現実の痕跡


花とそらの写真を見るたび、
その輝くような生命の眩しさに
私は思わず頬を緩ませる。

その表情は、
今の倖せを謳歌する喜びと
純粋な生きる意志に満ちていて、
あまりにも鮮明な現実の痕跡に
私は改めて
損失を実感するのだ。

私はこの記憶にすがって生きてゆく。

写真のみせるその美しい生命の美は
ゆっくりと私の胸に流れ込んできて、
明日を生きる活力となる。







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時間薬


私にとっての最も心強い希望は
「時間薬」という言葉であった。
これを知っていたからこそ、
歯の喰いしばりを以て、艱難の日々を耐え抜く事が出来た。
実体験から確信を以て云えるが、
時間は必ず、どんな悲しみをも癒してくれる。

時間薬の最も優れた、そして最大の特徴は、
何もする必要がない、ということだ。
時間とは勝手に進むもの。
時とは経つものなのだ。
ごく自然に朝日は昇り、
夕陽は自ずから沈んでゆく。

私たちは今ではなく、
その先に視点を置かなければならない。
悲しみを乗り越えたところには、
新しい人生が待っていて、
苦しんだぶんだけの、倖せがあるからだ。






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今日の倖せ


人にはそれぞれ執念深く追う題材があると思うが、
私の場合、人生が時間に従って下らなければならないという
どうにもならない自然の摂理がそれに当たる。

「今日の倖せを感謝します。」

神仏に祈るある深夜のこと、
自然と口にでたこの言葉に少々驚いた。
いつも口にしているはずなのに、
妙な違和感というか、新鮮さを感じたからだ。

私はかつて、永遠を祈り、願った。
この子たちとどこまでも歩いてゆけますよに、と、
その事ばかりに執着し、現実から目を背けた。
事ある事に神仏へ願掛けし、
永遠は最早保障された確固たる現実であると、
そう思いこもうとした。

そして、現実を知らしめる運命の時がきた。
あれから時間は流れ、今に至っている。

私はその間に何を学んだのだろう。
現実の理不尽、この世の理を憎み、
神仏にすがり、空を仰ぎ見て、
その時間を経た後に、何に気付いたのだろうか。
やっぱり、神仏への感謝であった。

大いなる存在は常に私たちを助けて下さる。
併し、それは決められたルールの範囲内でのことだ。
私たち人間がそれ以上を願ったとしても、
それは不相応な図々しさでしかない。
私は常に身勝手極まりなかったが、
それでも神仏は私と共に在った。…

それを漸く理解した今、
発する言葉は同じであっても
その背景がまるで違うので
自分でも驚くほどに新鮮に感じている。





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経を唱える意味


春の朧月夜は
この世とあの世の境界を曖昧にする。

最早、神となった死者と交わす言葉は
私の胸に沁み入り、
霧雨が深々と土を濡らして
野山の新緑を育ててゆくように、
死して尚、私の生きる根拠であり続ける。

「般若心経は生きてゆく為の智慧ではないのか?
それを死者に唱えて供養になるのか?」
そんな問いをある僧侶に投げかけたことがある。
こたえは概ねこういったものであった。

確かに般若心経は生者の為の智慧であって
死者を弔う為のものではないかも知れない。
では何故、供養に唱えるのか?
そこが先ず、そもそもの思い違いである。
あたなは死者を供養しているつもりかも知れないが、
実は死者があなたに経を唱えさせているのだ。
唱えた経は墓石に当たって跳ね返ってくるだろう?
励まされているのは、あなたのほうなのだ。






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風鈴に風が言葉を伝えてる


私が蜻蛉好きなのは、
武田家の重臣、板垣信方に由来する。

その思いが高じすぎ、
遂には蜻蛉の風鈴を買うまでに至ったのは、
子供っぽい私の性質であるので、
笑って乾杯のグラスを差し出して欲しいところであるが、
さて…

私はこの風鈴を室内に掛けている。
この季節になって
リビングの窓を開ける機会が多くなり、
畢竟、涼やかな春の夜風に
風鈴が鳴る機械が増えたのであるが、
その何気ない音色が、時折、
私の心に流れる様に滑り込んでくる。

他との違いが
はっとするほど明確に感ぜられる。
私はそれを
花とそらの語りかけだと信じている。

現世では最早、直接の交信の手段を失ったので、
自然の風に乗せ、風鈴を通し、
花とそらが静かに語りかけてくるのだ。

それは果たして気のせいであろうか、
願望であろうか、夢であろうか。
それとも、稚拙な感傷でしかないのか。

それらをやんわりと否定する
確固たる何かが私の中にはあり、
ふと、頬を緩めて花そらに話しかけてみる。

風が蕭々と吹き抜けるばかりの朧月夜。
信ずるところに現実が在る。







* タイトルは、何処かの俳句コンテストでの小学生の作品を本歌取りしたものです。


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普通の日々


私とボクシングは最早20年の付き合いとなった。
ジムで一緒に汗を流す面子も
気心のしれた良い仲間である。

さて、その中でA氏は先日膝を痛め、
サンドバッグを打つスィングがゆっくりだ。
前に出す足の膝を痛めると
パンチに体重が乗らなくなるので、
ここは無理せず、ゆっくりとコンビネーションを
確認するかのような、穏やかな動きだ。

B氏は長年膝を痛めており、
こちらは30代後半でありながら
すでに70代の膝と診断されているほど
関節が摩耗している。
軟骨は再生しないので、
ガッチリとサポーターで固めての
ワークアウトとなるが、
パンチの基本となる下半身の粘りがないため、
かつてのハードパンチが
今では28サンチ砲の空撃ちのようになってしまった。

C君は常にオーバーワーク気味なのだが、
ついに足首の靭帯を痛めてしまって
いつもの軽いフットワークを踏めずに
ほぼ棒立ちの軽いシャドーを流している。
皆、満身創痍だ。

そんな選手たちを眺めながら、
ジムの館長がこう云った。

「やっぱり普通が一番だな。
いつもやってる当たり前の動きが出来ることが
いかに有難いものか、
こういう時によくわかるよな、はっはっは!
うむ、普通が一番!一番!」


そうなのだ。
本当の幸福は、失くして初めて気が付くものだ。
その時はそれで当たり前なのだが、
失くして初めてその当たり前の有難さに気付くのだ。
人生は、常にこの繰り返しだ。
同じ感情を、もう何度経験しただろう。
だから、今を大事に、などといつも思うのだが、
気が付いたら忘れている。
普通が普通になってしまっている。

いつも、花とそらと一緒に座って夕陽を眺めた
この相模川の水のほとりで、
私は一人、そんな事を考えた。





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幸運の花


春、千林に入る処々の花

春になると、どの林にも一斉に新芽が生まれ、
辺りは花に満ち溢れる。

隣の芝が青い時には自宅の芝も同じく茂るし、
どの家の水瓶にも
月は同じ姿を美しく揺らす。
自然は常に、何者に対しても平等なのだ。
今日はそんなお話を伺った。

自然が万物に平等なのは
疑いようのない事実であるが、
併し、運のいい人と悪い人というのは
実際に存在する。 何故か?

それは、日頃の気配りや思慮や
何かに対する誠実な姿勢や何やと、
様々な要素によって差が付くものだが、
中でも重要なのは、
私が人生に於いて最も信望するこの言葉、
努力、に尽きるだろう。

努力の先には必ず花が咲く。
それは、自らが植えて育てた
運を呼び込む倖せの花なのだ。

(と、今日も自分に云い聞かす。)




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暁の石窟寺


愛する者を亡くした後の
私の唯一の希望は時間であった。
時間の経過のみが悲しみを癒す事が出来る、
所謂、時間薬に頼るしかなかった。

偉大な時の流れはいつしか
私を救ってくれたけども、
しかし、過去はある時に突然
現在と繋がって私を大いに驚かせた。
それは、睡眠という記憶のリセットだった。

私は夜中に突然目覚めるのが怖い。
私の心の根底を支配しているのは
過ぎ去った過去に相違ないので、
睡眠中に行われる記憶の最適化中は
どうしてもその事が主要トピックとなってしまうのだ。
而して、夜中の突然の覚醒の際には
当時の記憶が生々しく蘇る。

明け方に私は夢をみた。
早春の空には薄雲がかかり
呆然と歩く私の前が突然視界が開けて
石窟の寺院が姿を現した。

その寺院は馬蹄状に広がった滝と一体化しており、
壁には一面に清らかな水が流れていた。
慰霊碑を思わせる石の塔が建ち、
日本風とも中央アジア風とも思える建造物は
静かに滝の流れに身を浸していた。

入口に跪き、
私は愛しい者たちの名を
何度も何度も叫んだ。
あまりの悲しみに、死へ逃げようかとすら考えた。
私は何度も叫び、寺院を見上げ、そして目が覚めた。

辺りはまだ暗く、
月は煌々と輝いて流れる雲を照らしていた。
その様は、
川の流れを時に例えた方丈記を思い起こさせた。
雲は淀みなく流れてゆく。
時の流れも同様、そして別れは定められた法則。

私を過去に連れ戻す真夜中の覚醒は
きっとこれからも私を悩ませる。
しかしこれは苦しみではなく
愛の再確認と受け止めれば
私はまた明日も生きてゆけるだろう。
そして感謝の気持ちを新たにするだろう。
神は私と共にある。





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続、浄土 


さて一方、
禅の僧侶に浄土を語らせるとどうなるか?
これはもう、大変な事になる。
いや、実際、すごいインパクトだった。

「何処まで西に行ったって
そんなものありゃしませんよ!」
「地球は丸いんだから、
元の場所に帰ってきちゃうでしょ!?」
などと、大胆に笑い飛ばしてしまう始末である。
これにはさすがに
苦笑いするしかない。

私は、禅とは、
この世界に真正面から向かい合って
現実を如何に生きるのか、ト、
この人類の持ち得る最難関の学問を
学ぶ場だと思っている。
それは、
一切の妥協がない
リアリストの世界に他ならない。

従って、この禅僧の答えには
充分に納得がいったし、
なんの反論も持たなかった。
そして、少しの嫌な気もしなかった。

これは、私が心の何処かで、
禅の世界観とは全く異なった浄土の世界観を
決して交わる事のない
別の枠で考え分けているからでもあるが、
理由はそれだけではない。
私がもしも浄土を口にした時、
何故それを云わねばならないのか、を、
しっかりと見抜いて理解してくれるだろうという
安心感があったからに他ならない。
(併し、決して抱擁などはしてくれない)

私は禅を信望するし、実際に学んでいる。
しかし浄土も必要だ。
そして、
禅僧という人たちははきっとそれを見抜いている。
科学者以上のリアリストであるが故に、
人の心もそのまま鏡に映すように
精密に観察している。
人を樹木に例えるならば、
地中に這う根までも見通すのが禅僧なのである。

だから、冒頭であげたような話は
(いちいち口には出さないが)
自然科学の話、という前提で話されていて、
信仰とはまるっきり切り離しているはずだ。

はっきりとわかる形での優しさはないが、
私たちはその豪放磊落な姿勢の向うにある
もっと大きな「何か」に気付かねばならない。

いちいち口には出さないが、というのが
また禅的で痛快ではないか!








いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。

浄土


私にとっての浄土とは、
死者がこの世のあらゆる苦しみから解放された
安らぎの場所である。
もはや、何の痛みも心配もない
安寧の世界である。

だから私は、
愛する者が浄土に在って欲しいと
強く、強く、願う。

ある時、浄土真宗の僧侶に
浄土はあるのか?と問うた事があった。
僧侶は、ただ信じないさい、と云い続けるのみで、
それ以上は語らなかった。

あの時、たった一言、
確信に満ちた目で「ある」と答えてもらえたならば、
私はもうそこで死んでもよいとまで
思っただろう。
それまで流した悲しみの涙を凡て
洗い流すほどの満足の涙を流しただろう。
しかし、僧侶は、それ以上を
決して語ろうとはしなかった。


時が経って漸く気付いたが、
あの僧侶は実に公明正大であった。









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