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ひまわり DEC18



前回の話にちょっとだけでた、
映画「ひまわり」。
戦死したと伝えられた恋人を探し、
遠いロシアの地へ旅する悲しい女性の物語だ。

鑑賞したのは最早30年以上前であり、
懐かしさもあって、ふと、DVDを購入してみた。
そして驚いた。

長年の間になんと、私の心のなかで、
内容がすっかり改変され、アレンジがかかり、
もう完全に違う映画になってしまっていたのだ。

そもそも、私の中のソフィア・ローレンは、
可憐でおとなしく、日本的なか弱い、
おくゆかしい女性であったはずなのに、どうも違う。
本編に於いては
役所で係員を怒鳴りつけるほどの
豪快な女傑であって、しかも、
なかなかに開放的で、
離れ離れになる恋人との出会いも、
なんだかビーチで出会ってそのまま懇ろ、といった流れで
その後の別れに、いまひとつ、こう、同情出来ない。
もっと歴史ある、
時間を積み重ねたカップルだった気がしたのだが、
どうも、まぁ、違っていた。

こんな調子で、終始、記憶とは悉く
異なった展開が続いていって、驚いてしまった。

そして、最大の問題点はラストだ。
私の知る「ひまわり」は、
最後に傷心のソフィア・ローレンが
汽車からふと見た窓の外には、
美しひまわりの畑が一面に広がっていて、
そのまま幕を閉じる感動のラスト・・・ のハズだった。
ところが、その後、蛇足とも思えるエピソードが延々と続き、
なんだか正直、美しく簡潔に終わらなかった印象だ。

とにかく、驚いたのは自分自身の記憶のねつ造だ。
どうも、あのポスターの印象から
自分の理想のストーリーを長年にかけてでっちあげ、
熟成し、本物と疑わないほどに信じ込んでいたらしい。
本当はこうだったけど、こうであって欲しかった、という
願望もあったのかも知れない。

私バージョンのラストシーンでは、
ひまわり畑から段々とカメラが引いていって
広大なロシアの大地を映し出し、暗転したところで、
Fin の文字が筆記で記される細部まで記憶にあるのだから
もう、呆れるばかりである。
因みに、後にDVDを見直した時の記憶でさえ、
実はもう10年くらい前になるのでかなり怪しいという始末だ。

「ひまわり」は、私の心の中の、
素晴らしき映画トップ10の上位にランクされている。

にも関わらず、
私はオリジナルの「ひまわり」からは
緩やかに目を反らし、
このまま自分バージョンに
こだわり続けてゆくのだろうが、
これも、まぁ、ひとつの楽しみ方。






読んでくださった方、ありがとうございます。
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菜の花


年末、近所を自転車で走っていて
菜の花畑に出くわした。

菜の花といえば春のイメージだ。
枯れ草色の景色の所々に
アクセントのように咲く黄色が、
数日のうちにあっという間に広がって
こうして私たちは春の到来を実感する。
空は限りなく青く、地には菜の花が広がり、
そして花そらは
天然のサラダバーだと云わんばかりに
菜の花を夢中で食べていた・・・
私にとっては非常に思い出深い花だ。

まさか12月に菜の花を見れるとは考えていなかったので、
私は一瞬、面食らって、とまどい、
それから徐々に湧き上がってきた感動に
心地よく浸った。

ひまわり畑を見つめるソフィア・ローレン。
私はまさにそんな心境で、
迂闊にも、心のなかに、
映画「ひまわり」のテーマが流れてしまった・・・

という、ある冬の一日。




読んでくださった方、ありがとうございます。

ひとつの幸福


夢を見た。

花とそらと一緒に
涼しい川沿いの公園を散歩する夢だった。

以前ならば、
夢の中に描かれるこの美しい絵画は、
目が覚めれば間近に見る事が出来た。
幸福の額縁にしっかりと収まったこの絵は、
かつてこの世にあり、現前しており、
当たり前のように手に触れる事が出来た。
然し、その絵は最早永遠に失われた。
見る事も出来ず、形を成す事もなく、過去に静かに佇むのみなのだ。

今昔の差と、此処まで5年の間の風雨を思い、
過去が未だに現在であると錯覚しながら
私は自らを過ぎ去った日々に閉じ込める事に決めた。

過去に生きる静寂の人生。
これも又、ひとつの幸福の形であるのだ。





いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。


新九郎譚 「You are my son」


さて、我らが新九郎君は
いつも悪い事ばかりしている訳ではありません。

常識がないとか無鉄砲とか、
まるで伊予松山あたりに赴任した
例の教師のように云われていますけども、
いいところだってあるんです。

あれでなかなか義侠心があって
たまにそれを発揮することもあり、
人助けに首を突っ込む事だってあるくらいです。
勿論、常に全力、猪突猛進なので
良かれと思って行ったことが
どう結果に結びつくかは
神のみぞ知るといったところですが、
手抜きというものがないだけに
その行動には人の心に訴える力があると、
私はそう信じています。

今日は、
新九郎君のこんな話をしましょう。

先日、
新九郎君の10年来の親友(米人)が離婚の危機を迎え、
相手方(日本人女性)のご家族と
話し合いをすることになりました。
話をしっかり理解したいというご家族の希望があり、
第三者の通訳が必要ということで、
新九郎君に白羽の矢が立った訳ですが、
よく知った仲の、それも特別に気の合う友人の
離婚ということで…

いつもエネルギッシュな新九郎君が
なんだかボンヤリとしていたのを
私はよく覚えています。

こういった話し合いに於いては、
中に立つ者は双方の感情を
まともに受ける訳ですから、
その心的負担というのは想像以上です。
私にも経験がありますけども、
美しい海を汚す流出した重油のように
感情のぶつかり合いは
精神を荒々しく汚染します。
深淵も又等しくこちらを見返すに近い理屈です。

しかも良く知った者の関係なのですから
その負担ははかり知れないでしょう。

さて、話し合いの内容については
決して明かされることはありませんでしたけども、
その後の新九郎君の様子から
決して呑気ではすまされないものと伺えました。

しかしその長い、数時間に及んだ話し合いの中で、
一瞬だけ、
破壊され、廃墟となった町の片隅に
ひっそりと咲いた一輪の花のような
美しい場面があった、と、
傷心の新九郎君が
以下の如くに語ってくれました。

話し合いもいよいよ終盤となった際のことです。
離婚という言葉が皆の心を支配し
最悪の結末を予感しつつ、押し黙る中、
日本人妻方のお母さまが一言、
こうおっしゃったのだそうです。

「これからも私達はあなたを息子だと思っています。
あなたは私たちの息子よ。」

新九郎君は役割から一瞬通訳しそうになりましたが、
然し咄嗟に思いとどまり、通訳しなかったそうです。
何故なら、
言葉は訳せても気持ちまでは訳せないからです。
ここでは明らかに、伝えようとしているのは心です。
「お母さま、それは直接彼に云ってあげて下さい。」

「あなたは私達の息子よ、わかる?
 You are my son. You are my son. 」

気持ちは確かに伝わったようでした。
この言葉に顔を紅潮させて涙を流す彼に、
新九郎君は、
嵐の後で漸く差した陽射しを見た気がしたそうです。

今回のお話はここまでです。




いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。

読書


私の毎日は読書と共にある。
書は師であり友であり、私自身であり、
欠かすことの出来ない暇つぶしの道具でもあったり、
現実を押し付けてくるおせっかいな存在で、
同時に現実から逃避させてくれる救いでもある。
要するに、
なくてはならない人生の伴侶だ。

ハムレットにオフィーリア、
藺相如と廉頗、
助さんといえば格さん、といったほどの
切っても切り離せない存在、それが書だ。
これだけ言っても、まだ言い足りない。

さて、ここ数か月の疲労困憊の日々に
どうにも気分がすぐれなかった。
自分の能力に疑問が生じ
自信の根底が揺らぐ事態が続いた。
こんな時は三島由紀夫だ。
三島由紀夫の格調高い文章を読めば
なんだか自分が優秀であると錯覚できるので
きっと調子も戻るだろうと画策し、
すわ!と一冊取ってみたが、
なんと、拡張が高すぎて
読み進む気力が続かない。

よかろう、ならば、と、
今度は川端康成を手にした。
川端康成の静かな文章に浸りたい、などと
ある種、泣く子が母親に甘えるような姿勢で本を開いた。
淡々とした刺激のない、淡い色彩の美しい風景がひろがる。
人々は誠実に、懸命に生きている。
史記などには決して登場することのない
名もなき市井の人々。
一人ひとりに感情があり、思いがあり、人生があって、
そのひたむきな姿は私に勇気を与えてくれる。
登場人物の上品な言葉遣いも大きなポイントだ。

なるほど、今風の表現をかりれば、これは癒しの文章だ。
早朝の澄んだ森林に漂う霧のような清々しさだ。
今更ながら、回復の書を発見した。




読んでくださった方、ありがとうございます。


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