感謝


今にして私は思う。

あらぬ心配や取り越し苦労に
精神を困憊させた事が多くあったけども

結局ひとつの磐石な法則の元で
私たちは自由であり、安寧であり、
神々の加護は一度たりとも
私たちの身を離れたためしはなかった、と。

春の明るい菜の花の道、夏の爽やかな蟹ヶ谷公園、
秋の夕日の相模川、冬の雪降る丹沢山地、

そのどれもが、私たちの幸福の舞台であり
守護者であった、と。


そうして私は、
かつて花とそらが歩いたこの大地に立ち、
空を仰いで神々に感謝するのだ。




19NOV15 012



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季節の推移


春先、
目久尻川沿いのこの歩道には
生命の復活を象徴するような
明るい菜の花が咲き乱れ、
その光景は、
長かった冬の終わりに
世界が歓び歌っているかのようであった。

その歓喜が漸く落ち着き、
愈々気温も上がって
初夏の気配が漂う中、
今度は自分たちの番だ、トでも云いたげに、
紫陽花たちが蕾を膨らませ始めた。

季節は確実に推移しているようだ。


24MAY16 MEKUJIRI Rvr 006






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その男、ぽっくん (MAY16)


12年10月、こんな記事を見つけました。

そらの持っているもの(ばかり)を
欲しがる花ちゃんも可愛いらしく、
又、一歩引いて譲ってあげるそらくんも
とても微笑ましかったのでした。……









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ぽっくん、
かじるのに按配のいい枝をみつけたようですが・・・



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いつも通り
花ちゃんに横取りされてしまいました・・・




sora mumuSORA「戦って取り戻すでしゅ!」

26MAY10S.jpgSORA「ぽっくんは男の子っ!」

















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コピー ~ 27SEP12 097






ある日常


先日のこと。
狭い歩道を歩いていると、
対面から一人のお婆さまが歩いてこられた。

非常に窮屈な歩道であったので、
私は半身に避けて
お婆さまが通行されるを待った。

お婆さまが
いよいよ私とすれ違う際の事である。
よく耳を澄ましてみると、
お婆さまは
その蝸牛の様に悠々として
穏やか一歩一歩に合わせて

ほい♪ ほい♪

ト、掛け声をかけておられた。
その軽やかな口調からは
年齢を重ねた者のみが持つことの出来る
何者をも安心させる
暖かい温もりが感ぜられた。

私がその時、
爽やかな気分に包まれたのは云うまでもない。

その小さな身体は、
長い年月の間に
幾多の風雨にさらされてきたに違いないのだが、
この方の心はどんな辛苦にも折れることなく
真っ直ぐであったに違いない。

疾風にへこたれる事のなかった勁草。

私はその美しい背を見送りながら、
心のなかで
敬意の礼を捧げた。







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相模川便り


前回掲載した写真。
相模川のあのほとり。

其処は私にとってひとつの聖域であった。
ゆっくりと流れてゆく時間に沿って
刻々と変化する世界の様相を
花そらと一緒にのんびりと眺め、
きっと皆で何処までも歩いてゆこうと
寄り添い、誓い合ったあの場所。

私たちは本当に自由で、幸福で、
人生の歯車には何の狂いの兆候すら見られなかった。
憂いも悲観も苦しみの欠片も
寒々しい陰鬱な要素など何も無い、
それは純粋に幸福で、眩しい太陽に照らされた
美しい人生の一時期であったのだ。

したがって、それを根拠とする記憶も又、
明るく楽しいものでなければならない。

にも関わらず、
前回はその記憶を視覚化した幸福の写真に
悲しみの感情に囚われた文章を付けてしまった。
これは冷静に考えると実に大きな間違いで、
錐針の様に、小さいけども確乎たる存在感を伴う
妙な違和感を感じたのはこの為だった。……


私は調和を愛する。
この写真と悲しみの感情は断固として調和しない。
だから、いつの日か、
幸福な記憶を無理なく語れる時が来たならば、
その時はきっと
もっと相応しい文章をこの写真に付けたいと思う。


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両手


この場所、相模川のこのほとりで、
何度こうしてこの子たちと一緒に
幸福の時を過ごしただろう。

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町中からほんの少ししか離れていないのに、
そこは信じられぬ程に
人の世とは縁を持たぬ
絶対の孤独に守られた
私たちだけの隠れ家だった。

左手に花、右手にそら、
こうして両手に
私の幸福の根拠を抱きながら
この時が永遠に続けばいいと、
何度夢見た事だったろう。

然しそうやって夢を掴もうと無邪気に手を伸ばしていたが、
もう片方の手は世界の法則という理にしっかりと押さえつけられて
時の経過という現実を握りしめる事を義務付けられていた事に
当時の私が気付く事はなかった。

何かの本で読んだ。
片手で現実に触れながら
もう片手で夢を追う事は出来ない、と。
その事を
身にナイフで刻み込まれるように実感した。

私はあの時、人生を知ったのだ。







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修養


人生に於ける後悔の味というものは、
ある本によると
灰の味なのだそうだ。
灰を舐める。
しかも毎日毎日舐める。
そうするともう、
この世の中から味というものは消えてしまって
何を食べても灰の味になるのだそうだ。

これは正に誰もが経験することであると思うが
本来なら誰もそうなりたくなどはなかったはずだ。
然し、将来後悔することになるか否かの重大な分岐点なんて
後から見返して初めて気付くものであって
その場その時にはわからないのが常だと思う。

そもそも、人生に於ける一つの岐路というものは
複数の要素から成り立っている。
堆く積み重なった小さな選択々々の歴史の後に
漸く一つの岐路が浮かび上がってくるものなのだ。
だから私たちは、
どんな小さな選択すらも疎かにするべきではなく
常に慎重居士であることが望まれるが
その手堅さを身につける為には
常日頃の修養が肝心であるかなぁ、
などと考えつつ…

今宵は見事な月に乾杯して
少々のほろ酔い気分である。




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