さて、新九郎君の考えですと、
蝉の前半生は慎ましく地味なものとなる訳ですが、
果たしてそれは真実なのでしょうか?

蝉にだって個性があるはずです。
ですから、もしかしたらじっと地面の下にいる生活を
悠悠自適と考えている蝉がいるかも知れません。
特になにもせず、植物の根から
美味しい樹液を吸って、
静寂に包まれながら何年も暮らす…
もしかしたらこれは、
夢のような生活とは云えないでしょうか?

外出するのが嫌いな人だっている訳ですから、
人生の終焉の時になって
ほとんど運命的に外界に出て行かざると得ないことを、
苦痛に感ずる蝉がいたっておかしくありません。
そんな蝉たちにとっては
人生の最期に試練が設定されている訳ですから
あの鳴き声はもしかしたら
恨み辛みの合唱かも知れないのです。

こう考えみると、
どうやら蝉たちを一緒くたに考えるのは
失礼かも知れません。
蝉を単純な虫と決めつけ、
無意識のうちに見下している訳ですから、
考えを改めざるをえません。
その生き方に感ずるものがあるのであれば、
その生き方を尊重するのが公明正大というものです。


などと、おかしな理屈をこねてみましたが、
やっぱりあの蝉たちの大合唱と羽ばたく姿は
喜びの姿に他ありませんね。

感じ方一つで
蝉の前半生も幸福なものと捉えることが出来る、
といったお話を先日伺い、強い感銘を受けたので
そのお話を書きたかったのですが…

人の言葉を表現するのはどうにも難しいことです。
自分の身になっていない、ということでしょう。




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新九郎譚「蝉」


夏の終わりは新九郎君を
ちょっぴりメランコリックにさせるそうです。

盛夏の折、
あれほどの隆栄をほこった
蝉たちが

一羽、そしてまた一羽、

乾いた死骸になって
地面に横たわる様は、
まさに虚しい無常を表しますので
まぁ、新九郎君でなくとも
物悲しくなる人はなるでしょう。

蝉は暗い地面の下で何年も、
ただじっと、慎ましく暮らします。
何の贅沢もせず、
何の栄華も望まず、
ただじっと、
身の丈にあった生活を粛々と続けるのみです。

そんな蝉ではありますが、
人生の最後のほんの一瞬、
ついに太陽を目にする時がきます。

もはや、蝉を冷たく重く圧迫する
圧倒的な質量、地面に抑え込まれることもなく、
蝉は自由に、力強く、
この一瞬を満喫するように
どこまでもどこまでも、
高く高く、この大空を思うがままに
飛んで行くのです。
初めて感じた生きる喜びに
全身を満たされながら。。

しかし、蝉は知っています。
この幸福は長くは続かないことを。
だからこそ、
この一瞬が輝いているのだということを。

墜落してゆく仲間たちを横目で見ながら、
蝉はただ、己に許された残り少ない時間を
精一杯に生きるしかありません。
それが蝉の人生…

さて、
夏の終わりにはいつも、
意外にもロマンチストな新九郎君は
この様な思いに耽っている訳ですが、
そんな時は大抵、ガサツな一言が
うっとりした表情の新九郎君を現実に引き戻します。

Awww!うるさい!
ヤツらはいったい何を叫んでいるんだ!?

新九郎君は故あって米国人と職場を共にしています。
無常観など欠片も気にしない米人には、
蝉の悲しさなど理解しようもありません。
出身の州によっては蝉を知らない人もいますので、
ますます無理もない事情となります。

よくわからないけど、たぶん、
Push, Push a hat (突く突く帽子)じゃないかな?

そう、返答する我らが新九郎君は今日もいい加減です。




いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。








彼岸花


先日、老師のお話に彼岸花の話題がでた。

彼岸花といえば思い出すのが、
そらが亡くなった後に
花と二人きりで歩いた、
丹沢のある小さな小道だ。

そらのいない違和感と、
色を失い花弁を落としはじめた
無残な彼岸花の群れ、
物事の終焉を予感させる薄暗い曇天。
物悲しさの中を私たちは無言で歩いた。

その時になぜか、
山間に見えた大山の姿が
妙に神々しく感ぜられたのを思い出す。

花は凝っと座って、
何事かを考えながら
大山を見上げ、
私はその背をそっと抱いて寄り添った。
そらの死に、
私たちは傷つき疲れていた。


彼岸花の、
あのはっとするほどの鮮烈な赤には
古来より多くの歌が残されているのだという。

その歌は、喪失に係る痛恨の思いが
迫真の力で綴られたものが多い、トいった意味合いの
老師のお話だったので、
私は少々調べるのに躊躇してしまったが、
否、躊躇はしなかったかも知れないが、
そんな悲しい歌に触れてみようと思った
自分に驚きはした。
かつては、
そんなものは遠ざけねばならなかったからだ。

果たして、矢張り悲しい歌ばかりであった。

地に浮かぶその赤い花を
幼子の血に見立て、
咲いた花は
ちょうどその子の(亡くなった)年の数、ト詠む歌などは、
特に彼岸花と死の関係を
生々しく描写していた。

彼岸花の赤は、厳粛な死出の彩なのだ。
従って、あの日、私たちが歩いたあの小道は、
矢張り死んだ後の世界への旅の始点であり、
その先にそびえる大山は
亡くなった者たちの霊が眠る場所なのだと、
私は改めて確信した。





いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。

LUKA 後編


子供というのは100%親に依存して生きている。
だからその親から攻撃を受けると
もうどうにも逃げ場なんてありはしないのだ。
だから、
『現実の自分は実際の自分ではない(これは単なる悪夢だ!)』と信じきようとする
悲しい逃避しか残されていない。

こういった逃避は
「乖離」という現象に結果する。
この言葉を書くだけで、もう胸が痛く指が震えてくるが、
どうしようもない現実の自分を自分ではないとし、
「あの可哀想な子は自分ではない」
という架空の自分、要するに、
『現実の自分を傍観している第三者』つくりあげて
それを『本当の自分』として認識しようとする。
これは当然無意識に行われるので
自分のなかにあるAという人格がBという人格を認識することはない。
つまり、よくある多重人格と自称する人が
いろんな人格を説明するのは嘘っぱちなのだ。

犯罪の言い訳に多重人格云々をいう者の主張は
決して通じはしないし、鼻で笑われるだろう。

人と違った自分を演出したいが為に
くだらない多重人格ファンタジーを語るものは、
乖離性障害、旧:多重人格障害(MPD)、の深刻さを知れば
死ぬほど己を恥じることとなるだろう。

「LUKA」という歌は単なるポピュラーソングでは断じてない。
淡々とした抑揚のない独白に、最初は、
なんだか変わった歌だな~、くらいの印象しか持たなかった。
R.E.M.など米国のアーティスに多くみられるように、
本稿にあげた「LUKA」も、
もうその歌詞を書いたアーティストにしか
意味がわからないという、ある種の芸術性を持った歌だと
誤解していた。

そうではなかった。

最初にこの歌の背景や本当の意味をしった時、
私は戦慄し、しばし言葉を失って硬直していしまった。
そして再度この歌を聴き直し、プロモーションビデオを観て、
正直に告白すると切なさに涙してしまった。

私は直情的であるので、
もうその勢いで本稿を書いている。
したがって、読みにくい箇所もあるとは思うが、
そこは勘弁してもらいたい。






いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。


LUKA 前編


女性のアカペラが静かに流れるなかで
コーヒーを飲むだけの情景。
昔そんなCMがあった。
(すこし大袈裟だが)
80年代を生きた日本人なら誰もがおぼえているだろう。

あの不思議に美しい歌声の主は
スザンヌ・ヴェガという米国カリフォルニアの歌手で、
日本でも、まぁ、件のCMソング(「Tom's Diner」という題)もあり
お馴染みだと思うが、
彼女の「LUKA」という曲については
本邦に於いてどの程度の認知度があるのかはわからない。

どれほど理解されたかもわからない。
何故なら、当時、日本ではまだ
子供の虐待という深刻な社会問題が
それほど表面化していなかったからだ。

私の名前はルカ、
(あなたと同じ集合住宅の)2階に住んでいる。
多分会ったことあるよね。


こういった独白で歌は始まり、
最後まで淡々とこの調子で終わる。
そしてこの「淡々と」が、
この歌を
不思議に厳粛にさせている。

ルカに何が起こっているのか。
歌詞はその現実を伝えない。
ただ、
「何も聞かないで」
この言葉を繰り返すのみだ。

「私は不器用だし、馬鹿(クレイジー)だし、」
これはルカが
日常浴びせられている言葉に相違ない。
だから、
「自尊心を以ての振舞いはしないようにしている。」
(日本語にするのは極めて困難ですが、強いて云えば、
 「(ダメな子だから)出しゃばらないでひっそり生きる」
 くらいの意味になると思います、消極の極みだと感じて下さい)

という言葉が実に自然にでてしまう。

これはもう、正常な子供の姿では断じてない。
本来、のびのびとしているべき子供が、
限界を超えて萎縮しきっていることを意味する。

歌は淡々と進行し、
「私は別に大丈夫だし、
 これはまた、ドアにぶつけただけだし」

トいう悲しい説明の後、

「It's not your business. 」
(「あなたには関係ない」という意味ですが、
 「(関係ないんだから)引っ込んでいろ」という
  攻撃的ニュアンスを含みます)

という、この歌で唯一の強い言葉へと続く。
質問への
苛立ちを隠せない印象だ。

そしてまた淡々と進行し、

「どんな調子?(大丈夫?)なんて聞かないで」
「聞かないで」
「聞かないで」
「聞かないで」
「聞かないで」

「(何を言われても黙って)言い返さない」
「言い返さない」
「言い返さない
「言い返さない」
「言い返さない」


この繰り返しで終わる。

冒頭でも触れたが、
「LUKA」は、虐待をテーマとした歌だ。

この深刻さを当時、
どのくらいの日本人が理解していたか。
ポップな伴奏もあって、
その悲しさに気付いた人は
少なかったんではないだろうか?

だとしたら、
「LUKA」の小さな叫びが聞き流されていたのだとしたら、
それはとても残念なことだ。


もしも興味がわいたら
ひとつ聴いてみていただきたい。
私がそうだったように、
事の本質に気付いてからの理解は
心に準備が出来ているだけに、
より深いものとなるはずだ。



YOU TUBE もありますし、
映像のあるプロモーションビデオがオススメです。









いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。



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