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6年前の夜


そらが亡くなる少し前、
夜中にお散歩に行くことが何回かあった。

深夜、目を覚ましたそらが
玄関のドアをガチャガチャと押して外に出たがるので
慌てて身支度をしてお散歩に出たものだが、
歩き方がいつもと違って
ウキウキとした歩調の代わりに
なにか焦ったような小走りだったのを覚えている。

突然、止まる。
泰然と何事か考えているような表情で、
一歩たりとも動かずに立ち尽くす。
農道の四つ角の真ん中に
静かな表情で凝っと立っていたそら。
今思うと、迫りくる運命を知っていたのかも知れない。
そんな顔だった。
しかし悲しく痛ましいものではなく、
何か、人生の意味を理解した
全てを悟りきったような落ち着いた表情だった。
そらが歩き出すまで彼の背中を撫でていた。

ワンコは心が綺麗なぶん、
私たち人間よりも神様に近い存在なのだと思う。
そらは全てを知っていた。
大いなる存在と対話していたからだ。



読んでくださった方、ありがとうございます。
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6年


死生存亡の一体。
死と生は一体であり決して離して考えることは出来ない、
故に、何かを失う時には必ず何かが生ずる、という考え方だ。
古い中国の賢人に由来する。

そらが現世を去ってから明日で6年だ。
失うものがあまりにも大きすぎて
ただ呆然とふらつきながら生きてきたが、
生じたものがなんだったのかト考えてみると、
落ち着いて考えてみると、
私の頭上に青空の如くに広がって
いつも見守ってくれている大きな愛を
感じることが出来る。

いつもそこにあって、
それがあまりに当たり前だったが故に
気づかなかった愛、青空のそら、自然のなかのそら。

死生存亡の一体、とは、
死と生に本質的な違いはない、という考えなのかも知れない。
なんにしても、
私は今もこうして、花そらと一緒に歩いている。



読んでくださった方、ありがとうございます。



新九郎譚 「ストレスはプロセス」


新九郎君の話が続きます。

彼のオフィスの米人たちが
如何に明るくポジティブに生きているかを
お話ししました。
そんな中にあっても、
どうしても重大で難しい仕事を任せられた者は
Easy day!ではすまなくなる場合もあるそうです。

若きTさんが正にそれで、
ある極めて厳粛なイベントを取り仕切ることになった時、
経験の薄さから準備には大いに苦労することとなり、
不安とプレッシャーで
眉間に縦皺の消えない日が続いたのだそうです。

そんな時、あるベテランが発したこの短い一言が、
彼の余計な緊張をほぐします。
「ストレスはプロセス。」

そうです。
何かを成し遂げようとしたら
必ずストレスはついて回るものなのです。
その事実を落ち着いて
改めて認識することにより、
ストレスを受け入れることが
(ある程度は)出来るようになるわけです。
米人たちが陽気なのは、
陽気でいる自分を保つ術を知っているからなのでしょう。

若くしてある一定の立場を持ったために
苦労も多いTさんですが、
こうした所謂、強制レベルアップを繰り返すことにより
これからどんどん成長してゆくはずです。
新九郎君のオフィスは
いつも物語に溢れています。



読んでくださった方、ありがとうございます。

新九郎譚 「Easy Day!」


愉快なネタを提供し続けてくれる
私の素晴らしき友人、
新九郎君から聞いたお話をしましょう。

彼が語る日常のエピソードは、
私の人生のちょっとしたスパイスのようなもので、
自分のなかだけに留めておくのは
実に惜しいので、こうして記録している訳です。

さて、新九郎君は前にもお話しましたが、
米人だけのオフィスに唯一の日本人です。
日本人にない発想を多々学ぶことがあるそうですが、
なかでも彼らの底抜けなポジティブさには
毎度ながら感心させられるとのこと。

以前にもお話しましたが、
大規模な査察に際して部署が窮地に陥った際、
火事に燃える家の中で「This is fine.」と呟くイラストを
グループチャットに掲載して皆で大笑いするなど、
大丈夫か、と問いたくなるほどの
明るさなのだとか。・・・
日本人なら、顔面蒼白、胃に穴を開けて
血を吐きながらの地獄のノイローゼ勤務になるところが、
米人は笑い飛ばして、さぁ、と仕切り直すのです。

私は、真面目で実直な日本人を美しいと考えますが、
その先に思い詰めての不幸な結果が生ずることもあるのならば、
米人のような大らかな心も、ある程度は必要と考えます。
それは生まれついての気性だとか
お国柄などという単純な話ではないようです。
実は私たちにも真似出来る、
考え方ひとつで自分をコントロールする
ある種の技術のように思います。

例えば新九郎君の部署の皆さんが
いつも口にしているというこの言葉、Easy Day!がその最たる例でしょう。
(Easy Day:簡単な一日、転じて、楽勝、トいった意味合いです)

新九郎君は物事を無駄に複雑に考えます。
必要以上に悲観的に考えて、
簡単な話を勝手に困難にしてしまうので、
要するに意味もなく苦しむのが日常になっている様子なのですが、
その光景に慣れている米人にいつもこう云われるそうです。

「シンクロウ、その件はコレコレこうだから、こうすれば解決だろう?
ほらね、Easy Day!」

チームで難しい取り組みをする前は必ず、
「これは、こういう段取りでこうアプローチし、こうすればOKだ!
Easy Day!」

「あ~、それならこれでいいだろう。
もう片付いた、Easy Day!」

「Easy Day! Easy Day!」

何かの説明の最後に必ず発せられるこのフレーズ。
新九郎君曰く、
目の前の困難に対して
肩肘張って無駄に身構えていたものが
一気に軟化してゆく魔法の言葉、なのだとか。

米人たちは、こういったちょっとしたコツをもって、
自分たちをリラックスさせてポジティブを保っているようです。
悶々とした負のスパイラル思考に陥らないように、
要所々々で歯止めをかけているのでしょう。
笑い飛ばして、Easy Day!

なるほど。
緊張を和らげるトリガーとなる言葉を
日常から使っていれば、
ある種の儀式のようなものでしょうから
いざという時に上手く機能するかも知れません。





読んでくださった方、ありがとうございます。











お坊さん


私はよく僧侶に間違われる。

これは、身体から発する徳の成せる技である、などと
でたらめを語っても仕方ないので正直に云うが、
要するに坊主頭、というだけの話だ。

ある時、花そらと一緒に公園の丘に座っていると、
小学生の男児が隣に座ってきて曰く、
「おじさん、お坊さん?」

男児の真剣な眼差しに圧倒されて
少々しどろもどろになりながらも
残念ながら違う旨を伝えた。

「じゃ、トラックの運転手?」
普通車のバックでの車庫入れもままならない私には
トラックという長い車体を、
空間を認識しつつ操ることなどまず不可能だ。
これも否定した。
大型車両の運転には特殊な技術が必要で
習得には訓練を要するものだろうし、アレコレあれこれ、などと
動転して訳の分からない演説をする自分を
男児は不思議そうに見ていた。

またある時、近所のお寺にお参りして自転車で帰る際、
下校する小学生の列に出くわした。
「お寺のお坊さんだ!」
一人が叫ぶと、他の全員がやまびこのように叫びだす。
「お坊さんだ!」
「お坊さんだ!」
「おーい!お坊さーん!!」

なんと、全員が手を振りながら全力で走って追ってくる。
一人ひとりが眩しいばかりの笑顔だ。
私は咄嗟に、この子たちの夢を壊してはならない、などと、
妙な義務感に背筋を伸ばして
精一杯の笑顔を作って手を振り手を振り、
そのまま走り去ったのだった。






この他、あるスポーツ選手に間違われることが
本当に、頻繁に、もううんざりするほどあって、
こちらは冗談で語れないほど深刻だ。・・・


読んでくださった方、ありがとうございます。


表現


敬愛する太宰治の小説のなかで、
私が特に気に入っているフレーズがある。

思わず着ているものを引き裂いて
金盥を打ち鳴らしながら
奇声を上げて外へ飛び出しそうになった、
トいった意味合いのものであるが、
これは登場人物が、どうしようもなく恥ずかしい場面に出くわした時、
取り乱して発狂する一歩手前の心境を表したもので、
先にも書いたが、私はこの乱れっぷりが好きで
自分でもよく口にしているほどだ。

「いやぁ、思わず金盥を打ち鳴らしながら走り回りそうになっちゃったよ。」
このように使う。

hana ordinary 花「講釈いらねーからwww」


この金盥~の他にも、
憤怒をもってかなぐり捨てた、などがお気に入りであるが、
これは、粋を気取ってつま先立ちの見栄を張る主人公が
東北の出身を言い当てられた際に、
着ていたお洒落着を脱ぎ捨てた場面で使われたものであり、
一見シリアスなのだけど、ユーモアの隠し味に、
読み手は思わず苦笑いする。

sora mumu そら「そこは涙の場面でしゅ!」


さて・・・
この二つが私の大のお気に入りであるが、
実はここにもう一つ重大なフレーズが加わることとなった。

鉄球のような軽蔑が膀胱を直撃し
熱湯のような尿と自己嫌悪が逆流して
口から噴出しそうになった
(といった意味合い)

このところ、南直哉さんの著書を読み返しているのだが、
そこで出会ったこののフレーズ、
先の二つを遥かに凌駕するインパクトだ。

これは、南さんが子供の頃に、
テストの答案用に施したちょっとした細工を
教師に見破られた際に感じた心境で、
気まずさと恥ずかしさと自己嫌悪といたたまれなさに、
頭の中が凄まじい恐慌状態になっているのがよくわかる。
本当に、こう、思わず金盥を打ち鳴らしたくなってしまうほどに、
読んでいる方が苦しくなるほどだ。

太宰治は一見すると私小説に見えるけども、
あれは計算されて作り上げられたキャラクターなのだと思う。
そして、筆で食っている以上は、表現も調整しているはずだ。
ところが、南さんは小説家ではないので
架空のキャラクターを作り上げる必要もなければ
表現を程よく調整する必要もなく、即ち、全てがリアルだ。
そのリアルさ故に、文章に凄惨さが加わり、
より一層のインパクトを生み出しているのだと思う訳であるが、
いやはや、この鉄球~噴出の見事な流れに
思わず感動して書き留めてしまった次第。




読んでくださった方、ありがとうございます。

続々・成仏


ここまで私の心に大きなインパクトを残したお話は
もう一度読み直さねばならない。
重大な本は本棚の特別なセクションに並べあるので
すぐに取り出せる。
この後早速手を伸ばすつもりだ。

さて、南直哉さんの著書とは、新書の「恐山」が出会いで、
その後、Amaz〇n でヒットする本は全て拝読させていただいた。

しかし、どれも内容が難解で哲学的な思考を要する為、
感覚人間の私が果たして十分に理解できたかトいうと、
少々、いや、かなり怪しい。
ニーチェを原文で読むような感覚に
何度も挫けそうになったけども、
何か得体の知れない強烈な力場に惹かれて
読み続けてきた。
ものすごく重大な人生の何かを語ってらっしゃるはずなのに、
それが何なのか、思考の足りない私には明確にわからない。
なぜ私はこんなに頭が悪いのか。。

昔、三島由紀夫をとりあげた映画で、
森田必勝がユッキーに向かって同じ悩みを打ち明けるシーンがあった。
「私は先生の考えを愛し、心の底から尊敬しているのだけども、
書かれている文章の意味がわからない、わからないのです!」
(セリフはうろ覚えです)

難しすぎてわからない、理解したいのに出来ない、ト、
悲しい自分を打ち明けて涙する弟子を
ユッキーは静かに微笑んで受け入れる名シーンだが、
私にもこの気持ちがわかってしまう。
自分に対する苛立ちと焦燥と戸惑い。
なんで自分はこんなに出来ないんだ、という
どうしようもない怒り。

私は無駄に気位だけ高いので
こういった告白を人前ですることはないが、
心の中ではいつも歯ぎしりしていて
南直哉さんの著書に相対する際は
常にこの感覚を感じることになるので
実は少々悔しかったりもする。

なるほど、わからん。

難解な掛け軸の書を前に
夏目漱石が漏らしたこのセリフ。
私の人生のいたるところにあってほとほと困ったものだが、
南さんの著書については、
諦めずにいつか理解できるようになれば、と努力を続ける心持。



読んでくださった方、ありがとうございます。

続・成仏


先の例の最初の方、
毎日お墓に通われた悲しいご婦人は、
このままでは魂が成仏出来ない、と知人に言われて
悩んだ末に著者の僧侶に相談したのだそうだ。

僧侶曰く、
もしもその状態が続きご婦人の健康に害が生ずるようであれば
諭して違う方法を考えることになるかも知れないが、
原則として残された方の気のすむようにさせてあげたかった、と
そんな内容を語ってらしたと思う。
その過程が必要だから行われているのであって、
無理に止めるとかえって歪みが生ずる考えだ、ト私は解釈した。

損失の後は、ある種の過程を経てのちに、漸く平穏にたどり着ける。
無理をして自分をごまかせば、その歪みは必ず、いつかどこかで、
押さえつけられた反動と共に暴発することになるのだ。

私の場合は非番の度に神社やお寺を訪問して
旅立った者たちの魂の安寧を祈った。
この世で生を無事にまっとうできたことを
神仏に感謝し、ご報告し、手を合わせてお祈りをした。
自転車でまわったこの旅は、数年に渡り、
片道2時間程度の範囲にある神仏には
ほぼ、ご報告ができたと思う。
この過程を経て、漸く、ひとつの落ち着きが生じた。


読んでくださった方、ありがとうございます。

成仏


いつかある僧侶の本で読んだ成仏の解釈が
非常に素晴らしかったので記しておきたいと思う。
ただ、目にしたのがずいぶんと昔のことなので
細かくは覚えていない。
したがって、内容に間違いがあってはならないので
著者のお名前を記すことは出来ない。

あるところに子供を亡くした母親があったとする。
その母親は、子供の死後、
雨の日も風の日も毎日お墓に通って、
一日を共にした。
年月が流れ、やがて訪問は毎日である必要がなくなり、
ご自宅の仏壇へのお祈りといった
毎日の生活に重大な影響を及ぼさない
自然な営みへと移り変わっていった。
ここをもってして、成仏、となる。
僧侶はこう語られた。

また別の方は、
失くした子供を投影する等身大の人形を持ち続けた。
その人形には生活の痕跡が見えるほどであり、
生きていた時と同じように接せられたことが明白であった。
しかしある時、その人形は寺へと納められた。
人形が代役を務める必要がなくなったのだ。
即ち、それをもってして成仏。
小林秀雄の「人形」にあったご婦人も
ここに至ったことを願う。

一般に成仏とは、
亡くなった方の魂を主体とするが、
こちらの僧侶は、残された側の心境の変化を以て
成仏としされている。
この点が非常に興味深く、
強く印象に残っている。



読んでくださった方、ありがとうございます。

続・心無罣礙


さて、
意味が云々なんて気にしない、などと書いたが…

こうなってくると、
この「心無罣礙」という言葉が非常に気になってくる。
言葉ではこのままスラスラと続きも出てくるのだが、
はて?果たして意味は・・・

私の般若心経の写経は既に500枚を超え、
そらで書くことも出来るのだけども、
なんと、意味について詳しくは知らない。
いや、見栄が働いてそんな言い方をしてしまったが、
実は本当に理解していないのだ。
要するに、氷で覆われた天体を研究するのに
表面だけ撫でていて、その下の海を無視しているようなものだ。
エウロパやエンケラドゥスに謝らねばなるまい。

話が逸れたが、とにかく、心無罣礙、である。

早速(今更ながら)意味を調べてみた。
いや、言い訳になるが、
以前にも般若心経の全編に渡って
意味は調べているのだ。
しかし、それが身につかないまま現在に至ってしまった訳だが、
決して学問しなかった訳ではなく・・・
などと、延々と言い訳が続きそうなので
ここまでとするが、
この「心無」というのは何となくわかる。
問題は「罣礙」だ。

いろいろと調べてみたが、
直訳から意訳に転じて、
どうやら「煩悩」を指すらしいことはわかった。
般若心経はここから、
心に煩悩無くば故に云々、ト続くので、
なるほど、日めくりカレンダーの教えに繋がっている。

こころに漂う悪意が妄想となり、
結果、自分自身の中に鬼を生じさせて
自らを苦しめることになる。
今の私がこれなので、なんとかしたいと思っていたのだが、

 無罣礙
心を空っぽに

この言葉が重大なヒントとなって
少しだけ前に進めた気がする。

日めくりカレンダーの進行が停滞していたことには
意味があったようだ。

神仏に感謝、である。




読んでくださった方、ありがとうございます。

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