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KATY


前回からの続きである。

そのKaty Perryの問題の曲、
今回初めてビデオを観た。
ビデオは大変な悲しい内容で
ちょっと胸が締めつけられるようなものであった。

冒頭で年老いた女性が登場する。
どうやらこの女性が主人公で
別れの思い出を歌う構成のようだ。
女性には平穏な日常があることがわかるが、
その心には若い頃の心痛が未だ残っている様子だ。
女性は70くらいに見えるが、
だとしたら、
曲の主題となっている別れからは50年以上が経っていることになる。

女性にとっての余程の大恋愛だったのか、
故に、別れが人生の一大事となる事件だったのか、
それにしても、半世紀以上も思い悩むというのは
若干の不自然さがあるように感ずるが…

さて、ビデオは曲の内容に沿って進む。
出会いから幸福の時を経ての終局を
描いているが、その終局というのが突然の別れで
ここがオリジナルの曲とは違う部分だ。
ここで、年月が経っているにも関わらず、
何故これほどまでに女性が思い悩むのかがわかる仕組みだ。
肝心な部分なので
未視聴の方のために語る事が出来ないが、
少々ショッキングな内容となっている。

しかし少しだけ語ろう。



このミュージックビデオ全体を通してのテーマが
追憶であるはずだが、その対象が、
オリジナルの曲ではほろ苦い青春の思い出だったものが
このビデオでは比べ物にならないほどの厳粛な別れとなっていた。
そこがまず、大きく違うところだ。
最早別物と云ってもいい。
死別であるからだ。

夕陽に二人の手が一瞬だけ重なるけども、
虚ろな静寂を以て女性が現実に引き戻されて
ぽつねんと一人で立ち尽くすシーンなどは
あまりの悲痛な姿に硬直してしまうほどだ。

きっとこの女性は、一生このままだろう。
過去に苦しめられ、泣きながら生きてゆくのだろう。
そんな未来を暗示するような
悲しい黄昏時を以て、このビデオは終了する。



さて、これは、
創作に外連味を加えて
視聴者の受ける衝撃倍増を狙った演出だろうか。
どうもそうには見えない。
何故なら、ビデオの元となった原曲に
死別の原因となった交通事故の描写など
微塵もないからだ。
とってつけたような付加体なのだ。
どうにも不自然だ。何故か。

ここからは純粋に推測となるが、
アーティスト・Katy Perryはもしかして、
誰かに捧げる意図があったのではないだろうか。
どうしてもそうしたいと考えるに至った
やむにやまれぬ事情ができたのではないか。…

それならば納得がいく。
真相はわからない。



読んで下さった方々、有難う御座います。


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熱唱


Katy Perry という合衆国の歌手あり。
ポップで明るい曲が多く、
ある種、若さからくる短慮さや迂闊さを
晴れ晴れしく陽気に昇華させている印象だ。
彼女の世界は若さを楽しむ喜びで満たされていて
それは微笑ましほどの陽性である。

そんな明るいアルバムの世界であっても
中には思い煩う曲も存在する。
歌詞はいろいろ問題が生ずるとおもうので
ここでは出さないが、
その曲は若いカップルが破局しての後を
女性の視点から歌ったもので、
アルバムの雰囲気に則した明るいメロディーではあるが、
訴えかけてくるような歌詞はなかなかに重い。

この曲は別れの後、
最初の出会いを思い起こす場面から始まる。
高校の後の夏、盗んで飲んだ親の酒、一緒にいれたタトゥー、
まるで何か現実的な根拠があるかのように語り合った未来、
凡ては過去の遺物となってしまっていて、
思い出を語る主人公は痛々しい限りだ。
世界を敵に回しても、といったくだりなど、
所々に刺すような強烈な言葉が紡がれていて
これがこの曲を
他の明るい曲とは一線を画す存在としている。
ポップでありながらも切ないのだ。

特にサビの部分、
別の人生ではあなたとこうありたい、という
絶対に叶わない願望を語るくだりに至っては
最早その力強い歌声に涙がまじっているのではないか、と
錯覚するほどだ。

当然であるが、
私がこうした若い女性の恋愛の事情に共感することはない。
然し、私の心を捉えたのは
「もしもまた別の人生があるのならば」
この部分である、悲しい願望を語るくだりである。
聴き手というのは自分の都合に合わせて歌を聴き、
自然と自分の事情に重ねてしまうものだ。

「もしもまた別の人生があるのならば」
花とそらとまた一緒に…

こんな風に繋がってくると、
もうダメだ。 もういけない。
その歌は最早、失恋の歌ではなくなる。
自分の人生の損失をテーマとした一曲に変貌するのだ。

曲は、事情や背景の説明を経て、
サビの部分で歌い手の感情の頂点に達する。
車を運転しながら熱唱する私の気分も
クライマックスとなり、それはどうやら、
信号待ちの停車中に
目の前を横断する年配のご婦人が
顔を背けて笑いをこらえるほどとなったようだ。
車は個室と勘違いしがちだが、
この点には注意が必要というお話。



読んでくださった皆様、有難う御座います。

手段


前回、故紙録の飯塚染子さんが
悟りに至るきっかけとなった言葉を記した。

念仏一辺倒から
一旦立ち止まって息をつき、
落ち着いて周囲を見回すことによって
禅と出会い、
禅を通して悟りに至ったという話であるが、
これは決して念仏を貶めている訳ではない。

公案をみてもわかるが
悟りとは人それぞれだ。
畢竟、それに至る手段も様々となる。
千差万別、多種多様、バラエティーに富んでいて
どこに探し求めた答えが落ちているのかわからない。
ここでのポイントは、
視野を広く持つことによって
行き違いを防ぎ
目指す相手をしっかりと見逃さない、ということだ。
染子さんの場合はそれが禅であった。

まぁ、それだけのことで、
もう一度云うが、
これは禅と念仏を比べる話ではない。
念仏が尊く有難いものなのは当然の話で、
念仏を心の拠りどころとする人は
歴史を見ても枚挙にいとまがないし、
今だってそうだろう。
私も念仏をお唱えする。

禅が合わない人もいる。
禅は自分と真っ直ぐに向き合う修行なので、
かえって己を追い詰めることになり、
悲しく結末した話も多く聞いた。
要は、前述もしたが、人それぞれ、なのだ。
私は禅をやらせてもらっているが、
これはだらしない自分を引き締める目的だ。
豆腐を鍛えて鉄にする手段は
禅しかないと思っている。

これだと思って傾倒してきたものが、
実は自分には合っていなかった、ト、
そんな悲劇は大いにある話だ。

何かに集中した時間というのは
決して無駄になることはないけども、
やはり目指す目標に回り道はしたくない。

一旦立ち止まって周囲を見渡す。
道に迷ったら勘で曲がらず地図をみる。
あらゆる縁を大切にする。
人の話を聞く。
悟りのきっかけはどこにあるのかわからない。





読んで下さった皆様、有難う御座います。

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