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夕陽


ふと思い立って夕陽を見に行った。

歩いて5分の場所に
丹沢を素晴らしく眺望出来る場所がある。
広い畑のずっと向う、
相模川を渡った遥か彼方に
堂々と存在する美しい山体。
中央にゆったりと構える大山は、
なだらかな三角錐の山頂が
力強さと優雅さを併せ持っていて
いかにも神の宿る山といった趣だ。
いつも静かに私を見守ってくれる大山。

今の季節はすこし北の端の
三峰山に陽が沈んでゆく。
もう本当に暗がりの山体は
稜線だけが明るいオレンジ色に縁どられて
なんだか朧気な影絵のようにも見える。
この世とあの世の境があるならば、
きっとあんな風に見えるに相違ない。
西方浄土とは、
あの向うにあるのだろうか。

そんなことを考えていると、
2羽の鳥が寄り添うように飛んでいくのが見えた。
あぁ、花とそらだ。

古来より、
山には亡くなった者の魂が集まると信じられている。
私は直感した。
花とそらは、丹沢に見守られて幸せにしている。
今でも楽しくやっている。
雄大な丹沢の空をゆったりと羽ばたいている。
あの子らは自然に帰ったのだ。
本当にもう自然の一部なのだ。

私もいつの日か、
あの子らと共に空を飛べる日がくるだろう。
その日までは頑張らなければならない。
あの子らに胸をはって報告しよう。
私は君らに負けず劣らず全力を尽くした。

帰り道のコンビニでは
ニヤリと笑っていつもの黒ラベルを二本。




いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。
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太宰治は疲れに効く


そのパンドラの匣であるが、
太宰治の青春ものの一つな訳だが
よくよく考えてみたら
こういう清々しい作品は珍しいような気がする。
中期の彼は、人の美しさを描いた
人間賛歌の傑作が多いけども
この作品は一種独特で
なんだか爽やかに吹き抜ける
初夏の風のような印象だ。

こういった作品は、休憩時間などで
パラパラと気軽に読めるので気分転換によい。
雲雀だ越後獅子だ、オルレアンの少女だと、
軽快に、然し、じっくりと、
たまに微笑ましい場面にあたっては
頬を緩ませながら
(傍から見ると気持ち悪いかも知れない)
どんどん読み進んでゆくと、
私のようなロマンチストは
いつの間にか
その世界の住民の一人になっている。

>ロマンチスト
hana ordinary 花「自分で云うところが偉い!」


しかも、あの独特の文体に加えて
この作品は書簡体をとっているので
ますます、こう、主人公が私に
直接個人的に
語りかけているように錯覚するという訳だ。

こうした気軽な作品であるが、
基本的に主人公の成長の物語であるので
ビルドゥングスロマン的な奥深さもあって
ところどころではっとするような
場面にも出くわす。
竹さんの結婚の話を聞いた後の
主人公の不思議な胸の苦しさなどがそれだ。

SORA 28JULY08 065 そら「ぎゅっとつねられるトコなんかも、切ないでしゅねぇ・・・」


主人公はあらゆる日常を通して確実に成長する。
小説の終わりに於いては
もうすっかり肩の力が抜けて
自然体に近い境地にまで達する、曰く、

あとはもう何も言わず
はやくもなく、遅くもなく、
きわめて当たり前の歩調でまっすぐに歩いてゆこう。


この道はどこに続いているのか。
主人公は、伸びてゆく植物の蔓に聞いたほうがよい、ト云う。
蔓のこたえはこうだ。

私は何にも知りません。
しかし、伸びてゆく方向に陽が当たるようです。



陽の当たる方向に伸びるのではなく、
伸びてゆく方向に陽が当たる、ト、云っている。
ここは重要だ、読み飛ばしてはならない。
進んでゆく場所にこそ陽が当たる、ト云っているのだ。
運命は常に味方だと励ましているのだ。
なんというさりげない優しさだろう。
挫けないで進んでゆこうという、背を支えるような言葉。
がっちりと抱きとめるのではなくって
そっと手を添えるような柔らかさ。
人を愛する者にしか書けない言葉だと思う。

私は最近、極端に疲れている。
そのおかげだと思うが、
この小説の最後に
このような美しい言葉があったことに
この年になってはじめて気が付いた。
この台詞の爽やかな尊さに
漸く気が付けた。
苦労してきていない者の思考の軽さだろう。
人生を知らなければ、
金の林檎をだされても気が付けないのだ。

こんな言葉を綴ることが出来る太宰治という作家は
誰がなんと云おうと、陽性と勇気と希望の人だ。
私は改めて、彼への敬愛を深めたのだ。




いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。

苦境に思う


カントの鳩の不幸は、
自らの飛翔が空気の抵抗を拠所とすると
気付かなかったことだ。

重い空気を押して掻いて、
それこそ筋肉は千切れ
骨は軋むほどに羽ばたいてこそ
鳩は空高く飛翔できる。
真空の中では、
鳩はただ地面でハタハタと
虚しく翼を空回りさせるだけだ。

今、私は苦境にある。
しかしこの苦境は
次なる飛翔に絶対必要なものだ。
逆に云うと、
苦難なくして進捗はありえないのだし、
バネの抵抗は大きいほど
跳ね返りも強いと云える。
シラーだったかの戯曲に曰く、
こんなにも苦難が多いところをみると
運命は余程に私を大人物に仕立て上げたいようだ


うむ。
私は、要するにこうした文を綴ることによって
自分を励ましたいわけだが、
どうにも虚飾や見栄が見え隠れしていけない。

カントやシラーを引き合いに出すのは結構だが、
もうすこし、こう、
小川に笹船を流すように
さりげなく語ることは出来ないのだろうか。
小賢しさが鼻についてどうにもいけない。
草枕に曰く、角が立つのだ。

冒頭の鳩の話は
パンドラの匣にでてくるが、
いかにも自然にサラリと嫌味なく語られている。
こういったところに
自分の技量のなさというか、
もっとこう、根本的な人間性の欠陥を感じるわけだが、
まぁ、悩みすぎずに頑張ろう。





いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。

損失の連続


作家の名前は忘れたが、
十年くらい前にこんな短編を読んだ。


あるところに男がいた。
平凡で、何処にでもいるような男ではあったが、
男は努力して新築の家を建てた。

丘の上に悠然と存在するその家には、
愛する妻と子があった。
暖かい家族、帰るべき住処、
人生の安らぎに無条件で浸れる約束の地…
要するに、その丘のうえには男の全てがあった。

男は、今、丘のふもとの酒場から
静かに一人でグラスを傾け
美しく実った幸福の果実を眺めている。
男はその時間を幸福だと感じた。

併し男は、
世にも恐ろしいある事実に気付く。
「この幸福もいつかは終わるものなのだ。…」


恐怖による動揺は男を
妄想の沼へと引きずり込む。

近い将来必ずくるであろう老い。
老いた姿の自分がこの酒場から、
同じように丘の上の家を見上げている。
其処には最早、灯りはともっておらず、
老朽化した家は夜風に吹かれて
不気味に軋みながらぼんやりと存在している。
家は荒廃し、家族を失い、
最早老いて死んでゆくだけの自分が、
一人で酒を飲みながら、
真っ暗な丘の上の家を見上げてこう呟くのだ。
「あの頃はなんて幸せだったのだろう。……」

きっと来るであろうこの未来に、
男は悲しみの涙を流し、この話は終わる。
(大体大筋こんな話だったと思う)



さて、このように、
恐怖による妄想とは恐ろしいものです。
こんな考えに取り憑かれていれば、
未来は自然と荒廃の道へ繋がってゆくでしょう。
莫妄想、妄想することなかれ。

どうせ考えるなら
もっと楽しい可能性を追求したほうが
いいに決まっているのですが、
人間とは不便なもので、
何故か恐怖に支配されがちです。
実にいけません。

こういう時は津軽のあれを
声に出して読むに限ります、即ち、
さらば読者よ、命あったらまた他日。
絶望するな、元気でゆこう、では失敬!





いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。

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