花発いて風雨多し


花発いて風雨多し
(花が咲いたら往々にして雨風が起こるもの)

人生別離足る
(人生は別れでいっぱいだ)


花は、散る事を前提に咲く。
その花弁が開いた瞬間から、
その滅びは始まっている。
だからこそ花は、
自らに許された時間を、即今を、
精一杯に生きようとする。
最後の花びらが落ちるまで、
懸命に咲き続けようとするのだ。

私は、
花の美しさとはここに由来すると考える。
一瞬、一瞬を、
少しも無駄にしないで、力の限り生きて、
時が来たときには、何の未練もなく散ってゆく。
無常の中に在るからこそ、
その姿は一層の輝きを放つのだ。

人も又、同じ。
懸命に生きる姿は美しく、そして尊い。
太宰治の「東京だより」に在るとおりだ。


いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。





最初の漢詩は、井伏鱒二の翻訳文、
花ニ嵐ノタトエモアルゾ
サヨナラダケガ人生ダ
の一文で良く知られていると思います。
彼のイメージが頭のどこかにあり、
最後は(事実上の弟子)太宰治に繋がってしまいました。



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わが名をよびてたまはれ


わが名をよびてたまはれ
いとけなき日のよび名もてわが名をよびてたまはれ

(いとけなき日: 幼い頃)


三好達治の「わが名をよびて」という詩の冒頭。
悲しいような切ないようなその響きに
思わずはっとしてしまう。

何かの本で読んだのだが、こんな話があった。
ある山でご老人が保護された。
この方はすでに過去を思い出すことが能わない事情で、
身寄りもなく、施設で過ごすこととなった。
その孤独なご老人が死の床で呟いた一遍の言葉。…

わが名をよびてたまはれ

それは単なる呟きではなく詩であった。
ご老人の口から、それに続く言葉が流れ出てくる。

わが名をよびてたまはれ
いとけなき日のよび名もてわが名をよびてたまはれ



名を呼ばれる。
なんという幸せだろう。
ことにそれが心の通ずる人からの呼びかけであれば、
そこに私たちは言葉に出来ない意味を感じ取ることが出来る。
最早、記憶はないと思われていたこちらのご老人であったけども、
その心の底には、幼き日に呼ばれたご自分のお名前、
そこに込められた深い愛情が、消える事なく確かに残っていたのだ。
私はそこに美しい人間の姿を感じた。


名前の呼びかけは相互交信だ。
呼ぶ側は愛情を込め、
呼ばれる側はその愛情を受け、
お互いに幸福な気持ちに包まれる。
呼びっぱなしで消え入る事はないその行為に、
一方通行は成り立たない。
私は、花とそらの位牌の前でそっと手を合わせ、
ふたりの名前を呼んだ。
再度云う。
名前の呼びかけに一方通行はない。





* ご老人のお話は「死にゆく者からの言葉」鈴木秀子著という本に収録されています。



いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。

葉隠に思う


先日のこと、
ある高名な禅僧の方とお話する機会があった。
その中で、
武士道と云うは死ぬ事と見つけたり、の一節で有名な
「葉隠」の話があった。
「葉隠」とは、鍋島藩の山本常朝の言行録で、
武士の心得を記した実践哲学的な書物である。
記されたのは江戸中期、つまり、
戦のない太平の世で、
武士がすっかり安穏と平和ボケした時代だ。

平和は素晴らしい。
戦などないのが一番だ。
その事に寸毫の疑いもないけども、
然し、たとえ太平の世にあっても、
武士たる者は常に緊張していなくてはならない。
誇りを忘れてはならない。
死地に身を置く覚悟がなくてはならないのが武士であり、
そうでない者は単なる張りぼてである。

それなのに、世の武士たちはどうだろう。
皆が顔の筋肉を緩め、
すっかり弛んで、まるで羊の群れのようだ。

常朝は、本来武士とはこうあらねばならない、と、
警告を発したかったのだと思う。
ぬるま湯に浸った武士たちの精神に
まさに一石を投じ、
「葉隠」という言葉の刃でもって、
軽薄武士たちの魂を追い立てようとしたのだ。

それは木刀や竹刀ではなく、真剣だったはずだ。

然し、その影響はどうだったろう。
この書物がこうして後世に伝えられているところをみると、
世間から一定の評価を受けているのはわかるが、
当時、常朝の周囲はどう反応したのだろう?

冷ややかな反応が
ほとんどだったのではないだろうか。…


人はそのほとんどが、楽に楽に流される。
気ままで呑気にやっていたって
世の中はしっかり回っているんだから
それでいいではないか、ト、
ほとんどの人がそう思うだろう。
皆がうまくやっているのに、
何故わざわざ和を乱すような真似をするのか、と。

そんな中で、武士の心得を諭したところで、
それが血の滴りそうな真剣であればあるほど、
常朝の本気は
太平の世に慣れる過ぎた周囲とは噛み合わなくなる。
結果、敬遠される。…

実際はきっと、これに近いものがあったのではないか、ト、
私はなんとなくそう思う。


然しである。
たとえ周囲から冷笑されようと、
私はその孤独に崇高さを感ずる。
理想を追い、志のある、常に高みを目指す者は
常にこうして孤独となりがちだが、
それは尋常でない故の孤独であるのだ。
まさに漱石先生の云う「崇高なる孤独」。
最早これは誇りを持つべき状況だ。

しかも有難いことに、
もしもその信条が独りよがりなものでなく
中に真実を秘めたものであれば、
必ず支援者が現れる。
そうなれば、孤掌鳴り難し、は成立しなくなり、
たとえ小さくとも音は響き続けて、
その志は受け継がれ、広がってゆく。
「葉隠」がそうであったように。


これより以下は、自らへの戒めとして記す。
自分の考えが身勝手極まりない独善的、
独りよがりなものとならぬよう、
常に己を疑う姿勢を忘れるべからず。。









いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。

推移


尽十方、蓋天蓋地、
この世に存在する凡ての存在は
諸行無常の法則に支配されている。
常なるものなど何処にも無く、
世界は推移し続ける。

昨日まで、あれほど美しく咲いていた花が、
今日はもう散ってしまっている。
その儚さを目にし、
推移に悲哀を感じた時、
私たちの心は虚無感に支配される。

美しい花が散ってゆく姿は悲しい。
健康的で輝くような喜びに満ちていたその姿。
それが目の前で色を落としてゆく。

滅びに虚しさを感ずる心は、
きっとその対象への思いやりに基づいている。
だから、そう思える人は
優しい人間のはずだ。

そしてその優しさは、
その人が一人で創り上げたものではないだろう。
誰かが育ててくれてものに違いない。

その誰かを思い出す時、
虚無感に捕らわれた心は
遂にその柵を脱ぎ棄てるきっかけを掴むのだ。

世界の推移には様々な姿がある。




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掛け軸


ある有名なお寺に立派な掛け軸がある。

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由緒正しいお寺なので、
きっとこの書も高名な僧侶によるものに違いない。
如何にも超絶技巧の達筆という様相で、
私のような浅学の徒を一歩も寄せ付けない
「読めるものなら読んでみよ」
トいった威厳に満ち満ちている。

然し、生来負けず嫌いな私は
一文字でも判別してやろうとにじり寄って、
肩を張ってこの書に相対した。

なるほど、読めん。

そう思った瞬間、書は益々その貫禄を増し、
爛々とした眼光を以て私を睨みはじめた。
思わず足がすくむ。

私は、日頃から、
堂々として大胆不敵な風貌のものを
「熊坂長範」と呼ぶ妙な癖がある。
この掛け軸もそう命名しようかと思ったが、
仮にもお寺にあるものに盗賊の名前は付けられない。
熊つながりで、「熊谷直実」の名も浮かんだが、
坂東武者のイメージとは明らかにそぐわない。
さて、どうしたものか。…

などと、他愛もない思想にふけっているうちに
座禅の時間が終わってしまった。

うむ。
私の修行はまるでなっちゃいない。






いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。

渓声すなわち是広長舌


メディアへの出演が多いある有名な禅僧の方。
この方の物腰態度は、
実に人工的だと感ずることが多い。
型通りの聖職者たる人格といったものを
創り上げたような印象で、
話の仕方も、一語一句を予め準備していたような、
例えれば、習字に対するワープロの文字のような、
そんな響きを感ずる。

一方、甲斐のある有名なお寺のご住職は
実に自然体だ。
その語りがあまりにもフリーダムなので
ハラハラする事すらあるほどで、
何事にも縛られない、まさに、
「行く雲、流れる水」
尽十方の理そのものを体現していらっしゃるように見える。
禅僧に模範の姿というものがあるのかはわからないが、
修行の果ての収斂進化の姿は、きっと、
このようになるのではなかろうか、ト、個人的には思っている。

中国北宋時代に蘇東坡という人がいた。
在る時、彼は山道を歩いていて、
突然、ある重大なる事実に気が付いた。
彼を取り巻く広大な森、清らかな川、自然界そのもの、
そこに彼は悟りを見たのだ、即ち、
「渓流の流れに仏の姿を見、
岩を打つ水しぶきに仏の声を聞いた。」

このように、自然、在るがままの現象に、
神仏の姿をみる例は古今東西多くに見られる。
何故そうなのかを理屈では説明できないが、
個人的にも自然には大いなる畏怖を感ずる。
渓流の声、流れる雲、佇む森、広がる青空、
自然の姿は仏の姿そのものであり、
自然の音は仏の声そのものだからだ。
繰り返すけども、(蘇東坡も云っているが)
これを言葉では説明できない。

人の関心に訴えかける事を目的とした説法と、
せせらぎのような自然の流れで語られる説法。
果たしてどちらがより、仏の声に近いものか。

何かを比べる考え方が禅的でないのを承知のうえで、
敢えて、問いかけてみたい。
何故なら、

小声で
(私自身、受け狙いの美辞麗句を口にしたい衝動にかられる事が実に多いから。)



本稿は自らへの戒めとして記す。




30OCT15 036a





メディアに露出の多い僧侶は、
仏教界を代表して語らなければならない立場にある。
その責任を果たすために
下手な事は云えないという制約の中で
あのような姿になったのではないか、とも思える。
環境の違いが様相を変えた、とも理解できるので、
それはそれで尊い姿だと考えなければならない。
その点は記しておきたい。

こういった解釈の積み重ねが、
私の持つ分別意識の消滅に繋がる事を願いたい。



いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。

心の杖


周囲が離脱してゆく中、
自分だけは心が揺るがないという妙な自信がある。

その根拠はいろいろとあるが、
やはり禅の存在は大きい。

座禅で精神を鍛えているという事実は、
己を支える強靭な心の杖だ。

十分やれば十分、三十分やれば三十分、
それだけ杖は強化されてゆき
いずれは鋼となるだろう。


そうすればきっと、
他者をも支える杖となれる。

私が目指すのはそこである。





先へ、先へ。…
03OCT15 ERINJI 005a

いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。

声を聞く


風鈴に風がことばをおしえてる

小学四年生の女の子が作ったこの句、
観察したものをそのまま表現している
実に子供らしい素直な作品だ。
理屈っぽい小賢しさなど微塵もなく
透明な水のような清々しさが漂っている。

子供というのは、
神仏の元からこの世界に生まれ出てまだ間がない。
そのため、大人よりも、純粋な神性に近い存在なのだと云う。

そうした澄んだ目は、
無機物である風鈴と
現象である風の織りなす情景にすら
心や情動を見出す。
本来、感情の無いはずのものに、
仏性を感じているのだ。




花とそらも、輝く純粋な瞳を持っていた。
あの子らの目にも、
尽十方、丘山、山川草木の全ての存在が
仏性をもって映っていたのであろうか。


08DEC15 WAKAMIYA 039a






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