鸛鵲楼に登る @丹沢


丹沢のある山の頂上には展望台があり、
そこから見渡す風景は格別なものだ。

悠然と山々を見下ろし
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振り返れば、町も見える。
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あれが江の島、あの光るのが相模湾。
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白日は丹沢に輝き
相模の青い川は海に入りて流る


高い所に登って辺りを眺望すると、
日頃の悩み事や鬱屈、モヤモヤやイライラが
どうでもいいものに感じてくる。
人間関係、何かの争い事すら
まるで気にならなくなる。

そうだ。
私は今、精神的にもこの世界を見下ろしているのだ。
久しく忘れていた心の余裕。


物事を分けて考える認識、
即ち、善と悪、正と誤、自分と他人、など…
こういった物の見方を分別意識と呼ぶそうだ。
この分別意識を原因として、
他人との対立が生じ、争いが起こるのだという。
一方、分別意識を超えて、
自分を含めたこの世間全体を見下ろす事が出来れば、
私たちは全てに対して寛容になれるのだ、ト、
ある禅僧の著書で学んだ。

分別意識を超える。
そんな事が出来れは、己の精神の安定に繋がるだけでなく、
自らを元とする、己を取り巻く世間をも幸福にしてゆけるだろう。
賢さんは、世界の全てが幸福にならない限りは
己の幸福はあり得ない、と云ったが、
私は、世界全体の幸福とは自分を起点として発するものだと考える。
自分だって世間の一部なのだから切り離して考える事など出来ない
ト、いう事実を踏まえれば、
自らの幸福とは即ち、自分を含めた世間の幸福にもなるはずなのだ。
これは周五郎の言葉からヒントを得た考えだ。


見下ろす、で思い出したが、
「蝸牛角上の争い」という言葉がある。

蝸牛とはカタツムリの事。
その二本の角の上で、ある国とある国が戦争をしているとしよう。
誰かがその小さな世界の諍い事を見下ろしたとして、
その人はこれを何とみるだろうか?

おそらくは、「はぁ~、小さい。…」
そう云って、ため息をつくのではないだろうか?
私が成りたいのはこれである。

誰かに嫌味を云われたり意地悪をされても、
これを精神的に見下ろすことによって
「はぁ~、小さい。…」と云って、笑い飛ばす。
誰だって、蝸牛角上の争いの当事者になんてなるつもりはないのだから、
自然、そうなるだろう。
我、何ぞこれに与らん(関わらない)、の精神である。(呻吟語より)


さて、いろいろと脱線してしまった。

酒もまわってきたし、
小賢しい屁理屈はこの辺りでやめにしておこう。
兎に角、単純に、
高い所から世界を眺望するのは実に気持ちがいい。
それが大自然の中ならば
更に格別な体験となるだろう。
生活に疲れたら、私は山登りをお勧めしたい次第。








丹沢の鸛鵲楼
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足がすくみます。
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足がすくむのは緊張感を持っている何よりの証拠。

千里の目を窮めんと欲し、
更に上る、一層の楼。

気を引き締めて、さぁ、上へ!




いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。




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午後の夕焼け空


先日は、師走のこの時期にしては珍しい
風の強い荒天であった。
然も、空は濃いグレーの分厚い雲に覆われながらも、
ところどころに青空が見えるという
いかにも不安定な大気の状態で、
東と西からの強い対流がぶつかり合って
ちょうどその渦の中にあるような
そういった印象の荒れた空模様だった。

ちょうど1400時頃だったろうか。
自転車を走らせていた私の目に、
ふと南の空が映ったのだが
それがなんとも不思議な光景で
思わず停止して見入ってしまった。

その時、南天は真っ黒な雲で覆われていた。
分厚い雲の密度流はその重量を
必死に浮遊させているといった風で、
今にも雨となって地上に降り注ぎそうな
危なっかしさであった。

その黒雲と地平線の間に若干の隙間が見え、
私を引き留めた奇怪の風景はそこに在った。

霞んだ地上と黒雲の間、
そこには、まだ1400時過ぎだというのに、
輝くような黄金の夕焼け雲が広がっていたのだ。

なんの悪戯でこんな事が起こり得ようか?
夕陽の赤は、太陽が地平線近くにあって、
入射角度が浅くなるからこそ、見られるものだ。
この時間にこんな事があってはならない。
科学に反している。

ではこの目の前の現実はなんなのか?

私はそれを確かめるべく、
サングラスを外して空を観察しようとし、
そこで全ての謎は解けた。

なるほど。
どうやら、最近買ったサングラスに
よく慣れていなかったようだ。
夕陽の色に見えたのは、
単にサングラスの色だった。

この日、
当直明けの私は極度の睡眠不足でもあったわけだが、
我ながらなんとも迂闊な話。





いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。

「海と夕焼」 三島由紀夫


前回、最後に入れた台詞は
三島由紀夫の「海と夕焼」という短編にみられる。
この短編は、
鎌倉の山を舞台にした
非常に美しくも悲しい名作だ。

有名なのでご存じの方も多いかと思うが、
念のために簡単に紹介すると、
主人公である安里という年老いた寺男と
村で仲間外れにされている少年が
一緒に夕陽を眺める物語だ。
安里は、「アンリ」と読む。 

少年の安里はかつて、
神の声に従って十字軍を率いた。
お告げの通りに少年たちを統率し、
聖地奪還の為に
神秘の導きによってマルセイユに向かった。

マルセイユに着けば、
地中海が割れて
エルサレムへの道が出現するはずだった。
神の声は確かにそう告げたのだ。

然し、何日たっても海は割れず、
挙句の果てに安里たちは悪い男に騙されて
奴隷として悉くが売られてしまう。

そうして、流れ流れた先で日本の僧侶に救ってもらい、
漂り着いたのが鎌倉建長寺だった。

その安里、年月の果てに年老いた老人の杏里が、
遠い異国、孤独の地で、
夕陽に染まる水平線の
その遥か彼方の母国を想っている。

物悲しく、そして美しい情景が、
三島由紀夫の超絶技巧の筆で描かれる名場面だ。

仲間たち、羊の群れ、懐かしい山々、
安里は故郷を憶う。
然しその横顔には
諦念の果ての虚しさが漂っている。

彼には既に、還りたいという望みはない。
それどころか、今を生きる世界すらない。
何故なら、海が割れなかったあの時、
あの運命の時に、
彼の世界の凡ては消滅してしまっていたのだから。…




文学というのは、
人生に於いてのその時その時で、
感じ方が全く違ってくる。

若い頃の自分はこの作品を読んでも、
なるほど上手い話を作るものだ、としか思わなかったし、
奥深さに気付く事もなかった。
然し、今はどうだろう。
安里が自分になってしまっている。

果たして10年後はどう変わっているか。
この現在の自分を
余裕をもって俯瞰出来るくらいに
成長出来ているだろうか。
今の私にとっての夕陽は、
美しさよりも滅びの色合いのほうが
遥かに濃いもの。





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「海と夕焼」を簡単に紹介しつつ
違う話に移ろうかと思っていたが、
今回はこの話がメインとなった。
人生、どう転ぶかわからないな、などと思いつつ
今回は筆を置こう。…




いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。







静寂の時


私の人生は今、静寂の期間にある。

思えば実に振幅の差があった道程で
それによって一寸先は闇だと思い知らされていたものだが、
ここ何十年かの盤石の安定に
油断があったことは否めない。

あの子らと過ごした日々は
息つく暇もなかったけども、
それは幸福な慌ただしさで
しかもかけがえのないものだった。
毎日が、
それはもう色彩豊かな絵画の様で
背景には楽しい音楽が流れていた。

そこに永遠を夢見た私は確かに間違っていた。

そうして、
その閉じた目が、再び開くように、
輝きを取り戻すようにと強く願ったけども、
もうどうしたってその願いが叶わないと
心を決めなければならなかった時に、

私の世界はゆっくりと色を落とし、
音楽はか細くしぼみながら消滅したのだ。

夕焼けが刻々に様相を変え、
すこしずつ燃え尽きて灰になる様を
私は目の当たりにした。




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「あぁ、まるで羊の群れだ。
セヴェンヌのあの可愛い子羊どもはどうしたろう。
あいつらは子供をもち、孫ができ、曾孫ができ、
やがて死んだだろう。」 (海と夕焼 三島由紀夫)





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記憶


記憶というのは写真のようなものだと思う。
それも現代のデジタル写真ではなく、
古ぼけたアルバムに収められたものに近い。

その古風な表紙をめくると
1ページ、1ページに、
花とそらと一緒に過ごした年月の
大きな流れの一場面一場面が、
ぼんやりとした画像ではあるが
きちんと保存されている。

一枚、一枚、復、一枚。

アルバムを開くと、
あの子たちの声や匂いや
温もりや生命を、
今でも感ずる事が出来る。

シルレルの云うように、
未来はためらいながら近づき、
現在は矢のように飛び去り、
そして過去は永久に静かに立っているものだが、

私の大切なアルバムは今、
過去という薄闇の静寂に
ひっそりと横たわっている。





そして、
私はもうこのまま過去に生き続けるのかも知れない。
これが、今、私の選んだ最良の幸福なのである。


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歩いてゆこう(DEC15)


それは、なんと輝くような日々だったろう。
悲しみも苦しみや、
あらゆる暗く不安なものが一切ないかのような
そんな明るい毎日だった。

そうだ、私はこの過去に生きよう。

(以下、三年半前に記したものを掲載してみます。)













歩いてゆこう どこまでも



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yato18MAY12 185


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ずっと一緒に

歩いてゆこう


















HANA28MAY12 008aa


SORA28MAY12 012bbb




夕暮れの空をふと見上げると、
そこにはショテルのような三日月があった。

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この季節、夕暮時のお散歩は、
そのまま煌々とした月下のお散歩へ
つながる事が多かった。

この世とあの世の境界のような
暗橙色のトンネルを抜けて
夜という異世界の入口に踏み込んだ時、
いつしか中空に浮かんでいた月に
はっ立ち止まる事も多かった。

そんな時は、
花とそらを両脇に抱いて
皆で座って夜空を眺めるのだ。
まだ僅かに赤くに染まった西の空に
高く輝く宵の明星、南天の月、薄っすらとした雲。

私はその時、
何度、この今が永遠に続けばいいと願った事だったろう。




私が夢見たものは、
それは云わばユートピアであった。
何の心配もいらない理想郷、
死や終わりが永遠に訪れない異世界。
それは意識的な思考停止の果ての
恐怖により構築された幻想だったのだ。
然し、現実世界に於いては
幻想は幻想でしかないのだから、
それは必然的に絶望世界へ成らざるをえなかった。

現実から目をそらし続けると、
結果、こうなる。
今、何も考えずに
その幸福に溺れたいと感ずるのは人情だが、
心の何処かに現実を記した付箋を
貼り付けておく事も
重要なのかも知れない。

月の満ち欠けは
そのまま無常の現実と重なる。









いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。

ひぐらし


あの幸福の時間が終焉を迎える少しまえ、
訪れた諏訪の地で聞いたひぐらしの音色が
今も耳の底に残っている。

疲労した晩夏の太陽が
ゆっくりと山の端に沈んでゆく時、
清浄なる神々の土地には澄んだ静寂が漂い、
そこには静かに
ひぐらしの唄声だけが響いていた。

今も、その声を聞きながらこれを記している。

そして、夕陽の中を歩く、
私たちに残された只ひとりの愛する子、
花の後ろ姿が目に浮かんでくる。
その姿は、
夕陽の濃いオレンジ色に染まっている。

私たち三人の姿をそっと見守る、
精霊となったそらの姿もある。

必死に涙をこらえながら生きた日々であった。
気を緩めると一気に崩壊する事がわかっていた。
両足を踏ん張って耐えた。
今は静かに毎日を暮らしている。

私の人生は、今、静寂の只中にある。
ひぐらしの音色は、
いつか、悲しみから美しい思い出へと昇華するだろう。








いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。

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