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写経 前半


写経が上手くいかない。
既に500枚近く書いてきたのだが、
未だに
字の大きさがうまくいかない。

一行の文字数は決まっている。
きっちり17文字だ。
行の最初から始めて
きっちり17文字。
最後の文字の下に隙間が出来てはならない。
また、スペースが足りなくなって
最後の3文字などが極端に小さくなってもならない。
同じ大きさで同じ間隔、整然としていなければならぬ。

然し、である。
先にも述べたがこれには相当の修練を要するようで、
私などは500枚近くも書き上げていならがら
未だに文字のサイズ調整に難儀している。
最初の一行など、常に、いつも、年がら年中、
開けても暮れても、絶対に何故か、
スペースが足りなくなる。

気が付いた時にはどん詰まりが目前なので、
畢竟、最後の3文字は極端に小さくなる。
バランスが悪いし、何より美しくない。
稚拙で未熟、
他愛もない子供っぽさだ。

二行目にすすむ。
一行目を見ながら、今度は文字を若干小さくする。
一行目の最後にスペースが足りなくなった反省を踏まえ、
間隔で文字のサイズを調整しながら進めてゆくのだが、
ここで大きな障害が生ずる。
「一」という一文字だ。

これは難しい。
ただの横に一本の線が、この文字だ。
書くのはいいだろう。
多少弓なりにしながら、力強く左から右へ。
最後はぐっと踏み込んで終了。
立派な「一」の完成だ。
ところがである。
なまじ単純であるがために、
なんと、この文字は上下の幅をとらない。
今、問題の焦点は
一行の中に如何に17文字をバランスよく収めるか、であるので、
上下の幅を取らない文字がそこに入ると
全体のバランスが崩れてしまうのだ。
要するに、「一」を含む一行は、
他の16文字が多少大きくても
行の最後でスペースが足りなくなることがなくなる。

では、「一」とその前後の文字の間隔を大きくとればよかろう、と
指摘してくださる諸兄もいらっしゃるだろう。
ところが、その調整が微妙で難しい。
私が如何に、進歩とは遠い存在かがわかる。

三行目にかかる。
前の行の文字サイズを参考にしながら進めるのだが、
そうすると又、二行目の「一」が問題になる。
「一」とその横にくる「是」では
縦のサイズが全く違うので、
どうしても「是」のほうが長くなってしまう。
横一列にがそろわないのだ。
これはもう、見えないマス目を書いて調整するしかないのだが、
感覚で生きている私に
そんな器用なことは不可能だ。

こうして様々な問題を抱えながら、
いよいよ後半に突入していくわけだが、
少々長くなったので
今回はこのへんにしておこう。



読んでくださった方、ありがとうございます。

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うた



前回、見知らぬ誰かがインターネットに掲載した
廃校の写真の数々と、
朽ちてゆく教室の黒板に記された
ある素晴らしい歌について語った。

改めて、日本の文字文学の素晴らしさに感動した。

流れゆく悠久の時の中で朽ちてゆく母校、
それを現在というポイントに立って見つめている自分。


例の歌は、
決められた文字数で心情を見事に表現していた訳だが
和歌の素晴らしいのはここなのだ。
無駄な装飾が一切なく、必要最低限の言葉で以て、
決められたルールの中で最も効果的に思いを表現する。

まぁ、和歌に限らず俳句や川柳も同じだ。
制限の中で、如何に言葉を選んで、抑揚を工夫し、
己の心情を表現するのか。
これはある種、
ゲームや遊びに通ずるとも考えられるので
気楽で楽しい文学ともなるのだ。
例のお茶商品の川柳など、皆さん楽しんでいて
実に微笑ましい。

こう云うとなんだか
決まりにこだわっているようだが、
これは決して自由律の句を否定している訳ではない。
尾崎放哉のように
心情をそのまま何の細工もなく表現するのも
芸術の極みの一つであるし、
そこに規制がないぶん
かえって自然がそのまま自然というか、
これはもう別のジャンルといって良いくらいなのだから
こちらはこちらで、また、美しい。

私は派手な装飾を好かない。
お金と言葉は無駄に使うな、トいった意味合いの言葉があるが、
シンプル且つ内容の充実したものが
最も美しいと思うし、
そこに文学の極みがあるとも思う。

ちなみに前述の言葉は中国のものであるが、
中国の歌も又、素晴らしい。
漢詩の美しさは芸術であるし、
その技法や平仄に則った整然、しかも、
雄大で且つ繊細な美しさ。
こういった文字文学は世界共通で美しいと思う。
漢詩を読むと一献かたむけたくなるのも、また愉快だ。

しかし私が最も好きな漢詩は
実は怒りの作品である。
所属する組織と決別する際、
己の怒りを漢詩に込めて
壁に殴り書きにして去ってゆく士が
中国の物語にはよく登場するが、
私のような俗人には
その姿がとても崇高に見えて眩しく、
ある種、ヒーローを見上げる少年のような心境になる。

何の話だったのか、かなり本筋から逸れてしまった。
黒板の和歌にもどろう。

作者不詳、山奥の廃墟にひっそりと綴られた
美しい人の痕跡。
血脈の通ずる言葉。

これが達人の作であることは最早疑う余地もなく、
私はただただ、心底、いたって感動してしまい、
在野の賢人とは実在するものなのだなぁ、などと、
膝を打ってうんうんと何度も頷いたのでした。



読んでくださった方、ありがとうございました。

廃校 後編


廃校の撮影者、鑑賞する私、
そこに現れた第三者。
この第三者こそが、実は今回の主役であり、
私がお伝えしたかった最も重要な存在である。

私はインターネットに掲載された
名も知らぬ誰かが撮影した廃校の写真を見ている。
前回、芸術という形を以てお互いの感性が共感したと書いたが、
現実には私の一方通行な思いでしかないので、
他者の干渉それ自体が起こりえないはずだ。

しかし、起きた。
その第三者はそれほどの衝撃だった。
廃校内部を進んでゆく撮影者が
ある教室へ足を踏み入れた時、
黒板に残されていた
その第三者の残したある痕跡。
静止した時の中に
見えない波紋を発し続けているかのような、
朧げでありながら判然と綴られた文字。
私はその時、はっきりとこの問題の第三者と
対面していたのだ。

朽ち果てて悲しからずや我が母校
窓辺 滅(数文字判別不可) 悠久の河


なんという和歌だろう。
見事な表現だと、先ずはハッと感嘆する。
それから胸に流れ込んでくる
この方の寂寥感というか、悲しい思いに、
今度は息がつまりそうになる。
朽ち果ててしまって悲しくはないのだろうか、ト、
疑問形であるが、明らかに悲しみを肯定している。
下の句が一部判別不能なのが惜しまれるが、
窓辺を流れる時間という悠久の河は滅ぶことはない、
トいった内容なのだろうか。

この黒板の和歌を実際に目にした瞬間の
撮影者の驚きと感動が伝わってくる。
出会いの際、撮影者と和歌の作者との間に、
どんな無言の対話があったのだろう。・・・
そんなことを考えながら、また何度も読みかえした。
私たち三人は、静かに盃をかたむけた。

この黒板に記された
人の心の欠片も又、
朽ちてゆく運命からは逃れられない。



読んでくださった方、ありがとうございます。


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