鈍刀を磨く


坂村真民という詩人、あり。
たいへんに優しく、同時に力強く、
弱く、且つ、生きる意志に満ち溢れた
実に人間的な詩を残されている。

妙心寺派のお寺で
5年、禅の修行をされたそうだが、
成程、と思うところがある。
禅を学ぶ人というのは、なんというか、
根底にある共通点として
妙な血潮の生々しさと、
人生に前向きな人間的強度が
あるように思う。

そして不思議なことに、
黙々と一人の修行を積んでゆくのが
禅の修行という印象であるのだけれども、
その結果生まれた余裕であろうか、
禅を行う人は己のことのみならず、
常に他人のことも己のように考えている思考に
特徴があるように思えるのだ。

それは視点の広さという単純ではなく、
己と人とを全く区別していない、
要するに、広袤山河を鳥瞰するように
物事を捉えており、
それは恰も精神が尽十方と一体化して
自然に溶け込んでいるかのようで
我々凡人には驚きでしかない。

「鈍刀を磨く」という詩にも
その特徴が見て取れる。

この詩は、
ひたすら鈍刀を磨き続ける、という内容だ。
鈍刀は決して光らないかも知れないが、
しかし、せっせと磨いていけば、
そのうちに磨く本人が輝いてくる、トいう、
世界の妙の計り知れなさを謳ったものだ。

それはそれで疑いようもなく尊いものだし
大切なことではあるのだが、
実は私が心を奪われたのはそこではなかった。

私がハッと目を奪われ、思わず絶句した一節とは、
磨かれる鈍刀が、
すまぬ、すまぬ、ト、己の至らなさを恥じるように
言動しているほんの一瞬のくだりの部分だった。

「こんな私ですまぬ、すまぬ」
そんな刀をただ、ひたすら黙って磨き続ける。
本編の核心からは外れるが、
私はこの場面に強く心を打たれた。

論点を無視するようで心苦しいが、
このような美しい交流のあとには
最早、結果などどうでもよくなってくる。
刀は勿論、たとえ磨く本人が決して輝くことがなくとも、
それでももう、これは完成された美に違いはないからだ。

作者が伝えたいと思っている核心に
そっと花を添えるように描かれたこの場面。
鈍刀を磨く本人だけでなく、
刀の気持ちをも表現したところに、
私はさりげない優しさを感じ
妙に感じ入ってしまったのです。



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歯医者


私は歯医者というものが大の苦手だ。
あの恐怖に並び立つものは
他には先ずない。
並び立つものがないという意味では、
平地に唐突に存在する
あの富士の山と同じだ。

富士には月見草がよく似合うというが、
歯医者にはキョウチクトウがよく似合う。
キョウチクトウの花言葉は「危険」だ。
ウツボカズラの花言葉も「危険」らしい。
陰性の言葉を勝手に押し付けられた
花たちはいい迷惑だろう、などと考えながら
ページを進めてゆくのだが、
目につくのはそういったものばかりだ。

睡蓮「滅亡」、パセリ「死の前兆」、
フキノトウなどは「処罰課すべし」で、
カキにいたっては
「広袤の自然に永遠の眠り」だ。
こんな言葉ばかりで
すっかり暗い気分になってしまうが、
歯医者とは、まぁ、そんな場所だ。



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さて、新九郎君の考えですと、
蝉の前半生は慎ましく地味なものとなる訳ですが、
果たしてそれは真実なのでしょうか?

蝉にだって個性があるはずです。
ですから、もしかしたらじっと地面の下にいる生活を
悠悠自適と考えている蝉がいるかも知れません。
特になにもせず、植物の根から
美味しい樹液を吸って、
静寂に包まれながら何年も暮らす…
もしかしたらこれは、
夢のような生活とは云えないでしょうか?

外出するのが嫌いな人だっている訳ですから、
人生の終焉の時になって
ほとんど運命的に外界に出て行かざると得ないことを、
苦痛に感ずる蝉がいたっておかしくありません。
そんな蝉たちにとっては
人生の最期に試練が設定されている訳ですから
あの鳴き声はもしかしたら
恨み辛みの合唱かも知れないのです。

こう考えみると、
どうやら蝉たちを一緒くたに考えるのは
失礼かも知れません。
蝉を単純な虫と決めつけ、
無意識のうちに見下している訳ですから、
考えを改めざるをえません。
その生き方に感ずるものがあるのであれば、
その生き方を尊重するのが公明正大というものです。


などと、おかしな理屈をこねてみましたが、
やっぱりあの蝉たちの大合唱と羽ばたく姿は
喜びの姿に他ありませんね。

感じ方一つで
蝉の前半生も幸福なものと捉えることが出来る、
といったお話を先日伺い、強い感銘を受けたので
そのお話を書きたかったのですが…

人の言葉を表現するのはどうにも難しいことです。
自分の身になっていない、ということでしょう。




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新九郎譚「蝉」


夏の終わりは新九郎君を
ちょっぴりメランコリックにさせるそうです。

盛夏の折、
あれほどの隆栄をほこった
蝉たちが

一羽、そしてまた一羽、

乾いた死骸になって
地面に横たわる様は、
まさに虚しい無常を表しますので
まぁ、新九郎君でなくとも
物悲しくなる人はなるでしょう。

蝉は暗い地面の下で何年も、
ただじっと、慎ましく暮らします。
何の贅沢もせず、
何の栄華も望まず、
ただじっと、
身の丈にあった生活を粛々と続けるのみです。

そんな蝉ではありますが、
人生の最後のほんの一瞬、
ついに太陽を目にする時がきます。

もはや、蝉を冷たく重く圧迫する
圧倒的な質量、地面に抑え込まれることもなく、
蝉は自由に、力強く、
この一瞬を満喫するように
どこまでもどこまでも、
高く高く、この大空を思うがままに
飛んで行くのです。
初めて感じた生きる喜びに
全身を満たされながら。。

しかし、蝉は知っています。
この幸福は長くは続かないことを。
だからこそ、
この一瞬が輝いているのだということを。

墜落してゆく仲間たちを横目で見ながら、
蝉はただ、己に許された残り少ない時間を
精一杯に生きるしかありません。
それが蝉の人生…

さて、
夏の終わりにはいつも、
意外にもロマンチストな新九郎君は
この様な思いに耽っている訳ですが、
そんな時は大抵、ガサツな一言が
うっとりした表情の新九郎君を現実に引き戻します。

Awww!うるさい!
ヤツらはいったい何を叫んでいるんだ!?

新九郎君は故あって米国人と職場を共にしています。
無常観など欠片も気にしない米人には、
蝉の悲しさなど理解しようもありません。
出身の州によっては蝉を知らない人もいますので、
ますます無理もない事情となります。

よくわからないけど、たぶん、
Push, Push a hat (突く突く帽子)じゃないかな?

そう、返答する我らが新九郎君は今日もいい加減です。




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彼岸花


先日、老師のお話に彼岸花の話題がでた。

彼岸花といえば思い出すのが、
そらが亡くなった後に
花と二人きりで歩いた、
丹沢のある小さな小道だ。

そらのいない違和感と、
色を失い花弁を落としはじめた
無残な彼岸花の群れ、
物事の終焉を予感させる薄暗い曇天。
物悲しさの中を私たちは無言で歩いた。

その時になぜか、
山間に見えた大山の姿が
妙に神々しく感ぜられたのを思い出す。

花は凝っと座って、
何事かを考えながら
大山を見上げ、
私はその背をそっと抱いて寄り添った。
そらの死に、
私たちは傷つき疲れていた。


彼岸花の、
あのはっとするほどの鮮烈な赤には
古来より多くの歌が残されているのだという。

その歌は、喪失に係る痛恨の思いが
迫真の力で綴られたものが多い、トいった意味合いの
老師のお話だったので、
私は少々調べるのに躊躇してしまったが、
否、躊躇はしなかったかも知れないが、
そんな悲しい歌に触れてみようと思った
自分に驚きはした。
かつては、
そんなものは遠ざけねばならなかったからだ。

果たして、矢張り悲しい歌ばかりであった。

地に浮かぶその赤い花を
幼子の血に見立て、
咲いた花は
ちょうどその子の(亡くなった)年の数、ト詠む歌などは、
特に彼岸花と死の関係を
生々しく描写していた。

彼岸花の赤は、厳粛な死出の彩なのだ。
従って、あの日、私たちが歩いたあの小道は、
矢張り死んだ後の世界への旅の始点であり、
その先にそびえる大山は
亡くなった者たちの霊が眠る場所なのだと、
私は改めて確信した。





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桜散る


ある春の日、
近所のお寺に寄ったところ
桜が実に美しく咲き誇る・・・ ほんの手前の状態だった。

8分半咲きプラス、といったところだったか。

風に揺れて青空に映えるその姿を
写真に収めておこうと思ったが、
私はその時、
「否、どうせなら満開の姿を撮りたい」などと考え、
カメラを収めてしまった。
桜だって、一番キレイな姿で撮って欲しいはずだ。

そして数日後、
再びそのお寺を訪れると、
あの美しかった桜たちは、
無残にも散ってしまっていた。
地面を覆う、
茶色に変色した姿が痛々しい。
まさに、
明日ありと思う心の仇桜・・・


今日の当たり前を
明日にも期待してはいけない。
今まで何度も経験してきたことだ。

併しそのことを学び、
真に自分の智慧とすることは難しい。






いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。

7分の勝利


信玄公がご遺訓で、
軍勝はおよそ五分が上で、七分が中、十分をもって下と為す、
トいった意味のことをおっしゃっている。

完勝は驕り高ぶりをもたらすという意味で、
しかも相手の面子も潰して
恨みを買うことにもなるのだから、
なるほど、これは真理だ。
洋の東西を問わず、
あらゆる兵法書も同じことを云っている。

さて、私はというと、
歴史や兵法書が好きなので
いろいろと読み漁って知識だけはあるつもりだ。
そして、そう云っているところに
既に驕りがあるわけで、
よくよく考えると勝利の後にはいつも油断し、
そして失敗することが多い。
しかも、相手の面子など考えないばかりか、
徹底的に滅殺することに喜びを感じてしまうので
当然、その後の周囲との関係はぎこちなくなる。
(これは確か、黒田官兵衛が指摘していた)
この周囲、というのが重要で、
一人を潰すことはそれを見ている周囲をも
遠ざけることになる。
<人は常に見ている>

さて、こうして大失敗を繰り返しながら、
気にはしているのだが、それでも学ばず、
そうして今に至るわけだが、
このサイクルには
私特有のもう一つのステップがある。

失敗の後、私は必ず家康公の、
例のしかみ像の前で項垂れる。

このしかみ像自体が、
こうはならないように!トいう
戒めの絵であるのだけれども、
私のほうな凡人はこれを
何度も、何度も、何度も、何度も、
見つめて反省する機会を繰り返してしまっている。

歴史に学ぶ賢者と、経験に学ぶ愚者、
私はその愚者にすらなれていないのが現実だ。


自分で書いていてなんだか笑ってしまった。




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過去は静かに佇む


Good morning♪ Good morning♪
Good morning 花ちゃん♪
Good morning♪ Good morning♪
How are you ぽっくん♪


こう歌いながら花とそらを見つめると、
二人は歌に合わせるかのように
小さくジャンプしながら
嬉しそうに笑ってくれたものだった、最早遠い日々だ。

「未来は躊躇いながら近づき
現在は矢のように飛び去り、
そして過去は永遠に静かに佇んでいる」

これまで
このシラーの言葉を何度も書いてきたが、
今、漸く、その結びの句を
実感によって理解したように思う。

賑やかで幸福だった日々が
この静寂をより一層際立たせる。

花とそらの小さなお位牌のあるこの情景は、
永遠の、

<静かな佇み>


私の永遠は既に完成し、完結していた。










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特訓


このところ実に気分がいい。
小鳥のさえずりと風の音が心地よく、
人も美しくみえるし、
なにより空の青が綺麗だ。
太宰治っぽく云うと、
その空に舟を浮かべたくなるほどに
気分がいい。

さて、その青空のしたで
私はある特訓をすることにした。
この真夏の屋外、
身を焼く紫外線の照射に晒されながら、
公園のベンチで
模試に挑戦することにしたのだ。

この特訓には2つ(+1)の利点がある。
過酷な状況で模試を行うことにより
本番がより楽になるという点と、
時間ごとに熱射病のリスクが増大してゆくので
嫌でも解答速度があがるという点だ。

試験対策に身体的な鍛錬の要素を組み込んだ、
まったく新しいアプローチといえる。

そしてカッコ内のプラス1は、
この特訓によって得られる満足感と達成感、
これが自信に繋がるとう仕組みで、
ここは心理学的アプローチとなるので、
立体的な新規格と云えよう。
まったく隙の無いこの目論見には
我ながら感動する。
青空に舟を浮かべたいほどに晴れやかな気分だ。


さて、実際の成果はどうであるか、というと、
正直なところエアコンの効いた部屋でじっくり学習したほうが
力はつくと思う。
こういった、少年ジャ○プ的な発想の特訓が
実用的でないのは明らかだし、
そもそも外で模試をするのは恥ずかしい。

しかし、夏の間だけの季節ものなのだから、
今はこの試練を楽しんでくるとしよう。





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立ち止まらぬこと


一日サボるのは一日分後退するのと同じことであります。

立ち止まりは後退を意味しますので、
それを諫めるために
「その場に留まる為には全力で走り続けなければならない」、と、
そんな言葉があるくらいです。
本来この言葉はよく進化の仕組みの説明に使われ…
否、元々はルイス・キャロルの「不思議な国のアリス」からの引用ですが。


立ち止まりは後退を意味すると云いました。
想像してみてください。
ある試験を受けようと、
その項目を烈火の如く勉強したとして、
見事受かったとしましょう。
しかしその後は安心して全く学問しなかったとします。
一ヶ月後に同じ試験を受けて受かりましょうか?

運動で筋骨隆々とした体を作り上げたとします。
しかしその後、怠けて遊び暮らしたら、
一ヶ月でおなかが出てしまうでしょう。

継続だけが、保持をもたらすのです。
帰国子女が、身に付けた言語学を失わないために
なるべく外国人と話す機会をつくるのはこの為です。

私は、一度得た勲章を捨てるつもりはありません。
併しそこには(他のどんなことと同じく)常に代価が発生します。
それが継続の努力です。

物質的な財産には常に滅亡の可能性がありますが、
学問のような精神的財産は
本人が努力を続ける限りは決して消滅しないのです。
地に蓄えた財産はいつか滅びるが、
天に蓄えた財産は決して滅びない、ト、聖書も教えています。

とは云え、私は弱い人間なので常にサボる機会を伺っていますし、
勉強の時間になると、ついつい部屋の掃除を始めたりします。
そんな時こそ、
冒頭にあげた言葉で自らを平手打ちするのです。

「その場に留まる為には全力で走り続けなければならない。」





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