葉隠に思う


先日のこと、
ある高名な禅僧の方とお話する機会があった。
その中で、
武士道と云うは死ぬ事と見つけたり、の一節で有名な
「葉隠」の話があった。
「葉隠」とは、鍋島藩の山本常朝の言行録で、
武士の心得を記した実践哲学的な書物である。
記されたのは江戸中期、つまり、
戦のない太平の世で、
武士がすっかり安穏と平和ボケした時代だ。

平和は素晴らしい。
戦などないのが一番だ。
その事に寸毫の疑いもないけども、
然し、たとえ太平の世にあっても、
武士たる者は常に緊張していなくてはならない。
誇りを忘れてはならない。
死地に身を置く覚悟がなくてはならないのが武士であり、
そうでない者は単なる張りぼてである。

それなのに、世の武士たちはどうだろう。
皆が顔の筋肉を緩め、
すっかり弛んで、まるで羊の群れのようだ。

常朝は、本来武士とはこうあらねばならない、と、
警告を発したかったのだと思う。
ぬるま湯に浸った武士たちの精神に
まさに一石を投じ、
「葉隠」という言葉の刃でもって、
軽薄武士たちの魂を追い立てようとしたのだ。

それは木刀や竹刀ではなく、真剣だったはずだ。

然し、その影響はどうだったろう。
この書物がこうして後世に伝えられているところをみると、
世間から一定の評価を受けているのはわかるが、
当時、常朝の周囲はどう反応したのだろう?

冷ややかな反応が
ほとんどだったのではないだろうか。…


人はそのほとんどが、楽に楽に流される。
気ままで呑気にやっていたって
世の中はしっかり回っているんだから
それでいいではないか、ト、
ほとんどの人がそう思うだろう。
皆がうまくやっているのに、
何故わざわざ和を乱すような真似をするのか、と。

そんな中で、武士の心得を諭したところで、
それが血の滴りそうな真剣であればあるほど、
常朝の本気は
太平の世に慣れる過ぎた周囲とは噛み合わなくなる。
結果、敬遠される。…

実際はきっと、これに近いものがあったのではないか、ト、
私はなんとなくそう思う。


然しである。
たとえ周囲から冷笑されようと、
私はその孤独に崇高さを感ずる。
理想を追い、志のある、常に高みを目指す者は
常にこうして孤独となりがちだが、
それは尋常でない故の孤独であるのだ。
まさに漱石先生の云う「崇高なる孤独」。
最早これは誇りを持つべき状況だ。

しかも有難いことに、
もしもその信条が独りよがりなものでなく
中に真実を秘めたものであれば、
必ず支援者が現れる。
そうなれば、孤掌鳴り難し、は成立しなくなり、
たとえ小さくとも音は響き続けて、
その志は受け継がれ、広がってゆく。
「葉隠」がそうであったように。


これより以下は、自らへの戒めとして記す。
自分の考えが身勝手極まりない独善的、
独りよがりなものとならぬよう、
常に己を疑う姿勢を忘れるべからず。。









いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。
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