
「言い返さない」


この繰り返しで終わる。

冒頭でも触れたが、
「LUKA」は、虐待をテーマとした歌だ。

この深刻さを当時、
どのくらいの日本人が理解していたか。
ポップな伴奏もあって、
その悲しさに気付いた人は
少なかったんではないだろうか?

だとしたら、
「LUKA」の小さな叫びが聞き流されていたのだとしたら、
それはとても残念なことだ。


もしも興味がわいたら
ひとつ聴いてみていただきたい。
私がそうだったように、
事の本質に気付いてからの理解は
心に準備が出来ているだけに、
より深いものとなるはずだ。



YOU TUBE もありますし、
映像のあるプロモーションビデオがオススメです。









いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。



桜散る


ある春の日、
近所のお寺に寄ったところ
桜が実に美しく咲き誇る・・・ ほんの手前の状態だった。

8分半咲きプラス、といったところだったか。

風に揺れて青空に映えるその姿を
写真に収めておこうと思ったが、
私はその時、
「否、どうせなら満開の姿を撮りたい」などと考え、
カメラを収めてしまった。
桜だって、一番キレイな姿で撮って欲しいはずだ。

そして数日後、
再びそのお寺を訪れると、
あの美しかった桜たちは、
無残にも散ってしまっていた。
地面を覆う、
茶色に変色した姿が痛々しい。
まさに、
明日ありと思う心の仇桜・・・


今日の当たり前を
明日にも期待してはいけない。
今まで何度も経験してきたことだ。

併しそのことを学び、
真に自分の智慧とすることは難しい。






いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。

7分の勝利


信玄公がご遺訓で、
軍勝はおよそ五分が上で、七分が中、十分をもって下と為す、
トいった意味のことをおっしゃっている。

完勝は驕り高ぶりをもたらすという意味で、
しかも相手の面子も潰して
恨みを買うことにもなるのだから、
なるほど、これは真理だ。
洋の東西を問わず、
あらゆる兵法書も同じことを云っている。

さて、私はというと、
歴史や兵法書が好きなので
いろいろと読み漁って知識だけはあるつもりだ。
そして、そう云っているところに
既に驕りがあるわけで、
よくよく考えると勝利の後にはいつも油断し、
そして失敗することが多い。
しかも、相手の面子など考えないばかりか、
徹底的に滅殺することに喜びを感じてしまうので
当然、その後の周囲との関係はぎこちなくなる。
(これは確か、黒田官兵衛が指摘していた)
この周囲、というのが重要で、
一人を潰すことはそれを見ている周囲をも
遠ざけることになる。
<人は常に見ている>

さて、こうして大失敗を繰り返しながら、
気にはしているのだが、それでも学ばず、
そうして今に至るわけだが、
このサイクルには
私特有のもう一つのステップがある。

失敗の後、私は必ず家康公の、
例のしかみ像の前で項垂れる。

このしかみ像自体が、
こうはならないように!トいう
戒めの絵であるのだけれども、
私のほうな凡人はこれを
何度も、何度も、何度も、何度も、
見つめて反省する機会を繰り返してしまっている。

歴史に学ぶ賢者と、経験に学ぶ愚者、
私はその愚者にすらなれていないのが現実だ。


自分で書いていてなんだか笑ってしまった。




いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。




過去は静かに佇む


Good morning♪ Good morning♪
Good morning 花ちゃん♪
Good morning♪ Good morning♪
How are you ぽっくん♪


こう歌いながら花とそらを見つめると、
二人は歌に合わせるかのように
小さくジャンプしながら
嬉しそうに笑ってくれたものだった、最早遠い日々だ。

「未来は躊躇いながら近づき
現在は矢のように飛び去り、
そして過去は永遠に静かに佇んでいる」

これまで
このシラーの言葉を何度も書いてきたが、
今、漸く、その結びの句を
実感によって理解したように思う。

賑やかで幸福だった日々が
この静寂をより一層際立たせる。

花とそらの小さなお位牌のあるこの情景は、
永遠の、

<静かな佇み>


私の永遠は既に完成し、完結していた。










いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。





特訓


このところ実に気分がいい。
小鳥のさえずりと風の音が心地よく、
人も美しくみえるし、
なにより空の青が綺麗だ。
太宰治っぽく云うと、
その空に舟を浮かべたくなるほどに
気分がいい。

さて、その青空のしたで
私はある特訓をすることにした。
この真夏の屋外、
身を焼く紫外線の照射に晒されながら、
公園のベンチで
模試に挑戦することにしたのだ。

この特訓には2つ(+1)の利点がある。
過酷な状況で模試を行うことにより
本番がより楽になるという点と、
時間ごとに熱射病のリスクが増大してゆくので
嫌でも解答速度があがるという点だ。

試験対策に身体的な鍛錬の要素を組み込んだ、
まったく新しいアプローチといえる。

そしてカッコ内のプラス1は、
この特訓によって得られる満足感と達成感、
これが自信に繋がるとう仕組みで、
ここは心理学的アプローチとなるので、
立体的な新規格と云えよう。
まったく隙の無いこの目論見には
我ながら感動する。
青空に舟を浮かべたいほどに晴れやかな気分だ。


さて、実際の成果はどうであるか、というと、
正直なところエアコンの効いた部屋でじっくり学習したほうが
力はつくと思う。
こういった、少年ジャ○プ的な発想の特訓が
実用的でないのは明らかだし、
そもそも外で模試をするのは恥ずかしい。

しかし、夏の間だけの季節ものなのだから、
今はこの試練を楽しんでくるとしよう。





いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。





立ち止まらぬこと


一日サボるのは一日分後退するのと同じことであります。

立ち止まりは後退を意味しますので、
それを諫めるために
「その場に留まる為には全力で走り続けなければならない」、と、
そんな言葉があるくらいです。
本来この言葉はよく進化の仕組みの説明に使われ…
否、元々はルイス・キャロルの「不思議な国のアリス」からの引用ですが。


立ち止まりは後退を意味すると云いました。
想像してみてください。
ある試験を受けようと、
その項目を烈火の如く勉強したとして、
見事受かったとしましょう。
しかしその後は安心して全く学問しなかったとします。
一ヶ月後に同じ試験を受けて受かりましょうか?

運動で筋骨隆々とした体を作り上げたとします。
しかしその後、怠けて遊び暮らしたら、
一ヶ月でおなかが出てしまうでしょう。

継続だけが、保持をもたらすのです。
帰国子女が、身に付けた言語学を失わないために
なるべく外国人と話す機会をつくるのはこの為です。

私は、一度得た勲章を捨てるつもりはありません。
併しそこには(他のどんなことと同じく)常に代価が発生します。
それが継続の努力です。

物質的な財産には常に滅亡の可能性がありますが、
学問のような精神的財産は
本人が努力を続ける限りは決して消滅しないのです。
地に蓄えた財産はいつか滅びるが、
天に蓄えた財産は決して滅びない、ト、聖書も教えています。

とは云え、私は弱い人間なので常にサボる機会を伺っていますし、
勉強の時間になると、ついつい部屋の掃除を始めたりします。
そんな時こそ、
冒頭にあげた言葉で自らを平手打ちするのです。

「その場に留まる為には全力で走り続けなければならない。」





いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。


熊谷直実


有名な一ノ谷に於いて敦盛を討って後、
熊谷直実は法然のもとで出家を果たした。

自分の息子と同年代の敦盛を討ったという事実が
決定打となり出家を決意したそうだが、
そうなるまでには様々な艱難辛苦があり
その果てでの出家だったに違いない。
過冷却の実験を思い出す。

この世はもう、実に無常で、
何もかもが絶えず変化し続けている。
行く川のながれは絶えずしてしかも本の水にあらず、とは、
本当によく云ったものだ。
いつまでもこの倖せが続けばいい、といくら願っても、
決してそうはならないし、
淀みに浮かんでは消える泡のように
命は常に去り行くのみだ。

あの時代の武者と現代の私を決して同列には語れないが、
人の世との交わりを絶ってしまいたい思いは
多少なりともわかる気がする。

併し、この無常というものが世の本質であるのならば、
私たちは決してそこから逃げることは出来ないのだろうし、
こうやって真の人生を知ってゆくのだと思う。
漸くその事実に気付いた今だから、
まだまだ人生はこれからだな、とも思う。
いずれにせよ、
私は直実ほど戦っているわけではないので
出家して人を救う立場に転身する資格もないのだから、
矢張りこの現状で生きてゆくしかない。
この先強くなれるかどうかは、自分次第だ。




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