新九郎、虚静恬淡となりて至人の境地に達す


海岸の杭にトンビが一羽とまっている。


ISE04SEP14 YM 007



トンビの名は新九郎という。
邯鄲辺りからの流れ者らしいが、詳しいことはわからない。

新九郎はもう、何時間もこうして同じ場所にいる。
腹もすかぬ、のども乾かぬ。
暑さも気にならなければ
吹き上げる砂塵にもびくともせぬ。

新九郎の心は無だ。
その精神にはさざ波ひとつ立たぬ。

何故なら新九郎の存在その物が、
雲であり森林であり太陽であり
広大な大地の一部であるからだ。
新九郎は完全にこの世界に溶け込んでおり
眼前の景色と一体なのである。

即ち、新九郎には、
「己」という概念もなければ「他者」という概念もない。
つまり意識すべき対象が存在しない。
対象がなければ仮想の敵に緊張することもなく、
他者のする事にあれこれと思い悩む必要もない。

新九郎は「虚無」である。

木偶の如き顔は更に表情を失い、
語る事も稀となり、
ついには呼吸の有無さえ疑われるに至った。
「既に、我と彼との別、是と非との分を知らぬ。
 眼は耳の如く、耳は鼻の如く、鼻は口の如く思われる。」






秋の日の浜辺に
太陽の光が燦々と降り注いでいる。

新九郎は、今日も変わらず遠くを見つめている。


ISE04SEP14 YM 007





青字の部分は、中島敦「名人伝」より抜粋したものです。

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(1994/07/18)
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