暁の石窟寺


愛する者を亡くした後の
私の唯一の希望は時間であった。
時間の経過のみが悲しみを癒す事が出来る、
所謂、時間薬に頼るしかなかった。

偉大な時の流れはいつしか
私を救ってくれたけども、
しかし、過去はある時に突然
現在と繋がって私を大いに驚かせた。
それは、睡眠という記憶のリセットだった。

私は夜中に突然目覚めるのが怖い。
私の心の根底を支配しているのは
過ぎ去った過去に相違ないので、
睡眠中に行われる記憶の最適化中は
どうしてもその事が主要トピックとなってしまうのだ。
而して、夜中の突然の覚醒の際には
当時の記憶が生々しく蘇る。

明け方に私は夢をみた。
早春の空には薄雲がかかり
呆然と歩く私の前が突然視界が開けて
石窟の寺院が姿を現した。

その寺院は馬蹄状に広がった滝と一体化しており、
壁には一面に清らかな水が流れていた。
慰霊碑を思わせる石の塔が建ち、
日本風とも中央アジア風とも思える建造物は
静かに滝の流れに身を浸していた。

入口に跪き、
私は愛しい者たちの名を
何度も何度も叫んだ。
あまりの悲しみに、死へ逃げようかとすら考えた。
私は何度も叫び、寺院を見上げ、そして目が覚めた。

辺りはまだ暗く、
月は煌々と輝いて流れる雲を照らしていた。
その様は、
川の流れを時に例えた方丈記を思い起こさせた。
雲は淀みなく流れてゆく。
時の流れも同様、そして別れは定められた法則。

私を過去に連れ戻す真夜中の覚醒は
きっとこれからも私を悩ませる。
しかしこれは苦しみではなく
愛の再確認と受け止めれば
私はまた明日も生きてゆけるだろう。
そして感謝の気持ちを新たにするだろう。
神は私と共にある。





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続、浄土 


さて一方、
禅の僧侶に浄土を語らせるとどうなるか?
これはもう、大変な事になる。
いや、実際、すごいインパクトだった。

「何処まで西に行ったって
そんなものありゃしませんよ!」
「地球は丸いんだから、
元の場所に帰ってきちゃうでしょ!?」
などと、大胆に笑い飛ばしてしまう始末である。
これにはさすがに
苦笑いするしかない。

私は、禅とは、
この世界に真正面から向かい合って
現実を如何に生きるのか、ト、
この人類の持ち得る最難関の学問を
学ぶ場だと思っている。
それは、
一切の妥協がない
リアリストの世界に他ならない。

従って、この禅僧の答えには
充分に納得がいったし、
なんの反論も持たなかった。
そして、少しの嫌な気もしなかった。

これは、私が心の何処かで、
禅の世界観とは全く異なった浄土の世界観を
決して交わる事のない
別の枠で考え分けているからでもあるが、
理由はそれだけではない。
私がもしも浄土を口にした時、
何故それを云わねばならないのか、を、
しっかりと見抜いて理解してくれるだろうという
安心感があったからに他ならない。
(併し、決して抱擁などはしてくれない)

私は禅を信望するし、実際に学んでいる。
しかし浄土も必要だ。
そして、
禅僧という人たちははきっとそれを見抜いている。
科学者以上のリアリストであるが故に、
人の心もそのまま鏡に映すように
精密に観察している。
人を樹木に例えるならば、
地中に這う根までも見通すのが禅僧なのである。

だから、冒頭であげたような話は
(いちいち口には出さないが)
自然科学の話、という前提で話されていて、
信仰とはまるっきり切り離しているはずだ。

はっきりとわかる形での優しさはないが、
私たちはその豪放磊落な姿勢の向うにある
もっと大きな「何か」に気付かねばならない。

いちいち口には出さないが、というのが
また禅的で痛快ではないか!








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浄土


私にとっての浄土とは、
死者がこの世のあらゆる苦しみから解放された
安らぎの場所である。
もはや、何の痛みも心配もない
安寧の世界である。

だから私は、
愛する者が浄土に在って欲しいと
強く、強く、願う。

ある時、浄土真宗の僧侶に
浄土はあるのか?と問うた事があった。
僧侶は、ただ信じないさい、と云い続けるのみで、
それ以上は語らなかった。

あの時、たった一言、
確信に満ちた目で「ある」と答えてもらえたならば、
私はもうそこで死んでもよいとまで
思っただろう。
それまで流した悲しみの涙を凡て
洗い流すほどの満足の涙を流しただろう。
しかし、僧侶は、それ以上を
決して語ろうとはしなかった。


時が経って漸く気付いたが、
あの僧侶は実に公明正大であった。









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早春の朝に


このところ
非常に気持ちの良い朝が続いている。

西に崇高な大山の姿を見ながら
頭上に大きく広がった空は青く、
まるで白の薄絵具を流したような雲が、
人生のところどころに波打つ悲しみの様に
仄かな抑揚を添えている。

こう云うとなんだか悲しい空を想像するが、
そうではない。
私は生きる意志に満ち溢れていて、
それはもう、まるで、
いますぐその青空に
ぽかんと船でも浮かべたいくらいの心境なのだ。

こういうと太宰治になってしまう。
そういえば彼にも、
こんな風に生と相対した時期があった。
希望とがっちり握手をした日があった。
人生は常に手探りだ。
私たちは先ず、今日をしっかりと生きよう。





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