私の考える死後の世界は
(「銀河鉄道の夜」の影響が少なからずあり)
浄土系仏教に見られる浄土や
基督教の天国に近い。
その世界には永遠があり
愛する存在とずっと安息の日々を送れるのだ。
その永遠に比べれば、
残された人生の時間など塵のように一瞬のものだ。
しかし実際に感じる時間は果てしないものに思えるだろう。
ではその間、どうすればいいのか?
あせることはない。
愛する存在に会いたいという感情を
溜めてためて、一杯にまでしておけばいいのだ。
そうして、
あの世界で愛する存在に再開するその瞬間に
思いっきり爆発させればいい。
思いっきり抱きしめて、
どんなに会いたかったか
どんなに愛おしかったか
心の底から思うままに
話して聞かせるがいいのだ。
その時にきっと、現世での苦しみは
喜びの涙と共に流れて消えることだろう。
その時にはこの世界で感じた苦しみや悲しみも、
きっと懐かしく感ずる事が出来るだろう。
花とそらの幸福をこの現世に達成したことで、
ひとつ、重大な責務を果たした事によって、
私はもういつ死んでもよい事になったわけだが、
然し私は、自分に許されたこの世界での終着点までは、
きっと懸命に生きようと思う。
いつも読んで下さっている皆様、有難う御座います。
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あれもしてやれた、これもしてやれた。
あぁすればよかった、こうすれよかった。
何故出来なかったのか、しなかったのか。……
花とそらがなくなった後、
私は暫くの間、このような悔恨の念に苛まれた。
今更どうする事も出来ない。
どんなに頑張っても取り返しはつかない。
抗う術など皆無の望みなき戦いは、
私の心を打ちのめし
すっかり疲弊させた。
愛する存在を失った時、
多くの人はあの時の私と同じように、
姿のない、然し輪郭のくっきりした、
「悔恨」という敵との戦いで
心労に追い打ちをかけられるのではなかろうか?
今、同じ苦しみに心痛している人が
もしも在ったならばこう云いたい。
君よ、苦しむことなかれ。
その苦しみは、
君が確かにその存在を愛した厳然たる証なのであり、
愛すればこそ、の感情なのだ。
愛の証に何を苦しむことがある。
君よ、苦しむなかれ。
人の出来る事には限度というものがある。
その制限の中で、
君はきっと精一杯にその存在を愛したに違いないだろう。
だからその存在は
きっと幸福のうちに
喜びに満ちた生を終えたはずなのだ。
そして今は、天国で君に感謝している事だろう。
『死者にたいする
最高の手向けは
悲しみではなく感謝だ。』
君にもきっと、
涙に濡れながらも笑顔でもって、
感謝の言葉を口に出来る時が、
きっときっと来るはずだ。
それは時間がはっきりと約束してくれる。
その日までは
ゆっくりのんびりと毎日を過ごすが良い。
決して焦ることなかれ。
さらば読者よ。
命あったらまた他日。
元気でいこう。絶望するな。
では失敬。
いつも読んで下さっている皆様、有難う御座います。
先日の夜のことである。
勤務が退けての帰宅途中、
老犬と老婦人が歩いているのを見た。
老犬は、一歩一歩、ゆっくりとした歩調で歩き、
御婦人も又、同じ歩調で従っている。
月の光に照らされた夜の散歩道に
ふたりの姿だけが影絵のように動き、
辺りの草木は風に葉を揺らしながら
静かにそれを見守っている。
このせわしい現世とは一切の関わりを持たず、
ゆっくりと、ゆっくりと、歩んでいるこの二つの個体は、
恰も人生を誓い合った夫婦のように
まったく一つの個体であるかのようだ。
その姿は、あまりにも美しい。
然し私は知っている。
その美しさは、
触れれば壊れるような
繊細な危うさのうえに成り立っているという事実を。
その儚さ故に、
訴えかけてくるものがあるのだという現実を。
老犬の、あまりにも頼りない足取りと
それを見つめる老婦人の悲哀に満ちた背中。
この先に必ずくるであろう悲しい別れは、
最早避ける事は出来ない。
壊れゆく未来の予感が、
ふたりの歩む今この時、この瞬間を、
切ないまでの美に昇華させているのだ。
月齢深き月が煌々と照るこの初夏の夜。
広大な世界にはおそらく何の影響も及ぼさないであろう
小さな町の小さなふたりを見送りながら、
岩盤のように堅固な未来を見据えたうえでも、
それでも私はこう祈らずにはいられない。
<ふたりの未来にきっと幸あれ>
儚い永遠を今日も誰かに祈らずにはいられないのである。
いつも読んで下さっている皆様、有難う御座います。
長袖Tシャツの袖が破れている。
無邪気な牙が貫いた穴と
イタズラな躍動がこしらえたこの裂け目。
花がふざけて
私のシャツの袖を引っ張りまわしていると、
そらもつられてそれに従う。
仕舞には、花そら対私の、綱引きならぬ
「袖引き合戦」となり、
ビリリ!という音を以てこの楽しき力比べは終了となる。
あの幸福だった日々の痕跡が
ここにも在る。
私はこの美しい記憶と共に
これからも生きてゆくのだ。
外では着れないので
すっかり部屋着になってます。 
いつも読んで下さっている皆様、有難う御座います。
新九郎は今、
一人のご婦人と神父を車に乗せて、
St. PATRICK 病院へと急いでいる。
カリフォルニア州の交通は渋滞が多く
新九郎はイライラとハンドルを
軽く指で叩いているが、
後部座席のご婦人と神父は
世間話に花を咲かせている。
神父にはご婦人に伝えるべき重大な用件、
それも、足も竦むような深刻な打明け話がるはずだが、
彼は一向、其の事に触れようとはしない。
新九郎はその事に多少の疑問を抱きながらも、
専門的にはその対応が指示されているのかも知れない、
などと考えて、余計な気回しをしないよう努めた。
やがて車は病院に到着し、
新九郎はその先に確実に待っている、
ご婦人に叩き付けられるであろう、
殆ど理不尽な暴力ともいえる衝撃を思い、
じっと身を強張らせた。
ご婦人は神父と共に医師と面会した。
医師の口からは、
途切れ途切れに次のような説明がなされる。
その表情は鉛のように暗く、重い。
40分間… 懸命に…
御主人をこちら側に連れ戻そうとしたのですが…ご婦人の表情が
見る見る間に曇ってゆく。
我々も最善を尽くして…
出来る限りのことを…ご婦人は最早、全てを見通していた。
それでも現実を受け入れられない
困惑に満ちたその魂は、
もう既にわかっている答えを求めて
叫ぶように周囲に問いかける。
「この人たちは一体何を言っているの!?」
ご婦人は、何度も何度も、
殆ど狂気に近い叫びで
周囲に問い続けている。
然し既に、
状況はその問いに対する回答を
非情なまでに明確に示しているのだ。
ご婦人は、
神父を伴っての病院出向に若干の不安はあったはずだが、
ここまで最悪の事態は予測してなかった、否、
考えたくはなかったはずだ。
それが今!現実として!
容赦なくこの気の毒なご婦人の面前に
一方的に突きつけられている……!
ご婦人は正気を失い、
まるで柳の枝がハサミで切られたかのように
真っ直ぐ下に崩れ落ちた。
新九郎は、
人間が絶対的な絶望に襲われる瞬間をまざまざと見た。
身体中の力が抜け落ち、虚脱と真空に、
ご婦人を構成する精神も肉体も
全てが粉々に砕け散り、
その魂の全てが真っ黒な墨で塗り潰され、
怒りと困惑と悲しみに焼かれて、
踏みつけられ、
のたうち回るまるっきりの全てを見た。
こんな凄まじい瞬間には、
人生のうちで何度も立ち合う事はないだろう。
新九郎は職務の全てを投げ出して
その場からとにかく
逃げ出したい気持ちでいっぱいになった。
然しほんのちょっとの理性が
新九郎をその場に留めた。
新九郎は、かつて自分にも訪れた
この実に全くの同じ状況を思い出して、
何とか自身を一つにまとめ上げる事が出来た。
この不幸なご婦人は、
きっと誠実な神父が支えて下さる事だろう。
そして残された家族、友人、ご婦人の周囲の皆が、
出来る限りの手を差し伸べて下さるはずだ。
そうしてご婦人はきっと、
一対一で神と対話する事になる。
神との真っ向からの対話は、
きっとこのご婦人の心を救済する事になるはずだ。
それからご婦人は知る事となる。
神とは、天の神のみでなくて、
家族や友人、
この世界全ての自然や生命をも指すものである、と。
救われるとは、
周囲に対する開眼であると私は考える。
それを教えて下さるのは、やはり、神である。
いつも読んで下さっている皆様、有難う御座います。
先月の座禅は非常な難儀であった。
早朝の朝霧がかかった森のように
ただ静かにひたすら座ってらっしゃる皆様の中、
私だけが、火にかけた薬缶のように
真っ赤になってグラグラと沸騰していたのだ。
腰も足も粉砕されるかの如く、痛い。
その痛みは身体だけでなく精神も熱し、
私は身も心も
噴火のエネルギーに山体が膨張した
火山のようになっていた。
最早、座禅の姿ではない。
このところ、座る事に慣れてきたという自負があった。
そのせいで、毎日の座禅の時間を短縮してしまっていた。
要するに、楽をしていたのだ。
その結果がこのざまである。
「十分には十分の功、
二十分には二十分の徳があり、
とにかく毎日座り続ける事が肝心である。」
という意味合いの台詞が夏目漱石の小説に出てくる。
これは極めて正しいし、大事な事だと思う。
間違いなく、継続の支えとなる言葉だ。
私の情けないなところは、
その言葉にすっかり甘えてしまったことに尽きる。
二十分、三十分、四十分出来るところを
十分ですましていた。
毎日少しでもやればいいや、と、
すっかり甘えてしまっていた。
だから私は阿呆なのだ。
せっかくの貴重な言葉も、
自分の都合の良い部分だけを取り出して
そこに甘えてしまっては意味がなくなる。
ある老師が、
「座るならしっかり座れ」
という意味の事を仰っていたが、
私にはこの教えが出来ていなかった。
毎日が修行である。
これでいいのか、と、
自分に問いかけをする事を忘れぬよう、
用心、用心。。
いつも読んで下さっている皆様、有難う御座います。
大山への想いは語りつくせない。
何故なら、花とそらが在ったあの日々に、
大山も又、常に其処に在ったからだ。
まるで、ちっちゃな花そらを背後で守っているかのように、
大山はいつもその頼もしい姿をどっしりと構え、
確かに其処に在ったのだ。
今、大山のある風景を眺めても、
最早その手前にあの子たちの姿はない。
唯、大山が在るのみである。
唯々、大山は泰然と佇み、
静かに私を見守っているのみ。
大山の美しい姿をご覧頂こう
違う場所から
角度を変えて
更にアップで
あと卅枚くらいは掲載したいところだが、
今回はこのへんで。……
いつも読んで下さっている皆様、有難う御座います。
富士の北側から桂川回廊を抜け、
丹沢山塊をぐるりと大きく迂回して
流れてくるこの相模川。
何度も書いたが、
私と花そらはこの川の岸部に佇んで
山や夕陽を眺めているのが好きだった。
その相模川の土手を今一人歩きながら
ふと山々を見渡す。
左端に大磯丘陵の唐突な姿が在る。

徐々に右へ視線を移すと、
そこには大蛇がのたうったような
箱根の奇怪な稜線が存在し、
そしてその右後方には、
大きく堂々とした富士山がそびえる。

更に右を見てゆくと、
精霊となった花そらの遊び場所である
丹沢山塊がどっしりと相模平野を見下ろしており、

駒を寄せたような形をした三峰山を以て
山塊の右端となる。
(この角度からは駒寄に見えないが御容赦!)いずれも美しい山々であるが、
私の最も好きなのは大山だ。

駿河湾で蒸発した水分が大気の流れに東進し、
丁度引っかかるのがこの丹沢山塊であり、
畢竟、古来より大山には降雨が多い。
大山の阿夫利神社は、雨降り神社という意味なのである。
干天の慈雨という言葉があるが、
雨を降らせるとはつまり農作物を育てるという事で
人の生命を守るという事なのだ。
したがって、伝統的な山岳信仰に加えて
この山が神格化された歴史は
考えるに自然な事であったわけだが、
そういった神秘性と共に私がこの山を愛するのは
その美しい形によるところも大きい。
伊豆の本州への衝突Enによって生じた隆起は
地球の壮大な「皺」である。
その中にあってあの美しく滑らかな稜線を保ちつつ、
尚、山頂部はなだらかな三角錐で、
私が思い定める「山とはこう在らねばならない」という定義に
見事に当てはまるこの自然の芸術美。
春には所々に見事な大山桜を咲かせ、
夏には力強い若者のような濃い蒼色となり、
秋にはもの悲しい紅葉に哀歌を唄い、
冬には、可憐な少女が施した薄化粧のような雪に染まって、
一年を通して私の心に大きな存在感をもたらすこの雄大なる詩人。
愛し、慕いながらも、
敬い、畏れ、すがり、
常にこの心の何処かに厳然と存在する。
其処には明らかなまでに
大いなる神の存在を感ぜずにはいられないのだ。
この相模国の平野にある時は、
いつも無意識にその姿を探してしまう。
私の愛する大山。
なんとしたことだろう。
相模川から見える山々を語ろうと思っていたが、
気が付いたら唯、大山への愛を語っていた。
私の持つ大山への思いはまだまだ語りつくせないが、
どうやら長くなってしまったので
今回はここで筆を置くとしよう。 不一。
いつも読んで下さっている皆様、有難う御座います。