文学に学ぶ


森鴎外に以下の言葉が在る。

己の感情は己の感情である。
己の思想も己の思想である。
天下に一人のそれを理解してくれる人がなくなって、
己はそれに安んじなくてはならない。
それに安んじて恬然としていなくてはならない。



人とは楽に流されるもの。
その中にあって、
確固たる信念を以て
これぞ、という道を進むのは容易な事ではない。

漱石先生は
これを「崇高な孤独」と表現したが、
いつしかこの言葉は、
私の精神を支える強力な竜骨となった。

正義と信じた己を貫く。

こうあるべきだ。
こうでなくてはならない。

融通のきかない私は常にこうであり、
それはそれで悪くはないとは
思うのだが。…




山本周五郎は、
「世間を批判ばかりして己に責任をみない者は
先ず自らが頭を下げねばならない。」
と、こう云う。

「世間は己から始まる。
世間がもし汚らわしく卑賎なものなら、
その責任の一半は即ち己自身にもある。」


作中の人物の口を借り、
周五郎はさらに続ける。

『廉直、正真は人に求めるものではない。』


私は正直、最初にこの件を読んだ時には
冷笑に似た感情を持ってしまったのだが、
しかし、何か引っかかるものがあって、
それから何度も何度も読み返してみた。

漠然としていた何か。
その輪郭がだんだんと鮮明になってきた時、
不意に私は
鈍器で殴られたような衝撃をおぼえた。

なんという事だ。
私自身も、軽蔑してきた世間の一部であったのだ。
世間とは、春と修羅に云う、
因果交流電燈の照明の複合体。
お互いに影響し合いながら存在する
集合的な一つの個体、
自身と切り離しては考えられないものだったのだ。
私はそれに気付かずにいた。

そして、
私が世間の一部である以上は、
私を取り巻く世間の反応、
言動、行い、これらは全て、
少なからず
私自身を原因としたものに相違ない。
己の創りだした結果、因果の結晶、
それが「世間」の正体だったのだ。


…………


周五郎文学の教えは
私の人生に大きな影響を及ぼした。

その教えはこの固い頭を(多少ではあるが)
柔軟にほぐし、
自分に都合よく解釈していた
森中将や漱石先生の言葉に
より正確にアプローチ出来る姿勢を作ってくれた。

私は常に阿呆である。
視野狭窄の石頭である。

然し、書物に尻を叩かれながらではあるが、
己を省みる謙虚さを(辛うじて)持ち合わせている。
これは人生に於いての
絶対の強みであるはずだ。


書物は師である。
次に開くページは、
新しい人生の一歩となりうるのだ。




上記の山本周五郎は、
「つゆのひゆま」収録の「武家草鞋」という短編にみられます。

26OCT15 009








~おまけ~
三島由紀夫は、たしか、
私のように、文学に解決を求めようとするタイプは
生活に何かしらの不満を持っていて、
架空の世界で現実の問題解決を図ろうとして
云々、云々、… 
ト、あまり良い事は云ってなかったような気がするが…

まぁ、それはまた今度考えよう。



いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。
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