FC2ブログ

続・成仏


先の例の最初の方、
毎日お墓に通われた悲しいご婦人は、
このままでは魂が成仏出来ない、と知人に言われて
悩んだ末に著者の僧侶に相談したのだそうだ。

僧侶曰く、
もしもその状態が続きご婦人の健康に害が生ずるようであれば
諭して違う方法を考えることになるかも知れないが、
原則として残された方の気のすむようにさせてあげたかった、と
そんな内容を語ってらしたと思う。
その過程が必要だから行われているのであって、
無理に止めるとかえって歪みが生ずる考えだ、ト私は解釈した。

損失の後は、ある種の過程を経てのちに、漸く平穏にたどり着ける。
無理をして自分をごまかせば、その歪みは必ず、いつかどこかで、
押さえつけられた反動と共に暴発することになるのだ。

私の場合は非番の度に神社やお寺を訪問して
旅立った者たちの魂の安寧を祈った。
この世で生を無事にまっとうできたことを
神仏に感謝し、ご報告し、手を合わせてお祈りをした。
自転車でまわったこの旅は、数年に渡り、
片道2時間程度の範囲にある神仏には
ほぼ、ご報告ができたと思う。
この過程を経て、漸く、ひとつの落ち着きが生じた。


読んでくださった方、ありがとうございます。
スポンサーサイト



成仏


いつかある僧侶の本で読んだ成仏の解釈が
非常に素晴らしかったので記しておきたいと思う。
ただ、目にしたのがずいぶんと昔のことなので
細かくは覚えていない。
したがって、内容に間違いがあってはならないので
著者のお名前を記すことは出来ない。

あるところに子供を亡くした母親があったとする。
その母親は、子供の死後、
雨の日も風の日も毎日お墓に通って、
一日を共にした。
年月が流れ、やがて訪問は毎日である必要がなくなり、
ご自宅の仏壇へのお祈りといった
毎日の生活に重大な影響を及ぼさない
自然な営みへと移り変わっていった。
ここをもってして、成仏、となる。
僧侶はこう語られた。

また別の方は、
失くした子供を投影する等身大の人形を持ち続けた。
その人形には生活の痕跡が見えるほどであり、
生きていた時と同じように接せられたことが明白であった。
しかしある時、その人形は寺へと納められた。
人形が代役を務める必要がなくなったのだ。
即ち、それをもってして成仏。
小林秀雄の「人形」にあったご婦人も
ここに至ったことを願う。

一般に成仏とは、
亡くなった方の魂を主体とするが、
こちらの僧侶は、残された側の心境の変化を以て
成仏としされている。
この点が非常に興味深く、
強く印象に残っている。



読んでくださった方、ありがとうございます。

続・心無罣礙


さて、
意味が云々なんて気にしない、などと書いたが…

こうなってくると、
この「心無罣礙」という言葉が非常に気になってくる。
言葉ではこのままスラスラと続きも出てくるのだが、
はて?果たして意味は・・・

私の般若心経の写経は既に500枚を超え、
そらで書くことも出来るのだけども、
なんと、意味について詳しくは知らない。
いや、見栄が働いてそんな言い方をしてしまったが、
実は本当に理解していないのだ。
要するに、氷で覆われた天体を研究するのに
表面だけ撫でていて、その下の海を無視しているようなものだ。
エウロパやエンケラドゥスに謝らねばなるまい。

話が逸れたが、とにかく、心無罣礙、である。

早速(今更ながら)意味を調べてみた。
いや、言い訳になるが、
以前にも般若心経の全編に渡って
意味は調べているのだ。
しかし、それが身につかないまま現在に至ってしまった訳だが、
決して学問しなかった訳ではなく・・・
などと、延々と言い訳が続きそうなので
ここまでとするが、
この「心無」というのは何となくわかる。
問題は「罣礙」だ。

いろいろと調べてみたが、
直訳から意訳に転じて、
どうやら「煩悩」を指すらしいことはわかった。
般若心経はここから、
心に煩悩無くば故に云々、ト続くので、
なるほど、日めくりカレンダーの教えに繋がっている。

こころに漂う悪意が妄想となり、
結果、自分自身の中に鬼を生じさせて
自らを苦しめることになる。
今の私がこれなので、なんとかしたいと思っていたのだが、

 無罣礙
心を空っぽに

この言葉が重大なヒントとなって
少しだけ前に進めた気がする。

日めくりカレンダーの進行が停滞していたことには
意味があったようだ。

神仏に感謝、である。




読んでくださった方、ありがとうございます。

心無罣礙


自宅にある禅語日めくりカレンダーが更新されず、
早や一週間が経つ。

この日の禅語は、

 無罣礙
心を空っぽにする


ある朝ふと目にとまり、その時は、
ふむ、なるほどな、程度にしか感ずるものがなかったが、
日中、そりが合わないある人物のことを考えて
ムカムカと一人で腹を立てていた時に、
ふと、解説文を思い出した。

概ねこんなことが書いてあったと思う。

禅の修行とは心を空にすることである。
空の心は鏡のように澄みきっているので、
映るのは畢竟、美しいものとなる。

なるほど。
それなら、どんなに嫌なことでも
きっとポジティブに転化されるのだろうから、
無駄に怒りのエネルギーで自分を消耗させなくてすむ訳だ。
これは便利だ。
しかし困った事実がある。

そうだ。
私は修行不足なので心を空にする境地からは
ほど遠いところにあるのだった。
前提が先ず、成り立たないのだ。

よって、私の曇った心の鏡に映る
その人物の姿は、間違いなくぼやけたものとなろう。
もしかしたら、頭に角のある姿かも知れないし、
陰口をまき散らす
狡猾で陰険な光景を想像してしまうかも知れない。
そうすると余計に疲れるだけだ。

ではどうしたらいいのか考えた。

ヒントは既に目にしていた。
「心を空っぽに」
これである。

もう最初から余計なことは考えないことにした。
ムカムカしてきたら、こう自分に呟くのだ。
心無罣礙、心無罣礙!
心を空っぽに!

意味が云々なんて気にしない。
これでずいぶんと楽になった。



読んでくださった方、有難う御座います。








| はなそらDAYz!ホーム |