百年の重み


時間の推移は時として、
ある存在を元の姿形から
大きく変貌させる事がある。

例えば私の所有する「戦争と平和」は
現在(2016年)101歳になるものだが、
大正から昭和、平成へかけての長い年月の間に
親や子供、恋人に友人、戦友、
人や家庭や世間を吹き抜けた
精神的な風雨とでもいうものが浸み込んでいて、
心なしかもうそれは
単なる紙やインキの集合体ではなくなっているような気さえする。

この書物があの戦争や
その他諸々の動乱を経験していることは
間違いのない歴史的事実なのだから、
読み手の思想や感情が強く染み入っている事に疑いはなく、
形而上学的、超自然的、
アニミズム的な意味での重量を
ページを捲る心の手に
厳粛な抵抗として感ずるのだ。
それは、毎日の生活より発した
切実な感情の重さに違いない。

時間の経過による心的な要素の添加は、
物理的な物質を霊的な存在へと昇華させる。
これは決して思い込みや気のせいではない。
我が国には、付喪神という例すらあるではないか。


11APR16 KAI 038WP




いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。
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無意識での剥落


今回は私が特に気に入っている
このお話をしましょう。
私の頼りない記憶が根拠なので
細部に於いてはオリジナルと違いがあるかも知れませんが、
要点にズレはないと思うので
そこはご寛恕ねがいます。
ちなみに出典は、
玄侑宗久さんの著書だったと思います。


昔、ある老僧と若い修行僧が旅をしていました。
その途中、二人は川で溺れている妙齢の女性を発見、
すわ一大事!と一気に駆け寄り
えぃ!と川へ飛び込んで、
無事に女性を救助しました。

やれやれ良い事をしたわい、と、
老僧は軽快に旅路へと戻ったのですが、
どうも修行僧のほうは深刻で不景気な表情をしています。
何ぞ憂い事でもあるのか、と、老僧が尋ねたところ、
この純朴な若者曰く、
「人助けとはいえ、半裸の女性の肌に触れてしまいました。
その艶めかしさが私を悩ませ、その罪が私を苦しめるのです。」

真面目で可愛いヤツよ!などと、老僧が思ったかどうかは知りませんが、
老僧は呵呵と大笑いしてこう云います。

「なんじゃ、お前はまだあの女性に触れておったのか。
わしはとっくに放しとるぞい。」



うむ!と思わず膝を打って唸ってしまいます。
こちらの老僧には、
見事なまでに執着がありません。
スッパリと切り捨てています。
自分にとって不要なものは
何の躊躇もなく置き去りに出来るのでしょう。
おそらく、そうしようという意識すらないはずです。
川面に浮かべた笹船が自然に流れてゆくように、
何の抵抗も摩擦もなく滑らかに現象するのみで、
これはもう驚くべき清々しさです。

こういった生き方が出来れば
人生に苦しみなど綺麗サッパリ無くなるでしょう。
私たちもこう在りたいものですが、
然し、我々一般人にとってここまでの境地は、
いささか高すぎる断崖絶壁の更にその上の雲の上、
といったところであります。
到底届くものではありません。

でも、がっかりしてはいけません。
こういった姿は一つの指標に成り得るのですから。


つまり、
老僧の背中に手は届かなくとも、
しっかりと視線を逸らさず
ずっとその姿を追いかけていれば、
届かずとも道を間違える事はないのです。
北に向かいたければ北極星を目指せ、の理屈です。

私はそんな考えを持っていますので、
この逸話の老僧に少しでも近づけるように、
(小声:つまり、もっと楽に生きられるように)
どんなに嫌な事や苦しい事があっても
それを捨て去って
瞬時に考えを切り替える習慣を身に付けたい、と…

…身に付けたい、などと日頃から考えてはいるのですが、
なかなか、まぁ、簡単にはいきません。
然し、亢竜悔いありという言葉もある通り、
物事とは何かに向かっている途中が一番面白いものなので、
今はこの過程を楽しんでいたい、と考えているのです。
要するに、あまり真面目とは云えません。

ここでもうひとつ、
私が極めて重大と定義しているこの台詞を紹介しましょう。

もちょっとゆるゆるやっておくれんかな、もし。
「坊っちゃん」より

せっかく楽な生き方を探っているのに
あまりに肩肘はりすぎると
かえって疲れてしまいます。
鉄が壊れにくいのは
硬さと同時に柔軟さを持っているからです。
強いものは、
ある程度のゆるゆる要素を必ず持っているものですから、
あまりに強張ってもいけません。
だから、ちょっとくらい不真面目でもいいのです。

さて、話が妙に横道へ逸れてしまいましたので
今回はこのへんにしておきましょう。

過去への執着は自らを苦しめるだけですから、
今を起点として「ではどうするのか」、を考える発想に切り替えれば、
きっと今が、そして未来が
ちょっとだけ倖せになるかもしれない、トいう話でした。




いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。

終わりゆく


川沿いの道を
一人歩きながらふと見上げた先に
二片の雲が浮かんでいた。

花とそらの形をしたその雲は
ゆっくりと青空を進み、
どんどん遠ざかっていった。

もうどうしても止めることは出来ない
その姿を見送りながら、私はふと呟いた。
おまえたち、行ってしまうのか。…

えぇ。。
僕たちはもう…


そんな声が聞こえた気がしたその時に、
私ははっきりと、
この人生に於いての一つの期間が終わったのを感じた。




終焉の余韻に漂うこの身の前を、
現在は矢の様に飛び去ってゆく。

未来はためらいながら近づき、
そして、過去は、
永遠に、ただ静かに佇むのだ。

16FEB16 MEKUJIRI Rvr 090a






いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。

野茨


丹沢のある場所に私たちのお気に入りだった山道がある。
人里からそれほど遠くないので気軽に行けるのではあるが、
そこは他のハイキングコースと比べて
不当と思える程に人気がなく
滅多に人と出くわさないどころか
殆んど最果ての僻地といった趣のある場所で
只管に家族だけの孤独を愛した私たちにとっては
正に理想のお散歩コースであった。

大山や丹沢山の丁度北側を走るこの道から南を眺めると
中空の太陽が相模の平野と私たちとの間に
屏風のように立つ丹沢山塊を照らしていて
尾根に反射するその陽光は健康的に眩しい。
その道を軽快に進み乍ら、
湧水に喉を潤し野鳥の声にほっとため息をつくのだ。
天と地と山の合間に
唯一私たちだけが存在し、
それが故での楽園であったのだが
着実な時間の流れだけは
何処かで感じていた。

その地に咲く野茨を
ある時思いつきで持ち帰った。
尾長鳥の羽ほどの枝をこっそり拝借し、
根が出るまで大事に育てて自宅の庭に植えた。
今思えば、みんなで歩いたこの場所の思い出を
目に見える形で手元に残したかったのかも知れない。
先ほども述べたが、
いつかくる終焉を無意識に予感していたのだ。


今年も春となり、初夏となって
具現化した思い出は益々その葉を広げている。
あの日々の痕跡、
ここにも花とそらが生きている。




いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。

写真に思う


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あの頃のままの花そら、この姿。


なだらかな肩に触れ、
首をさすってから可愛らしい頭を撫でて、
柔らかな耳を触ると
暖かい生きた美が胸に流れ込んでくる。

手を取り、肉球を触ると、
花のそれは小さくて固いお饅頭のようで、
そらのそれは大きくてふっくらした座布団のようだ。

抱き寄せた時の香りも、
ふたりがそれぞれ違う。 
心地良い。
ずっとこうしていたいと思うが、
花はいやがって離れてしまう。
そらはなされるがままだ。

… 過ぎ去った日々に浸り
笑みを浮かべている自分に気付く。


写真とは、
過去と現在とを繋ぐ橋であるように思う。
その姿を見、その姿を感じ、
時には損失の再認識に繋がる事があるかも知れないが、
求める姿を私たちにもたらしてくれるという意味では
救いの架け橋と呼んでも決して大袈裟ではないはずだ。
生者と死者と繋ぐ橋なのだ。

今年もこの場所には菖蒲が一面に咲いている。




いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。

自然の中に


私が「花そらの木」と名付けたこの美しい友人は、
両のかいなを大きく広げるようにして
いつも花とそらを守ってくれた。

夏の日差しから、冬の寒風から、
いつも花とそらをかばってくれていた。

そこには確固たる<安心>が在った。…

今、あの日々は薄く霞んで
まるで遠方の虹のようにぼんやりとしている。

だけども今年もこの場所には、
いつもように「花そらの木」が静かに佇み
同じ黄色の花がその周囲を美しく飾りあげて、
初夏の風に眩しい世界には
やっぱり花とそらがいてくれるのだ。

私の永遠は此処に在る。


24MAY16 MEKUJIRI Rvr 023HS



いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。

自然を感ずる


何度か述べたが、
私は花とそらのいる生活が
永遠のものだという考えを漠然と持っていた。

それは無知や錯覚がもたらしたものではなく、
花そらがこの世界に生まれた時から
意識を超越した場所で
当たり前のように私に備わっていたものであり、
鳥が美しい羽を持って生まれてくる当然の常識と
同列に語られるべき大前提であった。

私の鳥は、生まれた瞬間から自由の翼を羽ばたかせ、
果ての無い空を幸福に舞った。
この飛行は一見、
終わることがないように見え、
もしも、世間の常識が提示するように、
無常という不条理があるのだとしても、
それは私たちとは無関係である筈だった。

私たちの世界に於いての千古の法則は
根底を成す部分にすっかり確立されており、
そこには現実との対立など微塵もなく
数学のように正確な秩序の世界だった。
それが、約束された花とそらとの永遠の人生だった。


やがてその世界は転覆し私は嘆き悲しんだけれど、
然し漸く落ち着いて静謐な自然世界と一体化してみると、
実際には、
永遠はなんの揺るぎもなく存在し続けていたと
私はそう結論するに至った。
それは形而上的な精神世界でありながら
やっぱり常識に則した現実世界であるのだ。


24MAY16 MEKUJIRI Rvr 023HSTree



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