自分だけが知っている


どうやら、今月の試験は何とか終了した。
ちょっと一息の気分だ。
まぁ、ほどほどに頑張ったとは思うが、
然し本当に、自分はやれる限界までやったのだろうか、
ト、云うと、これは大いに疑問だ。

幸田露伴は
「何をするにも常に全力でなくてはならない」と、云い、
私はその教えを心に刻みつけているつもりだが、
果たして忠実に実行できたのか。…

うむ、大いに疑問だ。
疑問どころか、思わず、
「露伴先生、ごめんなさい。」と、
謝罪の言葉が口をついてしまうほどだ。

hana ordinary花「謝ったwww」

SORA uuu07JAN09 010そら「………。」



やってきた事の密度に関しては、やった自分にしかわからない。
だから、自分が本当に満足できるまでやれたのか、
自分はまこと全力を尽くしたのか、
背筋を伸ばして幸田露伴を直視出来るのか、

それを知るのは自分のみだ。
ここを誤魔化してはいけない。







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方法や過程は結果にでるもの


私たち一般人が禅を行う理由は大体、
救いを見出す自救行為であるか、
志による自己鍛錬であるか、
或いは仏道修行への興味からくるものか、
若しくは誰かからの影響によるものか、
トいったところでありましょう。
いずれであっても
それは実に尊い事だと信じて疑いませんが、
それが自分の為の禅である以上は
定めた狙いが自分という範囲を出る事はありません。

一方、僧侶が禅を行うのは、
自らの精神を黒鉄の如くに鍛え上げて
衆生、つまり、広く人々を救う為に他なりません。
他人を救う為には己が強くなくてはならない、の理です。
視野は広く、尽十方遥か彼方に広がっている事でしょう。

当然、その方法や過程は全くの別物だし、
私たち一般人には本物の経験がないので想像すら出来ませんが、
心構えや修行にたいする姿勢だってきっと違うものでしょう。

何もかもが違うのだから、
畢竟、一般人とは全くの別な存在に仕上がるに違いありません。
つまり、過程の違いは結果に表れる、の法則です。

私はこれを、試験に応用しようと考えました。

試験を受けるに際して、
私は現在、最高点の990点を目指しています。
その為の戦略や研鑽を計画通りにすすめ、
まぁ、そこそこの質で進行中です。
然し、これはもしかしたら一般人の禅と同じ方法論かも知れない、ト、
ある時、そんな直感が電撃のように走りました。
本物を目指すのなら、これでは駄目なのです。

そうです。
990点が受験者にとって記録しえる最高の得点だとしても、
それは浮世の常識でしかありません。
つまり一般人の視線という狭い範疇の話なのです。
もう一つ上を目指すなら目指すべきはその更に上、
9万9千990点だったのです。

その為の努力を積めば、
きっと結果は自然と引き上げられるはずなのです。
高い目標とそれを達する為の努力の後には
スコアは自然と満足のゆく結果になるでしょう。
その為に最も大事なのは…

…何と云いますか、
今、この時、この瞬間を学問に充てる事なのですが、
どうも勉強の時間になると
色々気が散って、掃除や洗濯などを始めてしまうのが
人間の弱いところでありましょう。
すこし座禅で心を鍛えてきます。


sora mumuそら「いや、勉強するでしゅよ!」

hana ordinary花「ぷす~www」







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是も又、禅に通ず


ある試験対策で勉強に没頭の日々を送る中、
参考書に素晴らしい言葉を発見したので紹介したい。

試験を受ける者なら誰もが意識しているが
明確に言語化にまでは至らない、
ト、いったものであるので、
これを文字で読んだ時には
思わず膝を打って、なるほど!と、感嘆してしまった。

座禅の修行にも大いに通ずるものがあり、
なかなか含蓄の深い言葉のように思えたので、
心構え手帳に書き足したほどの惚れっぷりとなり、
実はこれを書いている今も、
少々の余韻に軽く興奮している。

今日はもう、これだけで充実した。
とっておきのトアルコトラジャでも淹れたい気分だ。
米人がよく云う、it made my day という心境に近い。
因みに、このフレーズはダーティーハリーの
Go ahead! Make my day! という台詞で有名であるが、
バックトゥーザフューチャーの
マーティー・マクフライも云っていたかも知れない。
それを更に真似していたのがこの私であるが…
ふむ、話が逸れてきたので
そろそろ問題の言葉を披露しよう。

皆が嫌がる難解な種別の練習問題が続く中、
学習者に芽生えつつある
嫌気を根本とした怠慢の兆しを刈り取るかのような
筆者の発したこの言葉…

「練習で苦労して本番で楽をするのはテスト対策の基本です」



どうだろうか?
禅的である、ト感じたのは、
私だけではあるまい。






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我モ又、未ダ木鶏タリエズ (JULY16)


古代中国のある国に、闘鶏を育てる名人がいた。
ある時、その国の王が名人に闘鶏の訓練を依頼した。

名人に闘鶏を預けた十日後、
王が訪ねて来て、問うて曰く
「どうだ、鶏は強くなったか?」
名人答えて曰く
「いけません。空威張りして強がっているだけです。」

また十日の後、王、問うて曰く
「どうだ、少しは強くなったか?」
名人、答えて曰く
「まだいけません。他の闘鶏の声や姿を見ただけで興奮してしまいます。」

更に十日の後、王、問うて曰く
「どうだ、そろそろ強くなったろう?」
名人、答えて曰く
「いけません。
相手を睨みつけ己の強さを誇示しているだけで、本物には成り得ていません。」

それから更に十日が経ち、
王が鶏の状態を問うたところ、名人曰く
「完成しました。他の闘鶏が騒いでも全く相手にしません。
まるで木鶏のように泰然自若としており、無為自然の状態です。」






木鶏の故事は荘子に典拠を持ち、
日本では例のお相撲さんの影響もあって、
スポーツ等、勝負事を語る際によく引用される。

私はこれを人間関係の場に応用したい。

他人と同じ位置に立って、同じレベルで意識し合っていれば、
必敵の状態となってしまうのは避けられないが、
自らが木鶏と成る事が出来れば、
そんなつまらない事になりはしない。

相撲でいう、がっぷり四つに組み合うのではなく、
相手の意識をさらりと受け流す事で、
相手のもうひとつ上をいくのだ。
これぞ、至人の振舞いといえる。

安易に相手を打ち負かしても意味はない。
むしろ、そのような勝利は遺恨を残す事になり
人間関係に於いてはマイナスにしかならない。
ネガティブであり不健康であり、
損失であり非生産的であり、
要するに、お互いに不幸である。

それよりも、木鶏の境地を目指して、
自らが、あえて困難の研鑽修行を選択し、
そこから己の器量を高めてゆくようにすれば、
きっと自分を含めた皆が幸せになれるはずだ。
先ずは自分から、の心意気だ。
隗より始めよ、である。


… などと、常日頃考えてはいるのだが、
私もまた、我、未ダ木鶏タリエズ、の状態。






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新九郎鳶 (JULY16)


「成りたい理想の自分」
それを何年か前の秋に記した。
以下に在る新九郎鳶がそれだ。
さて、現在の自分は、ト云うと…
我、未ダ木鶏タリエズ
ただその一言である。








海岸の杭にトンビが一羽とまっている。


ISE04SEP14 YM 007



トンビの名は新九郎という。
邯鄲辺りからの流れ者らしいが、詳しいことはわからない。

新九郎はもう、何時間もこうして同じ場所にいる。
腹もすかぬ、のども乾かぬ。
暑さも気にならなければ
吹き上げる砂塵にもびくともせぬ。

新九郎の心は無だ。
その精神にはさざ波ひとつ立たぬ。

何故なら新九郎の存在その物が、
雲であり森林であり太陽であり
広大な大地の一部であるからだ。
新九郎は完全にこの世界に溶け込んでおり
眼前の景色と一体なのである。

即ち、新九郎には、
「己」という概念もなければ「他者」という概念もない。
つまり意識すべき対象が存在しない。
対象がなければ仮想の敵に緊張することもなく、
他者のする事にあれこれと思い悩む必要もない。

新九郎は「虚無」である。




秋の日の浜辺に
太陽の光が燦々と降り注いでいる。

新九郎は、今日も変わらず遠くを見つめている。


ISE04SEP14 YM 007





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大室山にて


いつの春だったか。
私は大室山の麓の公園にゴロリと寝転び、
傍らにきちんとお座りした
花とそらを見上げていた。

手を伸ばせば、
FCRのほっそりとした特徴的な顎に手が届く。
呼びかければ、
すぐにこちらに視線をむけてくれる。
毛並みは柔らかく、
身体は生きる意志に満ちて温かい。

私はこの時、
今そこにある確実な幸福を楽しみながら、
常に目を背けていた絶対の恐怖も感じていた。
<この幸福はいつまで続くのか>

手の中にある安心の前に
薄ぼんやりと霞む予感ではあったが、
私はその時、確かに狼狽をおぼえた。
日常が壊れるという
生あれば不可避の千古の法則は、
小さな錐針となって
いつも私の心のどこかに
深く鋭く突き刺さっていたが、
その時は何故だか
その恐怖が鮮明に感じられたのだ。

現実から目を背けることが
私の解決法だった。
盲目的に永遠を信じて疑わず、
考える事を意識して放棄したのも、
損失の恐怖と戦い続けてきた私の弱い心が生み出した
最良の防衛策だった。
然し、いつか本当にそんな将来が来てしまうのか、と、
幸福の頂から
それから後はもう降下してゆく一本道しかないと悟った時、
私は再び、現実を直視することを拒んだ。

あれは、いつの春の日だったろうか。




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