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続 夕暮れの大山 


薄っすらとした乙女の頬のような桜色に染まる大山。
前回、この感動を大いに述べた訳だが
その慣性が未だに働いていて
このままの勢いで続きを書こうと思う。

私がうっとりとその美しい姿に見とれている間も
時は刻々と流れてゆく。
大山を染めた桜色は段々と薄れてゆき、
太陽はついにその姿を
箱根の山々の向こうに落としてゆく。

然し、姿を消した後もしぶとくその光を放っていて、
大蛇がうねったような箱根の稜線を
くっきりと際立たせる。

この時、桜色の空は既にその明度を落としており、
すっかり濃いオレンジ色となっているが、
真っ黒な雲の隙間に見えるその輝くオレンジは
周囲を覆う黒雲との対比もあって
不思議に神々しく見える。

そこに浄土があると云われれば納得してしまうだろう。

そんな西の空を
大山がゆったりと眺めている。
宵の薄い暗闇に覆われて
大山にも休息の時が訪れる。
心なしか、
日中に見られた緊張が弛緩しているようにも見える。
大山に夜という安息が訪れる。




読んでくださった方、ありがとうございます。

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夕暮れの大山


この時期、夕暮れ時の大山が美しい。

否、大山の名誉の為に云うと
当然いつの時期も美しいのであるが、
この時期は丁度、退勤の時間が黄昏時となるので
夕日に照らされる大山を目にすることも多く、
結果、美しと感ずる機会が増えるという訳だ。

とにかく、である。
大山が美しい。

入射角度や大気の状態も関係していると思うが、
この時期の大山は夕暮れ時に桜色になる。
それも、薄っすらとした仄かなピンクである。
乙女が恥じらいに頬を染めるような桃色である。
この可憐な緊張が大山には良く似合う。

丹沢の山々の中心に凛々しく屹立するその姿は
勇敢な女神のようだ。
容易に他者を近づけない、
潔癖で誇り高い、純白の百合のような姿。
毅然として背筋の伸びた姿は、
切れ味鋭く残酷でありながら
可憐でエレガントな高貴の女神、といった趣だ。

その女神がふと見せる憂いの表情。
それがこの時期の大山の桜色なのだ。




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新九郎譚 「思い出は温めるもの」


ここまで映画「ひまわり」の話をしてきました。
美しい記憶を再体験しようと
うっかり本物の映画を観てしまったものだから、
長年に渡って作り上げたイメージを
壊すことになってしまった、という、
少々情けない話ではありましたが、
時として虚実を虚実のままで信じきることは
幸せなのかも知れません。
大概、真実なんて知らないほうが
幸せなものなのですから。

ト、こんな話を
私の良き友人、新九郎君にしてみましたところ、
彼も似たような話を最近聞いた、とのことでした。
なんでも、彼の同僚である米人から聞いた話だそうですが、
ことは所謂SNS、〇ェイス〇ックなるものに関することだそうで、
うっかり過去を探求してしまったばかりに生じた
ある悲劇(?)のお話でした。

新九郎くんの友人、仮にKとしましょう。
ある時、KはこのSNSを使って
遠い昔の恋人を探すことを思いつきました。
米人というのは、たとえ名前が変わっても
このSNSには旧姓を記載している方が多いと聞きます。
検索にかかりやすいようにするのでしょうが、
これは歩いてきた遠い道のりに
花びらを落としてくるようなものなので、
探したいと思う人があれば
簡単に見つけることが出来るのだそうです。

とにかく、Kは容易に目標となる人物を発見したそうです。
Kは10年以上に渡ってその人物を思い続け、
結婚して子供が出来ても忘れることが出来ず、
その美しい姿は年月を重ねるごとに
いよいよ神格化されて
もうどうにもならないくらいに
確固たる存在となっていったとのことでしたので
発見の際の彼の狂喜は尋常でなかったでしょう。
その存在自体は確かに「過去」なのですが、
彼女を思う気持ちは「現在」なのです。

さて、元来過去とは、静かに佇むだけのシロクロの存在です。
それが今、SNSというツールを以て彩色され、
現実として動き出すのです。
諦めていた過去と夢でしかなかった現在に
不自然な接点が生じた訳ですが、
時間の摂理に逆らうこの行為が
果たしてKを幸福にしたのでしょうか?
新九郎君に聞いてみましょう。

曰く、Kは年月の残酷を知った、とのことでした。

呆れた話ですが、要は、
Kは、勝手に理想の人物像を作り上げて、
勝手に探して勝手にがっかりしたということです。
Kにとって、思い出は追及すべきものではなく
温めておくべきものだったのです。

SNSを貶めるつもりはないので一応記しますが、
今回のお話は悪い一例で、
多くの利用者は新九郎君のように古い友人を見つけて
旧交を温めるという良い使い方をしているようです。
まぁ、手段とは常に使いようだし、使う人次第ということです。





読んでくださった方、ありがとうございます。

続 ひまわりDEC18


私のなかの映画「ひまわり」は
永遠に自分バージョンのままであろう。

何故なら、ひまわりは長年に渡って私の中で
美しくありすぎたので、
今更オリジナル本編の内容を受け入れられないからだ。

ひまわりとは、こうでなくてはならないという
確固たるイメージが既に出来上がっている。
このイメージとは、とても悲しく、
悲しいが故に更に際立つ美しさを根拠としているので、
ある意味の聖なる存在に近いもののような気がする。
要するに、汚されたくない過去の美しい記憶、
それが(私にとっての)映画「ひまわり」だ。

ところが、である。
その記憶を追体験しようと、
うっかりDVDなどを買ってしまったものだから、
恐ろしい現実と相対することとなってしまった。
私の美しい記憶は、ある意味完全に否定されて、
理想を追い求める虚しさを思い知らされることとなった。

現実とは常に期待を裏切るもの。
夢を見ているだけのほうが
幸せであるのかも知れないが、
どうしても現実に期待を抱いて
迂闊な一歩を踏み出してしまう為、
人はいつも打ちひしがれる。

もうなんだか、
なんの話だかわからなくなってしまった。




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