渓声すなわち是広長舌


メディアへの出演が多いある有名な禅僧の方。
この方の物腰態度は、
実に人工的だと感ずることが多い。
型通りの聖職者たる人格といったものを
創り上げたような印象で、
話の仕方も、一語一句を予め準備していたような、
例えれば、習字に対するワープロの文字のような、
そんな響きを感ずる。

一方、甲斐のある有名なお寺のご住職は
実に自然体だ。
その語りがあまりにもフリーダムなので
ハラハラする事すらあるほどで、
何事にも縛られない、まさに、
「行く雲、流れる水」
尽十方の理そのものを体現していらっしゃるように見える。
禅僧に模範の姿というものがあるのかはわからないが、
修行の果ての収斂進化の姿は、きっと、
このようになるのではなかろうか、ト、個人的には思っている。

中国北宋時代に蘇東坡という人がいた。
在る時、彼は山道を歩いていて、
突然、ある重大なる事実に気が付いた。
彼を取り巻く広大な森、清らかな川、自然界そのもの、
そこに彼は悟りを見たのだ、即ち、
「渓流の流れに仏の姿を見、
岩を打つ水しぶきに仏の声を聞いた。」

このように、自然、在るがままの現象に、
神仏の姿をみる例は古今東西多くに見られる。
何故そうなのかを理屈では説明できないが、
個人的にも自然には大いなる畏怖を感ずる。
渓流の声、流れる雲、佇む森、広がる青空、
自然の姿は仏の姿そのものであり、
自然の音は仏の声そのものだからだ。
繰り返すけども、(蘇東坡も云っているが)
これを言葉では説明できない。

人の関心に訴えかける事を目的とした説法と、
せせらぎのような自然の流れで語られる説法。
果たしてどちらがより、仏の声に近いものか。

何かを比べる考え方が禅的でないのを承知のうえで、
敢えて、問いかけてみたい。
何故なら、

小声で
(私自身、受け狙いの美辞麗句を口にしたい衝動にかられる事が実に多いから。)



本稿は自らへの戒めとして記す。




30OCT15 036a





メディアに露出の多い僧侶は、
仏教界を代表して語らなければならない立場にある。
その責任を果たすために
下手な事は云えないという制約の中で
あのような姿になったのではないか、とも思える。
環境の違いが様相を変えた、とも理解できるので、
それはそれで尊い姿だと考えなければならない。
その点は記しておきたい。

こういった解釈の積み重ねが、
私の持つ分別意識の消滅に繋がる事を願いたい。



いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。

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