夢百夜


こんな夢をみた。

どこか田舎の宿で迎えた朝、
そらと共に外へ駆け出して
見知らぬ土地の散歩を楽しんだ。
空気が澄んでいる。

そこは、山峡の小さな農村だった。
小川が流れ、草木は青く、
これから始まる楽しい旅の予感に
私たちは希望に満ちていた。

どんどん進んでゆくと
そらがプップをした。
ばつの悪そうな横目でこちらを見ながらの
プップの体勢が可愛らしい。

そうしているうちに
お寺の鐘が響き始めた。
歴史を感じさせる瓦屋根が見える。
思いの外近い。
私たちはお寺を目指した。

花もいてくれたなら。。

そう考えた瞬間、花が現れた。
いつもの花そら。
寄り添うように歩いている。
どんどん進んでいく。
二人がそろった。
本来私たちはこうなのだ。

みんなでお寺の山門をくぐった。
そこから記憶が曖昧だ。

夢だった。
夢の中で私は今日、花そらとお散歩を楽しんだ。
この記憶だけは断固とした現実だ。

私はこの夢をよくみる。



いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。

私の現実


芳一のみていた世界は現実。
それは確固たる事実であり
現象であり、生きた血の通いなのだ。

そらが亡くなった時、
私たちはある湖のほとりで
そらの名を精一杯に叫んだ。
暮れかかる空、
いつも変わらない山々、
何処までも広がる湖面に向かって
何度も何度もそらの名を叫んだ。
霊山で行われる
この魂呼び(たまよび)という儀式は、
きっと死者に届くのだという。
夕暮れの刹那、
私は言い伝えが本当であった事を知った。
その実感こそが
私の感じた現実だ。

ある時私は、
米国に在る母の様に慕った方が
亡くなったという報を受けた。
自転車を飛ばして海にゆき、
遠く太平洋の向うの米国を想った。
その帰り、まるで人のような
大きな木の葉の塊が突然
突風に吹きあげられるのをみた。
上空遥か彼方に大きく広がりながら、
木の葉の一枚いちまいが
陽の光を受けてキラキラと輝いていた。
昼の空に夜空が現出したようなその光景は、
まるで魂が天に帰ってゆくようであった。
私はそれを別れの挨拶ととらえたが、
それも又、確かな現実であるのだ。

そろって水面を泳ぐ2羽の水鳥は
花とそらの遊ぶ姿。
寄り添うように咲いた2つのタンポポは
花とそらの微笑みの姿。
流れる2つの雲、天空の二人の童子たち、
ペアで存在するものは
凡てが花とそら…
これが私の現実世界であり
断固として存在する現実の心象風景だ。



いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。


芳一のみていた世界



「芳一のみていた世界も、又、確固たる現実。」

先日テレビをみていて、
ある僧侶がこんな話をしていらしたのを聞いた。
非常に感じ入って思わずメモをとったのだが、
信じられないことに詳細を忘れてしまった。
私の痛恨事は大概
お酒に原因を持つが、
この時もひどく痛酒していて
お話の核心を
きちんと理解していたのかさえ怪しい。

併し、先にも云ったが
妙に感じ入ったのだけはおぼえている。

何故なら私にとっては、
芳一の体験した死者との交流が
どうしても嘘幻だとは思えなかったからだ。
その事もひとつある。

お話の論点はおそらく、
物の見方というか
何かに相対する時の精神的姿勢といった
難しい内容だったと思うが、
私は話の本筋がどうであろうと
常に自分に照らし合わせての考え方しか出来ないので
真の理解に達することはないのかも知れないが、
まぁ、それはそれで構わないとも思っている。
要は、自分にどう活かすか、だからだ。

芳一のみていた世界は確固たる現実。
芳一は確かにあの時、
平家の武者らと語らった。
交わす言葉があり、琵琶の音に唄はのり、
すすり泣きが静寂に沁みては消える
確かな現実があった。

それが彼にとっての現実世界だった。
私たちが触れ、経験するこの現実世界と、
一体何の差があろう。
色は即ち空であり、空も又、即ち色であるという。
この事実は生きる私を勇気づけてくれる。



いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。

進んでゆく時間の中で何が出来るか


ちょいとサボりたい気分になった時に
己の頬を殴打する言葉として
私は以下を、精神の枝折りに書き込んでいる。

・ 明日の自分は今日作る
・ 努力は人生の充実
・ 努力は才や徳なき者に残された最後の希望


最初のは出典が定かではないが、
(泰西の何かか)
あとの二つは幸田露伴だ。
私の明治好きの理由のひとつに
この人の人生に対する崇高な姿勢がある。

さて、名言にもいろいろあるが、
今回は逆名言ともいうべき、
脱力の言葉を紹介しようと思う。

全く努力することなく
コネと口先と、
そして恐るべき運だけで
飄々と出世を遂げる人。
そんな人はどこの世界にもいるだろう。
哄笑しながら大股で世間を闊歩し、
その後ろを心ある人たちが
ペコペコと周囲に頭を下げながらついてゆく、と、
こういう光景は誰もが知っているし
思わず舌打ちをしてしまう人もいると思う。
私も同じだ。

さてある時、
私は非常に難しい会議に臨むにあたり
どうにも頭を悩ませていた。

<どうやれば双方良い形で折り合いをつけられるか>

二つの組織の真っただ中に立たされていたので
双方に対して責任があり、
それだけにプレッシャーも倍という訳だ。

(予定の日までに何が出来るのか、
どこまで出来るのか、そもそも可能なのか…)

頭の中でこのシミュレーションを繰り返し、
繰り返し、繰り返ししている時、
先にあげたタイプの人から、
以下の素晴らしいお言葉を賜った。

「時間なんて勝手に過ぎてゆくものだから、
気が付いたら終わってますよ、ははは。」

自分は最初から高みの見物のつもりでいて
ほんの少しの責任すら負うつもりもなく、
それ故に、最初から準備すらするつもりもなくして
そして上司きどりでこの一言、である。

この一言で、「大事に際しても何もしない」という
自らの人生を暴露してしまったことにすら気付いてなく、
楽な方に流れ続けてきた
精神的弛緩を恥じるでもなく、
大事なところで良い事を云ってやった、トとでも言いたげな
得意顔がまた、情けない。

直前まで足掻き、最善を尽くして事に臨む。
こういった努力が最初から頭にない人の考えに基づいた
この戦慄の一言。

<決してこうなってはならない>

私は気持ちを引き締め、そう考えることが出来たので、
うん、まぁ、これはこれでよいのか、などと考えたが、
名言に対する逆名言というのは
反面教師として活用すれば、これはなかなか、まぁ、
身近な人だけに、より一層、意味が染みるというか、
殷鑑遠からず、といったまぁ、そこそこのアレであって、
どうにも笑うしかなかった、というお話。





いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。

坂村真民


このところ、坂村真民を読んでいる。

彼の言葉は実に自然に紡がれていて
そこには小賢しい平仄や屁理屈などなく、
ただ表現したい思いを
清らかな小川のように
流れ書いている、といった印象だ。
一言で云えば、誠実。

「あとから来る者のために」
という一遍などは、まさに彼の人柄を表したもので、
あとから来る者のために田畑を耕し
種を用意し、山や川をきれいにし・・・と続き、
そのためにはどんな苦労をも厭わない、といった
(そこまで強い言葉は使われてはいないが)
そんな決意が伝わってくる。
あぁ、そうだ。
強い言葉がないところが、また自然なのだ。
わざとらしくないのだ。
素のままだからこそ、真実なのだ。

坂村真民は教師時代に実際、
苦学生たちを支援のため東奔西走し、
自らの生活費を削ってまで
若者たちに尽くしたのだそうだ。
そういった事実を知ったのちにこの詩を読むと、
また一層の感慨がある。

なるほど。
誰だったか、
文学を理解しようとするのなら
先ずその作者のことを知らねばならない、
トいった言葉を残していたが、
文字を追うだけでは
皮相の観察にしかならぬ。
実感した。





二段目で、
「一篇」と書こうとして
「一遍」と変換がでた。
そのままにしておいた。
偶然とは思えなかったからだ。

いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。

黄金の夕暮れ


今年後半の最大の試練と思われたある会議が
信じられないほどの大成功をおさめる結果となり、
関係者の皆が笑顔で帰路につくこととなったあの日の夕刻、
私は半分放心状態で建物から出て
秋の深まりを感じさせる風にふと視線を上げた。

雲が黄金に輝いていた。
美しい丹沢の上空に、
荘厳な夕焼け雲が広がっていた。
そこに浄土があると云われれば
確信を以て頷いたであろうほどの
神々しさであった。
目頭が熱くなった。

その光に照らされていた私も、また、
黄金に輝いていたはずだ。



いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。






鈍刀を磨く


坂村真民という詩人、あり。
たいへんに優しく、同時に力強く、
弱く、且つ、生きる意志に満ち溢れた
実に人間的な詩を残されている。

妙心寺派のお寺で
5年、禅の修行をされたそうだが、
成程、と思うところがある。
禅を学ぶ人というのは、なんというか、
根底にある共通点として
妙な血潮の生々しさと、
人生に前向きな人間的強度が
あるように思う。

そして不思議なことに、
黙々と一人の修行を積んでゆくのが
禅の修行という印象であるのだけれども、
その結果生まれた余裕であろうか、
禅を行う人は己のことのみならず、
常に他人のことも己のように考えている思考に
特徴があるように思えるのだ。

それは視点の広さという単純ではなく、
己と人とを全く区別していない、
要するに、広袤山河を鳥瞰するように
物事を捉えており、
それは恰も精神が尽十方と一体化して
自然に溶け込んでいるかのようで
我々凡人には驚きでしかない。

「鈍刀を磨く」という詩にも
その特徴が見て取れる。

この詩は、
ひたすら鈍刀を磨き続ける、という内容だ。
鈍刀は決して光らないかも知れないが、
しかし、せっせと磨いていけば、
そのうちに磨く本人が輝いてくる、トいう、
世界の妙の計り知れなさを謳ったものだ。

それはそれで疑いようもなく尊いものだし
大切なことではあるのだが、
実は私が心を奪われたのはそこではなかった。

私がハッと目を奪われ、思わず絶句した一節とは、
磨かれる鈍刀が、
すまぬ、すまぬ、ト、己の至らなさを恥じるように
言動しているほんの一瞬のくだりの部分だった。

「こんな私ですまぬ、すまぬ」
そんな刀をただ、ひたすら黙って磨き続ける。
本編の核心からは外れるが、
私はこの場面に強く心を打たれた。

論点を無視するようで心苦しいが、
このような美しい交流のあとには
最早、結果などどうでもよくなってくる。
刀は勿論、たとえ磨く本人が決して輝くことがなくとも、
それでももう、これは完成された美に違いはないからだ。

作者が伝えたいと思っている核心に
そっと花を添えるように描かれたこの場面。
鈍刀を磨く本人だけでなく、
刀の気持ちをも表現したところに、
私はさりげない優しさを感じ
妙に感じ入ってしまったのです。



いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。

歯医者


私は歯医者というものが大の苦手だ。
あの恐怖に並び立つものは
他には先ずない。
並び立つものがないという意味では、
平地に唐突に存在する
あの富士の山と同じだ。

富士には月見草がよく似合うというが、
歯医者にはキョウチクトウがよく似合う。
キョウチクトウの花言葉は「危険」だ。
ウツボカズラの花言葉も「危険」らしい。
陰性の言葉を勝手に押し付けられた
花たちはいい迷惑だろう、などと考えながら
ページを進めてゆくのだが、
目につくのはそういったものばかりだ。

睡蓮「滅亡」、パセリ「死の前兆」、
フキノトウなどは「処罰課すべし」で、
カキにいたっては
「広袤の自然に永遠の眠り」だ。
こんな言葉ばかりで
すっかり暗い気分になってしまうが、
歯医者とは、まぁ、そんな場所だ。



いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。


さて、新九郎君の考えですと、
蝉の前半生は慎ましく地味なものとなる訳ですが、
果たしてそれは真実なのでしょうか?

蝉にだって個性があるはずです。
ですから、もしかしたらじっと地面の下にいる生活を
悠悠自適と考えている蝉がいるかも知れません。
特になにもせず、植物の根から
美味しい樹液を吸って、
静寂に包まれながら何年も暮らす…
もしかしたらこれは、
夢のような生活とは云えないでしょうか?

外出するのが嫌いな人だっている訳ですから、
人生の終焉の時になって
ほとんど運命的に外界に出て行かざると得ないことを、
苦痛に感ずる蝉がいたっておかしくありません。
そんな蝉たちにとっては
人生の最期に試練が設定されている訳ですから
あの鳴き声はもしかしたら
恨み辛みの合唱かも知れないのです。

こう考えみると、
どうやら蝉たちを一緒くたに考えるのは
失礼かも知れません。
蝉を単純な虫と決めつけ、
無意識のうちに見下している訳ですから、
考えを改めざるをえません。
その生き方に感ずるものがあるのであれば、
その生き方を尊重するのが公明正大というものです。


などと、おかしな理屈をこねてみましたが、
やっぱりあの蝉たちの大合唱と羽ばたく姿は
喜びの姿に他ありませんね。

感じ方一つで
蝉の前半生も幸福なものと捉えることが出来る、
といったお話を先日伺い、強い感銘を受けたので
そのお話を書きたかったのですが…

人の言葉を表現するのはどうにも難しいことです。
自分の身になっていない、ということでしょう。




いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。

新九郎譚「蝉」


夏の終わりは新九郎君を
ちょっぴりメランコリックにさせるそうです。

盛夏の折、
あれほどの隆栄をほこった
蝉たちが

一羽、そしてまた一羽、

乾いた死骸になって
地面に横たわる様は、
まさに虚しい無常を表しますので
まぁ、新九郎君でなくとも
物悲しくなる人はなるでしょう。

蝉は暗い地面の下で何年も、
ただじっと、慎ましく暮らします。
何の贅沢もせず、
何の栄華も望まず、
ただじっと、
身の丈にあった生活を粛々と続けるのみです。

そんな蝉ではありますが、
人生の最後のほんの一瞬、
ついに太陽を目にする時がきます。

もはや、蝉を冷たく重く圧迫する
圧倒的な質量、地面に抑え込まれることもなく、
蝉は自由に、力強く、
この一瞬を満喫するように
どこまでもどこまでも、
高く高く、この大空を思うがままに
飛んで行くのです。
初めて感じた生きる喜びに
全身を満たされながら。。

しかし、蝉は知っています。
この幸福は長くは続かないことを。
だからこそ、
この一瞬が輝いているのだということを。

墜落してゆく仲間たちを横目で見ながら、
蝉はただ、己に許された残り少ない時間を
精一杯に生きるしかありません。
それが蝉の人生…

さて、
夏の終わりにはいつも、
意外にもロマンチストな新九郎君は
この様な思いに耽っている訳ですが、
そんな時は大抵、ガサツな一言が
うっとりした表情の新九郎君を現実に引き戻します。

Awww!うるさい!
ヤツらはいったい何を叫んでいるんだ!?

新九郎君は故あって米国人と職場を共にしています。
無常観など欠片も気にしない米人には、
蝉の悲しさなど理解しようもありません。
出身の州によっては蝉を知らない人もいますので、
ますます無理もない事情となります。

よくわからないけど、たぶん、
Push, Push a hat (突く突く帽子)じゃないかな?

そう、返答する我らが新九郎君は今日もいい加減です。




いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。








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