明日の自分は今日作るべし


のどかな週末に何をするか。
寝るか、遊ぶか、ビールを飲むか、
それとも勉強するか。

目の前の安易な幸福に溺れるのも良いでしょう。
併し、そうする事によって
将来確実に訪れるであろう失態の可能性を
少しでも減らしたいのであれば、
ちょっと踏ん張って勉強すべきです。

颯爽と凛々しく、自信に満ち溢れている人は、
こういう分かれ道では例外なく
苦難の道を選んできているものです。
しかも、何の躊躇もなくそうしていましょう。
楽をするという選択肢が最初からないから、
今こうして精悍な姿であるのです。

明日の自分は今日作られます。
遊べばそれなりにしかならないけども、
努力すれば理想の自分に近づける。
更に云うと、
立ち止まれば忽ち追い越される、の、
所謂、泣くのが嫌ならさぁ歩け、を謳う戸黄門理論も
ここに関係してくるでしょう。
やるしかないなら、やるしかないのです。






とはいえ、気分が乗らない時は乗らないものです。
そこで、
私のような気分屋にも有効な
すばらしい呪文をここでこっそりお教えましょう。

失態、失態、失態。
三度唱えてみて下さい。

怖くなってきて勉強するしかなくなります。







いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。
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人形


小林秀雄に「人形」という
有名なエッセイがあります。

これは戦後間もない頃、
あるご婦人が人形を自分の子供に見立てて
まるで生きた人間の様に扱っていた、という
実に悲しいお話でありました。

人形が亡くなった子供の代わりである事は明白でありますが、
果たしてこのご婦人は正気だったのでしょうか。
正気を保つ為に自らをだまし続けていたのか、
或いは、最早心は壊れてしまっていたのか。

私はこれと似た光景を目にしたことがあり、
その時の衝撃は未だに胸に残っています。
背後にある悲しみの涙を思うと
胸が痛くなるほどであり、又、
自分もいずれこうなるのではないか、という恐怖に
足が震える思いでした。


あれから何年も経って、
倖いにも自分は今こうしておりますが、
移り変わりがこの世の定めであるのなら
誰でもが
あのような悲しい境遇に陥る可能性があるのです。
それはある意味、無垢の美しさを備えてはいますが、
やはり、本質は純然たる悲しみでしかない。

併しそれがこの世の理に根拠を成すものであるならば、
真の人生が始まるのはそこから、という見方も出来るかも知れません。
ゲーテも似たような事を云っていたような気がしますが、
仮にそうであるならば、
人生とは実に厄介極まりないものであります。

只管打坐、ちょっと座ってきます。






このエッセイには感ずる事が多く、
過去に於いてもいろいろと書いていました…。

古馬乃秀邦、人形に心を痛める

お散歩で見たこんな光景(2012年3月)


いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。


一度はヘタれるべし


私は常に自らの価値観を絶対視しているので、
努力という行為には強い拘りがある。
したがって、
努力しない者を軽蔑する傾向にあるし、
それは死ぬまで変わらないだろう。

しかし、ある日の朝、
なんとその私自身がヘタれてしまった。
その日が雨というのもあったろうが、
自転車で出勤途中に、
突然、超絶に憂鬱な気分になったのだ。

毎日、頭が沸騰するほど勉強し、
気が遠くなるほどのショックを受けながら
難しい仕事に取組み、
それでも何一つ計画通りに事は運ばず
どうにもならないものを
どうにかしなければならないというプレッシャー。
何故こんなことをしているのか?

もっと楽な生き方はいくらでもある。
無理して毎日勉強しなくてもいいではないか。
そんか事より、帰宅したら
ビールを飲んでテレビをみて、
頭を悩ますのはゲームの攻略のみで
好きな本を読んで、史書を楽しみ、
休みの日は計画など立てずに
ただただ遊んで暮らす。…

そういう生活にすこし憧れた。
ただ楽しんで生きるのは良い、とても良い。
本気でそう思ったし、羨ましさも感じた。
真の幸福とは、
緊張の無い安らかな日々にあるのではないか、とさえ思った。
併し、しばらくして思い直した。

幸福とは常に相対的なものだ。
人それぞれに倖せの形はある。
私の幸福は、きっと、苦難の後にある
大きな達成感にあるのではないか、と
迷いの後にふと気づいたのだ。

苦難が大きければ大きいほど、
その幸福も又、大きなものとなる。
それは、困難な道を選択した者のみが
その果てに出会える
魔法の青い蝶々のようなもので、
楽な道を選んでいては
絶対に見つけることは出来ない、
要するに、
神と交わす精神的等価交換の産物と云ってもよい。
(かも知れない)

そうだ。 私はその為に、困難な道を選んでいたのだ。
なんという事はない。
私の艱難辛苦は
自らの倖せに直結するものだった。







と、自転車通勤の20分の間にこんな事を考えていて、
我ながら阿呆だな、とちょっと笑ってしまいました。



いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。

新九郎狐


丹沢の山奥に一頭の狐が住んでいた。
狐は名を新九郎といった。
新九郎は天蓋孤独の身であったけども、
ある春の朝、家族ができた。
彼の巣穴の近くに
純白に輝く兄妹の花が咲いたのだ。
それは、雪をも欺く白さだった。

新九郎は花たちを愛した。
それはそれは大事に世話した。
うっとりと眺めているうちに春は過ぎた。
梅雨には花たちが流されないように、
煉瓦で囲って土を盛った。
夏は灼熱の日差しよけに
傘をこしらえた。
秋には降り始めた霜を避ける為、
新九郎は花たちの根本に丸くなって眠った。
やがて丹沢に冬がきた。

この世界は一つの法則に支配されている。
新九郎がもうどんなに頑張ったところで、
花たちはその可憐な花弁を散らしていくしかなかった。…
新九郎は、コーンと一声だけ鳴き、
その声は丹沢の山々に美しく響いた。




「それから新九郎はどうなりましたの?」
人間の女の子が父親に聞いた。
「滅んだよ、無論。」
父親は遠くを見るような目でこたえた。
「新九郎は現実を受け入れる事を拒んだんだ。」

「お可哀想なことをしました。」
女の子は目を伏せてしまったが、父親は云った。
「然し彼は、愛する花たちと幸福に生きる事が出来たのだ。
哀れに思うことはないさ。」
「彼は自分の倖せを追及したんだ。」

女の子にはよくわからなかったが、
新九郎と花たちの魂は
きっと今でも丹沢にあるのだろうと、
それだけは間違いのないように思えた。







いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。

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