恵林寺に於ける禅の場に衝撃を受ける


「禅」というものには以前から興味があったが、
生来よりの臆病さがたたり
新しい世界への一歩を踏み出せずにいた私であったが、
何のきっかけか、
遂にその最初の一歩を踏み出す事が出来たのは
既に数か月前の事となった。
今思えば、酔って大きくなった気に任せて宣言した事を撤回出来ず、
そのまま勢いで腹を括って踏み出した一歩であったが、
きっかけの不甲斐なさは、まぁさて置き、
禅の世界に飛び込んでいけた事は僥倖であった。
ほんの少し触れただけであったのだが、
禅からは、私の人生、人間性、世界を変える可能性を強く感じたものであった。
アンドレイ・ボルコンスキー(トルストイ/戦争と平和)が受けた
砲弾のような衝撃であったと言っても過言ではない。
2014年の秋の早朝に、
私の人生の新たな章が始まったのだ。

座禅。
其処は正に、「厳粛の場」であった。
私のような俗物が、
果たして踏み入る事を許されるのか。……
よく禅寺の門に掲げてある
「不許葷酒入山門」の文字が頭によぎり足が竦んだが、
きっと御仏の御寛大な御心はお許し下さるに違いない、などと
自分勝手な解釈でなんとか自らを奮い立たせ、
どうにかこの場まで来る事が出来た。

広いお堂の中、ふと見渡すと、
特別に「存在感のない」不思議な方がいらしたのを
よくおぼえている。
この方は、
其処に在りながら、其処に無い。
気配や存在感、物理的な実在感がまるでなく、
それがかえって印象深くその存在を際立たせていた。

呼吸をなさっているのか、体温はあるのか、
それすら疑いたくほどの、
(矛盾のある言い方ではあるが)
「無」が確かに其処に在った。
精神を入れる器のようなものがあるとしたら、
この時、この方の精神の器の中は、
完全なる真空であったに違いない。
風の一つも吹いていなかったろうし、
それどころか、
酸素や窒素の元素の一つすら存在しなかったはずだ。
即ち、
「あらゆる波風を起す要素が存在していない」
という事だ。
その静寂ゆえに、その姿は完全に、景色の一部と化して、
もっと言うならば、世界の一部に溶け込んでいらしたのだ。

姿は見えているが、実際に其処には存在しない。

長い人生で初めて見るこの光景に、
私は心の底から戦慄した。
そして、禅の修行を経た人間とは
ここまでの境地に至れるものかと、
驚きと共に、畏敬とも尊崇とも畏懼とも讃仰ともつかぬ
不思議な衝撃を受けた。

私の目指すのは「木鶏」の境地である。
無の心である。
雑念に捕らわれた私の精神が
この御仁に近づけるのに、
これからどれ程の年月がかかるのだろうか。

その間の風雨を思うと気が遠くなる思いであるが、
先ずは、一歩を踏み出す事が出来た。
私はこれからの人間である。

まだ出ぬ音は、この月に照らされた静寂の世界のどこかに
すでに確実に存在しているように思われた。(三島由紀夫「金閣寺」より)





甲斐恵林寺は、快川和尚や武田信玄公の所縁のお寺です。

18OCT14 ERINJI 004a

「心頭滅却すれば火もまた自ずから涼し」 








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