短刀


先日、ある大手通販サイトで
帝国海軍飛行隊が使用していたとされる
時計のレプリカを発見した。
錆などの時代を感じさせる細工が施してあり
なかなか凝った一品だ。
早速買ってみた。それも2種類。

私の恩師に当たる方が元海軍の特攻隊である。
懐かしく思われるかと、
私はそれら時計を持って
無邪気に見せに行った訳だが、
返ってきた言葉は意外なものであった。

「俺は見た事がないな。
まぁ、そういった物もあったおかもしれないが、
我々の頃はもう終戦近くだったので
おそらく予算がなかったのだろう。
… 必要なものだけを渡された。」

必要なものとは何だろう?
一瞬思案したが、
その方は小さくこうおっしゃっられた。
「短刀とかな。」

自決用、という意味であろう。
言葉がなかった。




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指導者


先日ある方、仮にSさんとするが、
高校の吹奏楽部の演奏会に行ったお話をされていた。

Sさんは非常な音楽好きなので
お話の内容は演奏のレベルから演奏の構成にまで渡り、
それでも素人の私達にわかりやすくなるよう、
言葉を選びながら、同時に興奮冷めやらぬ口調で、
それはもう、その場の感動が伝わってくるような
素晴らしいお話となって
私は思わず立ち上がってブラボーを連呼…
まぁ、その寸前にまで至っていた。
日頃は言葉数少ないSさんであるが、
感動とは時として
人をびっくりするほどの弁舌家にする。

さてその中で、私の心にストンと刺さった
ひとつの言葉があった。

Sさんは演奏会の素晴らしさを全身で語りながら
話の谷間にポツリとこう云われた。
「指導者がやりたいことを明確にしており、
それをまた子供たちがしっかりと理解している。」

これは云い換えると、
「一つの集団が精鋭になるかナマクラになるかは
指導者にかかっている。」
と、なるだろう。
諸葛亮や韓信に率いられる部隊の精強さと、
馬謖や趙括の部隊の脆さの違いはここにあるのだ。

指導者、教育係、トレーナー。
気が付いたら
私は各分野でそんな立場になっている。
私の器量一つで
懸命に伸びようとする新芽を
枯らすことになりかねない。
一方に大きく大輪の花を咲かせる可能性もある訳だが
この立場にあれば誰だってそうなる結果を
強く願っているだろう、私だってそうだ。

併しそれには、願うだけでは駄目だ。
矢張り努力が必要だ。
自分に対する
絶え間ない疑問の投げかけが必要だ。
創意、工夫、観察眼や分析力、
対策を考えそれを実行する精神力。
器量というものが問われるのだ。
果たして私はどうなのか。…

音楽のことはてんでわからない。
併し、良い話にジャンルは関係なく
必ずその根底にあるポイントは共通しているものだ。
今回は自らを省みる素晴らしいきっかけを頂いた。
人の話には様々なヒントがあるものだ。





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不安の追憶


ここ数ヶ月は私にとって
人生最悪のかつてない疲弊の日々であった。

不安との戦いというべきか、
今やっていることが十分でなかったらどうしよう、という
将来への懸念、恐怖、慄きと戦慄…
鏡に映った憔悴の顔に思わずギョッとすることも
しばしばであったように思う。

監査で不合格をだされる場面を想像し
ひっ!と蛙が車に轢かれた時のような
奇怪な悲鳴をあげてみたり、
酒瓶をかかえたまま無様に身悶えしてみたり、
最早、気を患う一歩手前であった。

ところが、である。
ある心配事も、ピークを過ぎると
いつの間にか、どうでもよくなってくるもので、
駄目ならダメで、まぁなんとかなるだろ、と、
これまで存分に苦しんだことが
いつの間にか
取るに足らない細事にしか思えなっていた。

開き直りとはまた違うように思えるが、
私の心配は必ず極端な曲線を描いて
終息する時はあっと言う間といった特徴を持つ。
グラフにすると、
その形はちょうど、伊豆の達磨山に似ている。

達磨山は元々、
富士山のようになだらかに広がる
欧州の貴婦人のスカートのような形であった。
ところが、西は海に面している為に
どんどん波で削られ、崩れ、
今の様な急激な急こう配となってしまったのだ。
したがって、
中伊豆から西伊豆を目指して達磨山の山越えをすると
緩やかな上り坂に悠々と呑気なドライブとなるが、
一旦頂上を超えて西側の下りにかかると
極端に急なつづら折りの下りとなり
あっという間の走破、となる。
私の悩みが描く曲線はまさにこれだ。

人と話をするのさえ苦痛だったのが
ほんの先週の話だ。
日曜の夕べに明日の憂いを思い、
脂汗を流して苦悩するという
所謂「サザエさん症候群」というものを
はじめて経験した。
月曜の朝日が絶望の死刑宣告に思えた。
職場まであと15分もある、まだ大丈夫、
などと、往生際の悪い独り言を
死人のように呟いたあの通勤路、
今おもうとアホみたいな話だ。
ちょっとクスっとかしてしまう。
我ながら馬鹿々々しいというか、
何故そんなに不安だったのかすらわからず
自分のことながら理解に苦しむこととなり
いや、なんというか、恥ずかしさに身悶えしている
今日この頃である。

不安の種なんてものは、
突き詰めて考えると
本当にどうでもいいものだったりする。
突き詰めて考えなくとも、
時間がたてば自然に雲散霧消してゆく。
まぁ、文字通り雲みたいなもので
いつか勝手に晴れてゆくものだ。
熱い風呂にもいつかは慣れる、の法則に似ている。




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翻訳文を楽しむ


文学を本当に理解するためには原文で読む必要があります。
その言葉に含まれた絶妙のニュアンスがわかれば
自ずと意味が変わってくるわけですから
及ぼす影響についてもより深く理解することになります。
又、何気なく読み飛ばすような位置の一文に
さりげなく重大な意味が込められていることだってあるかも知れませんから、
そこを見逃すのは
背景を知らないままにゲルニカを鑑賞するのと一緒です。

sora tang2 そら「利休のお茶碗で綾鷹を飲んだ、みたいなでしゅか?」

なんかちょっと違いますね(笑


言葉の裏にある文化、そこから生じる慣習や不文律、
その国の教養の根底を成すある種の学問、

HANAsmile03SEP09.jpg 花「日本だと漢文の知識じゃの。鴎外の文章が簡にして潔なのは漢文の素養のうえにあるものだし、漱石やのぼさんだって子供の頃から漢文の素読を徹底的にやってきた人たちだから云々云々、そもそも四書五経なんて昔は当たりまえに云々あれこれ・・・」

SORA smile 11AUG09 028 そら「そ・・・それでしゅよ!それ!💦」


母国語の文学だって全てを理解するのは難しいのですから
訳文を読むのは、ただ表面を撫でているだけにすぎないのです・・・
と言うのは言い過ぎって気もしますが、
金の林檎をそれと気づかないで
3時のおやつで食べちゃった、的なものでしょうか。

hana ordinary 花「まぁ、学者でもなけりゃ、気楽に読めばいんじゃね?」

確かにそうなんですけどね・・・
私が言いたいのはこういうことです。

たとえば、川端康成を英語で読んで
あの文章の美しさを感ずることが出来るでしょうか。
無理です。
もしも出来るという人がいれば、その人はきっと、
無意識のうちに英語を日本語に訳し直して、
いわば逆輸入の形で
川端康成の原文を再現しているのでそう思うのでしょう。
原文で読む重要性は、多くの人が指摘している通りなんです。
私は文章の美しさを語りたいのです。

コピー ~ 05FEB09 039 SORA iyadeshu そら「落ち着いてくだしゃい!」


私は独逸語が出来ません。
露西亜語も無理です。
上記の理論でいくと、
私はゲーテやドストエフスキーを原文では読めないので
本当の理解には至っていないことになります。
それは本当に悔しいところで、ゲーテなんておそらく、
いろんな繊細なニュアンスを駆使して
工夫に工夫を重ねた花束を作りあげているのでしょうけども、
私の受け取る花束は、
フリーズドライだかの保存技術が加えられたもので、
もはや生ものとは程遠い物となっているのかも知れません。

いや、こういう云い方だと、
苦心を重ねて翻訳している翻訳家の先生方に申し訳ないような気もします。
「うぅむ、ゲーテのこの素晴らしい言葉を
どうやって日本の人たちに伝えたら良いのだろう。」
この言葉も違う、これもしっくりこない、
そんな葛藤を繰り返しながら苦心する翻訳家の姿が目に浮かんできました。

05FEB09 039 SORA iyadeshu そら「翻訳家しゃんに謝るがいいでしゅ!」


「ヴェルテルのこの言葉は、直訳すると実に味気なくなってしまう。
えぇい!意味を伝えるには・・・感動を伝えるにはどうしたらいいんじゃ!」
翻訳家はきっと、こうやって如何に意味を伝えるかに苦心していることでしょう。
そこで夏目漱石の「月が綺麗ですね」になるわけですが、
こうなってくると、最早翻訳家は既に翻訳家ではなく、
純然たる作家となってくるわけです。

HANAsmile03SEP09.jpg 花「なんかエライことになってきたがな。」


こうして原文は、翻訳家という名の作家の手を経て、
共同執筆に近い合作という全く別の文学に生まれ変わるのです。
したがいまして、
翻訳文学の完成度はそれを伝える者の器量に大きく委ねられることとなり、
元は一つの文学であるはずのものが、
多くのバリエーションを持つこととなるのです。
最近だと、カラマーゾフの兄弟の兄弟が有名です。

こう考えると、そのカラマーゾフひとつとっても、
難解な鋼鉄の文章と、亀山訳のように親しみやすい文章と、
選択の幅で出来る訳なので、
私達読者にとっては非常に有難い話となります。
正に昨今の消費社会ではありませんが、
市場に商品が溢れ、私たちは選ぶ楽しさや
多様性を楽しむことが出来るわけで、
こうなってくると最早、真の理解うんぬんはどうでもよくなってきます。

hana ordinary 花「どうでもようなりよりよったwww」


むしろ、翻訳家による様々な解釈や云い回しの違いを楽しめる
翻訳文のほうが娯楽性が高いような気さえしてきます。

原文が読めないからと落胆する必要はありません。
原理主義が常に正しいとは限りません。
私達は、無理せず手の届く範囲で
多様性を楽しむことにしましょう。

sora mumu そら「ラジャーでしゅ!」

hana face1 花「結局いつも通り、よう意味がわからんかったの。」






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マヤ・アンジェロウ


このところ疲れがピークで
危うく挫けそうになりながらも
どうにかやってきた。

たまりにたまった有給休暇を使いたいところだが
状況がそれを許さないので勤務せざるをえない。
体調不良を訴えて一日くらい休もうかとも考えたが
それをやると仕事が前に進まないので
結果として墓穴を掘る事になる。
それに加えて、甘えは癖になるので
ここで悪癖を作ればその後の人生は
堕落してより困難なものとなろう。
とにかく!
やるしかないなら、やるしかないのだ。

それでも腹をくくれない。

さて、そんな時、GOOGLEのトップページに
黒人女性のイラストがあるのを目にした。
その日にちなんだ人物のイラストをクリックすると
関連する情報のサイトが表示されるという、
単調な毎日へ加えられた
ちょっとしたスパイス的なサービスなわけだが、
その時は何故か気になってその人物を調べてみた。
マヤ・アンジェロウ、なるほど、聞いたことはある。

どんな方か知るには、
残した言葉を読むのが一番だ。
Quoteを何気なく読んでいたのだが、
そのうち段々と前のめりになってきて
いつしか姿勢が真っ直ぐに
正されていることに気付いた。
そして、(これは最後に紹介するが)
決定的なあるフレーズが私を硬直させた。

この人をもっと知りたい…!
焦る心を抑えきなくなっていた。
私は救いを求めていたのだ。

なんとこの人は苦労に苦労を重ね
それでも負けず、踏み外さず、
懸命に生きてこられたのか。

それが率直な感想だった。
少しの言葉にも関わらず、
人生の艱難辛苦が伝わってくる。
本当の苦難を味わった者のみが紡げる言葉、
そこにある真実を確信した。

少々大げさに聞こえるかも知れないが、
私が受けた衝撃は、まさに落雷の衝撃だった。
脳天に落ちた雷が背骨を通って五臓六腑を焼き
両足から大地へ抜けてゆく衝撃。
そのショックにより姿勢は真っ直ぐに正され
寝ぼけていた頭も清明に晴れて、
両目爛々と輝く精気。
もちろん、これを実演してしまうと
甚だ怪しい人物になってしまうので
見た目は静かにPCモニターに向かっているだけであるが、
内面では、大気を引き裂く雷鳴に
一瞬にして全てが引き締まっていたのだ。

では最後に、甘えという悪魔に背を引っ張られていた私を
こちら側に引き戻してくれた言葉を紹介して締めとしよう。

We may encounter many defeats but we must not be defeated.
多くの敗北を味わうかもしれない、
しかし、負けてはならない


maya 002





* must not というところに、尊く高潔な意志を感じます。






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美学


美学とは人生に張り合いを与えるもので、
なりたい自分を目指して
実際そうなるという、ある意味、
身近でしかも手軽に叶う夢として
実に重宝する。

私は現在、所定の勤務時間を大幅にオーバーし、
休日だ何だとそんなものが眼中に入らないくらいに
勤務に集中している。

課せられた仕事はこなすし、
任ぜられた役割は果たす。
必ずやり遂げる。

これは責任感などという尊いものでは決してなく、
単なる自分の美学なのであるのだが
ここが厄介であり楽しいところだ。

美学は騙すことが出来ないし、
誤魔化すことも出来ない。
まぁ、そもそもそんなものがあれば
それは美学とは云わない訳だが、
兎に角、私はやる。

夏目漱石ではないが、現実こそが真実、
やった結果のみに価値があり、
汗と涙と血の滲みの結晶にこそ
私の追及する美がある。

そして、その先には、
また新しい
より高位の自分が現出するトいう訳だ。

満足しながら成長できる。
美学というものは、実に重宝だ。





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休む


前回述べたが、
私は休むことが苦手だ。

休日は勉強をすることによって
仕事に対する不安を解消する。
これだけやったのだからきっと次は上手くいく!
この安心が欲しいのだ。
その為には勉強あるのみ、なのである。

さてそんな私であるけども、
ある時、オンオフ切替論を人に勧められ、
一日ぼんやりと過ごそう、ト、決心した日があった。

ちょうど天気も良い。
昼前で気温も上がってきたし
陽はさんさんと心地よい。
洗濯物も凡て美しく調和を以て干した。
すわ、今日こそ!と、私は公園へ出かけた。

さてベンチに座ってみたが、
ぼんやりと過ごすというのは
意外と難しい。

休むときには何も考えてはいけないらしいので
何も考えずにベンチに座っていようと思ったのだが、
この何も考えないトいうのが
実は極めて困難なのだ。

30秒くらいは耐えたが、
そのうちどうにもならなくなった。
周囲を見回すと
子犬を連れた老夫婦が歩いている。
子犬が愛らしく、しばらく眺めていたが、
そのうち飽きてしまったので、
仕方ないから瞑想した。
それにもすぐ飽きて目を開けると、
先程の老夫婦が目の前の土手に
腰をおろして何やら話し込んでいる様子だ。

私は紳士なので他人の話を盗み聞きする趣味はなく、
今度は注意を別の人に向けた。

段ボールに乗って土手を滑り降りる子ども、
それを撮影する親、
バトミントンに興じる親子、
上空を飛ぶSH-60、
ヒヨドリのさえずり・・ 雄たけび、
カタツムリ枝にはい神、天にしろしめす…
7~8分が経過した。

これまでの時間、これから帰る時間、
これらの間にアレが出来た、コレが出来た、
そう考え始めたら段々とうずうずし始め、
私は結局帰宅して勉強したが、
その方がリラックス出来た。

何かやってないと落ち着かないというのは
ある意味損なようで
実は幸せなことであるが、
まぁ、人には向き不向きがあるということだ。



いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。

切り替え


オンとオフの切り替えは大事
休む時はしっかり休む


これらは、まぁ、よく云われることで、
その重要性を説明されれば、なるほど、と思うし、
確かに出来る人というのは周囲を見ても、
休む時にはしっかり休んでいるように思う。

併し私にはこれが出来ない。

かかしと云われても出来ない。
その休んで遊んでいる時間が勿体ないのだ。
仕事に役立つ勉強をしていたほうが
余程に有意義だし、そもそも学問というのは
毎日の積み重ねなのだから、
休む訳にはいかない。

休めば休み癖がつく恐れがある。
休めば学べるはずだったものを
学べなくなる。

その場に留まる為には全力で走り続けなければならない、という
赤の女王理論に従うなら、
休めば一歩後退どころか、ベルトコンベアに乗って
みるみるうちに見えなくなってしまうだろう。

なんという恐怖!

などと考えていると、
もう居ても立っても居られなくなり、
要するに臆病なので
勉強せずにはいられなくなるのです。
勉強していないほうがストレスが溜まるというのですから、
いやはや、休むなどとんでもない。
勉強が私のストレス解消法であり
不安を取り除く安心の妙薬だったのです。

気が小さくて、良いこともあるのですね。



いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。

冬の朝


快晴の真冬の空は澄み渡り
一片の雲すらない。

輝く青の空というのは
どんな印象派にも再現不可能ではなかろうか。
それほどに美しく、神の荘厳すら感ずる。

寒さに心地よさを感ずる花とそらにとって、
晴れた冬の日はどんなに心地よかったろう。
私は今、この静かな家の中で
あの子らがいた日々を思う。

空はただ何も云わず
頭上にひろがり、
私たちを見守るのみだ。



いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。


かんなみ仏の里美術館


先日、約二か月ぶりに伊豆へ行った。

伊豆はドライブには程よい距離にあり、
よく思い付きでふらふらと出かける。
そんな調子なので、
道中で目的地を決めることも多々あるのだが、
今回は以前から考えていた
「かんなみ仏の里美術館」へ真っ直ぐに向かった。
私には珍しく、
確信に満ちた足取りのドライブであった。

さて、どうやら到着した。
道中多く設置された看板からは
所謂おもてなしの温もりが感ぜられる。
私はもう、入館前からその心地よい雰囲気に
うきうきとしてしまう始末で、
然しこれは決して根拠のないことではなく、
人と人との繋がりの深いコミュニティーに
今まさに参加しようとする
確かな予感からきたものであったように思う。

果たして的中した。
ボランティアガイドさんの丁寧な解説は
非常に丁寧で
そのわかりやすく順序立てられた説明は
聞き手のことを考えた思いやりに満ちたものであった。
又、ずっと地元で大切にされてきた仏像群と
それに関する歴史を
ビジターによりよく理解してほしいという
気持ちも伝わってきて、
その真摯な姿と共に
私の心を強く打つものであった。

こうして私は、
ガイドさんの解説だけですっかり満足してしまった。

美術館に来たにもかかわらず、
展示品の鑑賞に移る前に
解説だけで十分すぎるほどに満たされてしまったのだ。
そして、
精神交流から生ずる美こそに真の文化的価値があるのだ、
などと、おかしな説を唱えて、
一人で、うむ、などと頷きながら
妙な感動にうっとりと陶酔した。

さて、ガイドさんの解説に
以前紹介した八重姫のお話がでた。

少しこの地を離れれば
知っているひとは少ないであろうお話だけども、
ここ中伊豆では
皆さんが知る昔話として語られていることは
ガイドさんの口調からわかる。

あの時梯子があったならば
そう考えて
供養の為に梯子を持ち寄る人々姿は、
悲しいけども純朴で美しい。

こういった善男善女の暮らす
静謐な山峡の小さな集落で、
1000年もの間
受け継がれてきた清らかな信仰。

その一端に少しでも触れることができたこの一日。
出会いと交流と驚きと清廉に、
私は深く感謝したい。




いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。

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