経験が生む凄味


ある高名な禅僧が語って下さる修行の体験談は
いつもユーモアに満ちていて
その話には艱難辛苦を思わせるような言葉は寸毫もありません。
まるで昨日みたテレビの内容を語るように
面白おかしくエピソードを聞かせてくださり、
我々聞き手も時折吹きだしたり笑い転げたりと、
座は実に和やかの一言です。

然し、時折、飾りっ気のまるでないそのお話の中に、
僅かながら鋭い緊張の刃片のようなものを感ずる事があります。
暖かい春の日に何の前触れもなく吹く
剃刀のような一筋の寒風、
はっと気が付くともう消え去っている
一瞬の流れ星、
そんな趣の、覆いきれない厳粛な真実が
何かの拍子にそっと顔を見せる事があるのです。

緩みきった縄が地面につく寸前で
張り直されるかのように、
聴衆は姿勢を正さざるをえません。

恐ろしいのはここです。
老師はもちろん、これは誓ってもよろしいが、
その引き締めを意識して行われているわけではないのです。
我々聞き手が勝手に緊張しているにすぎません。
その穏やかな口調で紡がれる楽しいお話のどこに
そんな要素があるのか?

これは聴衆が、
お話の背後に老師の修行の重みを感ずる為に
生ずる現象でありましょう。

障子に滲む光のように、
決して隠して覆えない
確かな経験というもものに裏付けられた、
謂わば、その人の積んできた歴史、
その積年の風雨に耐えてきた経緯、
今、老師がそこにおられる由来、
それら凡てが老師を構築する要素の芯となって
私たちに見えない何かを感じさせ、
ここぞ、という時に、心の帯を締め直させているのです。
その人の綴ってきた個人史、
老師の人生の深さと密度、艱難辛苦があって故の他者への思いやり、
こういったものを土台とした、謂わば、
精神から発する波紋のようなものが
我々に心地よい緊張をもたらす正体なのであります。
これは、楽に流されて生きてきた人間には
決して備わらないものです。

晩年の、年老いてヨボヨボなはずの永倉新八に
誰もが畏怖して足を竦ませた、と云います。
精神の中核を成す強力な芯を備えた本物たるには、
当然それを生じさせる原因がなくてはなりません。
逆に云うと、原因なくして結果は生じない。
困難をあえて選び、自己を鍛え上げてはじめて、
言葉に重みや見えない迫力、説得力、
厳粛な波動を持たせる事が出来るのです。



こういった現象を感ずる事の出来る人も又、
厳しい研鑽を積んできたに違いありませんね。
まるで素通りする人だっているのですから。



いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。
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