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多忙にて


このところ多忙な日々が続いている。

普通に取り組んで4、5ヶ月かかる仕事量を
1ヶ月ちょっとでこなさなければならなくなり、
いや、それは自分で引き受けてしまったわけであるが、
正直その時、ページ数を聞いただけで
まるでその量に実感がなかったので
気取って簡単に引き受けたのではあるけども、
プリントした書類でずっしりと抱え持った時、
その重きに、完全に墓穴を掘った、と、
泣きそうになったのはここだけの話だ。

しかし、その時の自分は、
無意識のうちに計算して
これはやれると判断したからこそ
引き受けたのであって(多分)、
やってみたら結構出来てしまった。
ものすごく苦労はしたが、
掘った墓穴を完全に飛び越えたのだ。

私はこれまで、
同じパターンで何度となく墓穴を掘ってきた。
併しその度に
全力で事にあたりそれを飛び越えてきた。

その結果、どうも自分でも知らないうちに
力がついていたようだ。

去年の自分には出来なかったことが
今は出来るようになっている。


これが積み重ねの成果だと思う。
地層というのは過去の積み重ねのうえに出来るものであり、
今の姿は過去の現実を示す、ト、ある地質学者が云っていて
私はこれを実践道徳の言葉としてとらえているが、
正に真実であると思う。







いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。
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45分


45分というのは長いようで短い。
50分というと、正直長いと感じる。
たった5分の差だが、30分経過したポイントからみれば
残り15分か20分かの違いは大きい。

私は勉強の時間は45分と決めている。
休憩は必ず15分、
そして亦、45分の勉強、15分の休憩。
きっちり一時間サイクルで、
なんだか心地もよい。

この45分というのは実に不思議だ。
勉強の出だしは集中しているので
10分15分はすぐに過ぎる。
それからさらに15分勉強すると、
なんと、残りすでに15分しかない。
たった15分程度なら頑張ろうという気になる。
これで気が付いたら45分、楽勝だ。

しかも、15分きっちり休憩をとるので
回復も確かに取れる。
疲れが完全にリセットされるので、
集中しての学習が可能だ。
この繰り返しで、無理なく一日勉強できる。

45分というのは、
絶妙と呼ぶに相応しい不思議に便利な時間だ。




いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。

洗濯


私は洗濯が好きだ。
人それぞれ、意味もなく好きなものがあろうが、
私の場合は洗濯に限る。

洗濯カゴにほんの少量でも
未洗濯の衣類があれば、
洗濯せずにはいられない。
片付くことに喜びを感ずるのだ。
放ったらかしは許されない。

洗濯物を干すのにも拘りがある。
先ず、物干しハンガーに干す洗濯物は、
左右均等でなければならぬ。
然も、風通しの良い配置でなければならぬ。
そして最も重要なのが見た目の美しさだ。
乱雑であってはならぬ、乱れていてはならぬ、
凡てが均等で、
古代ギリシャのような様式美が求められる。
これらはほんの基本の原則だ。

乾いた洗濯物の取り込みは、
ある種、秋の刈り入れに似た喜びがある。
そしてここにも決まった作法がある。
洗濯物は、すわ!と一気呵成に取り込んで
次々と山積みにしてゆき、
しかる後にどっかと座って
落ち着いてたたむものだ。
山と積まれた収穫の喜びを
じっくりと味わうことに、
このステージに於ける醍醐味がある。
洗濯物取り込みのプロセスは、
流れ落ちる滝の動と
さざ波む滝つぼの静に似ている。

こうして洗濯物は箪笥へと帰ってゆくわけであるが、
落ち着く間もなく取り出され、着られ、
そしてまた洗濯される。

この様な衣類の運用に、
私は水の循環との類似をみる。
川を流れて海に到達した水は、
蒸発し、雲となり、雨となって大地に降り注ぎ、
そしてまた川を流れて海という箪笥へ帰ってゆく。
洗濯とは、
この一連の運命を実行する
形而上学的な儀式(ceremony)と云ってもよい。

時折、洗濯するものがなくて、
仕方なく、数回しか着ていない
充分以上に綺麗なパーカーを洗ったりもする。
最近ある記事で読んだのだが、
皮脂などの汚れが及ぼす繊維へのダメージは、
洗濯によるダメージよりも大きいのだそうだ。

一般には洗濯の必要がないと思われたものまで
洗濯していた私にとって、
この情報との出会いは僥倖であった。
私の衝動の正当性が証明され、
背を後押しする精神的な追い風となった。

人にはそれぞれ妙な拘りがあるものだが、
私の場合は洗濯への愛である。
次回は掃除愛について語る。


いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。








夢百夜


こんな夢をみた。

どこか田舎の宿で迎えた朝、
そらと共に外へ駆け出して
見知らぬ土地の散歩を楽しんだ。
空気が澄んでいる。

そこは、山峡の小さな農村だった。
小川が流れ、草木は青く、
これから始まる楽しい旅の予感に
私たちは希望に満ちていた。

どんどん進んでゆくと
そらがプップをした。
ばつの悪そうな横目でこちらを見ながらの
プップの体勢が可愛らしい。

そうしているうちに
お寺の鐘が響き始めた。
歴史を感じさせる瓦屋根が見える。
思いの外近い。
私たちはお寺を目指した。

花もいてくれたなら。。

そう考えた瞬間、花が現れた。
いつもの花そら。
寄り添うように歩いている。
どんどん進んでいく。
二人がそろった。
本来私たちはこうなのだ。

みんなでお寺の山門をくぐった。
そこから記憶が曖昧だ。

夢だった。
夢の中で私は今日、花そらとお散歩を楽しんだ。
この記憶だけは断固とした現実だ。

私はこの夢をよくみる。



いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。

私の現実


芳一のみていた世界は現実。
それは確固たる事実であり
現象であり、生きた血の通いなのだ。

そらが亡くなった時、
私たちはある湖のほとりで
そらの名を精一杯に叫んだ。
暮れかかる空、
いつも変わらない山々、
何処までも広がる湖面に向かって
何度も何度もそらの名を叫んだ。
霊山で行われる
この魂呼び(たまよび)という儀式は、
きっと死者に届くのだという。
夕暮れの刹那、
私は言い伝えが本当であった事を知った。
その実感こそが
私の感じた現実だ。

ある時私は、
米国に在る母の様に慕った方が
亡くなったという報を受けた。
自転車を飛ばして海にゆき、
遠く太平洋の向うの米国を想った。
その帰り、まるで人のような
大きな木の葉の塊が突然
突風に吹きあげられるのをみた。
上空遥か彼方に大きく広がりながら、
木の葉の一枚いちまいが
陽の光を受けてキラキラと輝いていた。
昼の空に夜空が現出したようなその光景は、
まるで魂が天に帰ってゆくようであった。
私はそれを別れの挨拶ととらえたが、
それも又、確かな現実であるのだ。

そろって水面を泳ぐ2羽の水鳥は
花とそらの遊ぶ姿。
寄り添うように咲いた2つのタンポポは
花とそらの微笑みの姿。
流れる2つの雲、天空の二人の童子たち、
ペアで存在するものは
凡てが花とそら…
これが私の現実世界であり
断固として存在する現実の心象風景だ。



いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。


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