夏のある午後、
つがいの鳶が並んで海を眺めている。
移り変わる四季を海の様相に感じながら
林太郎とエリスの時間は静かに進み、
幾年の年月を経て、遂にその時が来た。
「僕はもう行かなければなりません。」


エリスは今、一羽だ。
いつもそこに居た林太郎は
最早旅立ってしまった。
世界の理は、
何者にも平等であるのだ。

然しエリスには、
その現実を受け止める事は能わなかった。
エリスは林太郎の姿を探し
何処までも、何処までも、
大空をぐんぐんと昇っていった。


幻だったのだろうか。
その時、疲労で朦朧としたエリスの目に、
太陽を目指して飛ぶ林太郎の姿が映った。
エリスはもう目にいっぱいの涙をためながら、
無我夢中で林太郎を追って飛んだ。
「林太郎さん! 私を置いて行かないで下さい!」
追いかけても、追いかけても、
エリスは決して林太郎には追いつけなかった。
この現世に於いては、
先に旅立った者に追いつく法などありはしないのだ。
それでもエリスは飛び続けた。
やがて、エリスの身体は、

強烈な太陽風に粉々にされて、

光の粒子となって大気に散乱した。

エリスの身体は自然へ還った。
だが、
魂は林太郎のそれと共に在り、
今でも一緒に海を見ている。
よううやく手に入れた永遠の安息を楽しむかのように・・・
いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。
岩場に佇むこの蟹。

蟹はある日、この世界の理に気が付いた。
今までこの安寧を当たり前に生きてきたが、
この世の本質はなんと理不尽極まりないものだったろう。
例えばあの波だ。
押し寄せる波の前では
蟹は無力以下に無力な存在だ。
なんの抵抗すらも許されず
巨大なエネルギーに飲み込まれるのみだ。
波がほんの気まぐれを起こして
この蟹を岩に叩きつけたならば、
蟹は一瞬のうちにその生を終える。
然し、波がちょっぴりの同情心を起こしたならば、
蟹の身体は上手く岩の隙間に流れこみ、
理不尽に砕かれる事にはならないだろう。
蟹の意思も都合も感情も権利も何も関係なく、
総てが波の思うままなのである。
それでも蟹は、海を離れて生きてはゆけない。
我々も、又、この蟹と同じだ。
To be more precise, he was "forced" to be aware of the principle of the world.
いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。
仏教思想の基本的な考え方の一つに
「因果律」というものがある。
これは、
全ての結果は何らかの原因を以て生じたものであって、
原因なしには何も生じないという考え方だ。
では、
「誕生」という原因があるからには、
「死」という結果は避けられないのであろうか?
「然り」であり、「否」である。
成程、一見すると「死」は結果である。
併し、肉体の滅びは必ずしも、
締めくくりと云う終結とは言えないはずだ。
何故か?
君に愛する存在を亡くした体験があるとしよう。
私がそうであったように、
君もまた、その喪失を嘆き悲しんだ事だろう。
君が涙をこぼし膝を地面についた時に、
君の心を支配していたものは何だったか?
君の身体に充満していたものは何だったか?
そうだ。
君の愛したその存在への思い、
切実なまでの愛の苦しみに違いなかったろう。
君の愛したその存在は、
確かに現世での役割は終えてしまったかも知れないが、
然し、本当にそれで終わりだったのか?
目を閉じて、周囲を感じてみるがいい。
きっと君は
君を見守る暖かい眼差しを感じる事が出来るはずだ。
「死」は、決して結果ではない。
それは、継続の中の通過点でしかないのだ。
誕生という原因の後に訪れるであろう結果、
肉体の「死」は、それには当たらないと私は考える。
まだその先があるのだから、
焦ってはいけない。
敢えて今回は「不昧因果」と題したけども、
然し、私は決して虚偽を謳ってはいないし、
断じて偽りを示してはいない。
自分の信ずる因果を記したのみである。
さらば読者よ、
命あったらまた他日。
元気でいこう、絶望するな、では失敬。
いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。
最初の「少女とワンコ」を記載してから2か月後に、
以下のような別バージョンを書いていました。
こうして見ると、
私は当時から「死」に対して
尋常でない執着を持っていたようです。
以下、当時のものを例によってそのまま記載します。
最後に可笑しな独り言がありますが、
食後の口直しに飲むお茶といった趣向で
お楽しみ頂ければ幸です。~ HANA SORA Stories ~
『少女とワンコ』 (another version)
少女とワンコはずうっと一緒でした
そしてこれからも
ずうっと一緒あらゆる苦しみ
あらゆく悲しみから解放されて
その魂は自由になりました
このひろがる空のもと
像となった二人の心に
ようやく安らぎが訪れたのです

二人はここで空をみる
私たちが塵となり
土にかえったその後も・・・
少女とワンコはずうっと一緒でした
そしてこれからも
ずうっと一緒
以前の「少女とワンコ」は
こちらから・・・
↓ 今回は、ネロとパトラッシュのイメージです。ハリウッド版「フランダースの犬」は
なんとラストがハッピーエンドなのだそうです。わかってない!
という声が聞こえてきそうですが、
デーブ・スペクター氏いわく
「そんなの当たり前。子供が不幸になる結末の映画なんて誰がみたがるんだ?」
とのこと。
う~ん、なんという正論!
でもまぁ・・
平家物語などに慣れ親しんで育った日本人にはよくわかる、
ものの「あはれ」というか「悲しみの中の美(といっていいものか)」というか、
言葉でうまく表現できませんが
悲劇には心に訴えかけてくる「何か」があるのだと思います。
完璧な薔薇より散りゆく桜をより好む
日本人が独自に感じる「何か」が。
話をハリウッド版「フランダースの犬」にもどしますが、
ラストにアレンジが加わったのは
仕方ないとして・・・
すごい爆発の中から
パトラッシュに乗って脱出するネロとか
ミッションインポッシブルなみのアクロバットで
ルーベンスの絵をみるために教会に侵入するネロとか
最後は全員でUSA!USA!の大合唱とか
いかにもハリウッドっていう演出がなかっただけでも・・
まぁ、よしとしますか、ってことで今回はこれまで!

孔子は、怪力乱神を語らずと云い、
釈迦も、死後の世界の事は決して語らなかったという。
分からない事や定かでない事をあれこれ思考して
疲弊するよりも、
今を懸命に生きよ、トいう教えだ。
大事なのは、「今」、なのだ。
現在科学の定説では、
時というものには、未来もなければ過去もなく、
時の流れという継続すらもないとされているらしい。
あるのは、ただ、
この「今」という瞬間のみ。
私たちにあるのは、
ただ、「今」というこの瞬間のみ。
悩んでも悲しんでも苦しんで泣いたって、
ただ在るのはこの「今」のみなのだ。
ならばもう開き直って、
「今」を精一杯に生きるしかない。
科学的であるはずなのに、
なんと精神的な理論なのだろう。
科学を突き詰めると宗教になると云うが、
成程、ようやくそれがわかりかけてきた。
そんな事を考えている時、
毎月、素晴らしいお言葉を掲示して下さっている、
海老名市のあるお寺に足を運んできた。
今月のお言葉を見た時に私は、
成程、これが縁というものか、
一人そう頷き、
心の中で大いなる存在に手を合わせていた。
いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。