7分の勝利


信玄公がご遺訓で、
軍勝はおよそ五分が上で、七分が中、十分をもって下と為す、
トいった意味のことをおっしゃっている。

完勝は驕り高ぶりをもたらすという意味で、
しかも相手の面子も潰して
恨みを買うことにもなるのだから、
なるほど、これは真理だ。
洋の東西を問わず、
あらゆる兵法書も同じことを云っている。

さて、私はというと、
歴史や兵法書が好きなので
いろいろと読み漁って知識だけはあるつもりだ。
そして、そう云っているところに
既に驕りがあるわけで、
よくよく考えると勝利の後にはいつも油断し、
そして失敗することが多い。
しかも、相手の面子など考えないばかりか、
徹底的に滅殺することに喜びを感じてしまうので
当然、その後の周囲との関係はぎこちなくなる。
(これは確か、黒田官兵衛が指摘していた)
この周囲、というのが重要で、
一人を潰すことはそれを見ている周囲をも
遠ざけることになる。
<人は常に見ている>

さて、こうして大失敗を繰り返しながら、
気にはしているのだが、それでも学ばず、
そうして今に至るわけだが、
このサイクルには
私特有のもう一つのステップがある。

失敗の後、私は必ず家康公の、
例のしかみ像の前で項垂れる。

このしかみ像自体が、
こうはならないように!トいう
戒めの絵であるのだけれども、
私のほうな凡人はこれを
何度も、何度も、何度も、何度も、
見つめて反省する機会を繰り返してしまっている。

歴史に学ぶ賢者と、経験に学ぶ愚者、
私はその愚者にすらなれていないのが現実だ。


自分で書いていてなんだか笑ってしまった。




いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。




スポンサーサイト

過去は静かに佇む


Good morning♪ Good morning♪
Good morning 花ちゃん♪
Good morning♪ Good morning♪
How are you ぽっくん♪


こう歌いながら花とそらを見つめると、
二人は歌に合わせるかのように
小さくジャンプしながら
嬉しそうに笑ってくれたものだった、最早遠い日々だ。

「未来は躊躇いながら近づき
現在は矢のように飛び去り、
そして過去は永遠に静かに佇んでいる」

これまで
このシラーの言葉を何度も書いてきたが、
今、漸く、その結びの句を
実感によって理解したように思う。

賑やかで幸福だった日々が
この静寂をより一層際立たせる。

花とそらの小さなお位牌のあるこの情景は、
永遠の、

<静かな佇み>


私の永遠は既に完成し、完結していた。










いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。





特訓


このところ実に気分がいい。
小鳥のさえずりと風の音が心地よく、
人も美しくみえるし、
なにより空の青が綺麗だ。
太宰治っぽく云うと、
その空に舟を浮かべたくなるほどに
気分がいい。

さて、その青空のしたで
私はある特訓をすることにした。
この真夏の屋外、
身を焼く紫外線の照射に晒されながら、
公園のベンチで
模試に挑戦することにしたのだ。

この特訓には2つ(+1)の利点がある。
過酷な状況で模試を行うことにより
本番がより楽になるという点と、
時間ごとに熱射病のリスクが増大してゆくので
嫌でも解答速度があがるという点だ。

試験対策に身体的な鍛錬の要素を組み込んだ、
まったく新しいアプローチといえる。

そしてカッコ内のプラス1は、
この特訓によって得られる満足感と達成感、
これが自信に繋がるとう仕組みで、
ここは心理学的アプローチとなるので、
立体的な新規格と云えよう。
まったく隙の無いこの目論見には
我ながら感動する。
青空に舟を浮かべたいほどに晴れやかな気分だ。


さて、実際の成果はどうであるか、というと、
正直なところエアコンの効いた部屋でじっくり学習したほうが
力はつくと思う。
こういった、少年ジャ○プ的な発想の特訓が
実用的でないのは明らかだし、
そもそも外で模試をするのは恥ずかしい。

しかし、夏の間だけの季節ものなのだから、
今はこの試練を楽しんでくるとしよう。





いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。





立ち止まらぬこと


一日サボるのは一日分後退するのと同じことであります。

立ち止まりは後退を意味しますので、
それを諫めるために
「その場に留まる為には全力で走り続けなければならない」、と、
そんな言葉があるくらいです。
本来この言葉はよく進化の仕組みの説明に使われ…
否、元々はルイス・キャロルの「不思議な国のアリス」からの引用ですが。


立ち止まりは後退を意味すると云いました。
想像してみてください。
ある試験を受けようと、
その項目を烈火の如く勉強したとして、
見事受かったとしましょう。
しかしその後は安心して全く学問しなかったとします。
一ヶ月後に同じ試験を受けて受かりましょうか?

運動で筋骨隆々とした体を作り上げたとします。
しかしその後、怠けて遊び暮らしたら、
一ヶ月でおなかが出てしまうでしょう。

継続だけが、保持をもたらすのです。
帰国子女が、身に付けた言語学を失わないために
なるべく外国人と話す機会をつくるのはこの為です。

私は、一度得た勲章を捨てるつもりはありません。
併しそこには(他のどんなことと同じく)常に代価が発生します。
それが継続の努力です。

物質的な財産には常に滅亡の可能性がありますが、
学問のような精神的財産は
本人が努力を続ける限りは決して消滅しないのです。
地に蓄えた財産はいつか滅びるが、
天に蓄えた財産は決して滅びない、ト、聖書も教えています。

とは云え、私は弱い人間なので常にサボる機会を伺っていますし、
勉強の時間になると、ついつい部屋の掃除を始めたりします。
そんな時こそ、
冒頭にあげた言葉で自らを平手打ちするのです。

「その場に留まる為には全力で走り続けなければならない。」





いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。


熊谷直実


有名な一ノ谷に於いて敦盛を討って後、
熊谷直実は法然のもとで出家を果たした。

自分の息子と同年代の敦盛を討ったという事実が
決定打となり出家を決意したそうだが、
そうなるまでには様々な艱難辛苦があり
その果てでの出家だったに違いない。
過冷却の実験を思い出す。

この世はもう、実に無常で、
何もかもが絶えず変化し続けている。
行く川のながれは絶えずしてしかも本の水にあらず、とは、
本当によく云ったものだ。
いつまでもこの倖せが続けばいい、といくら願っても、
決してそうはならないし、
淀みに浮かんでは消える泡のように
命は常に去り行くのみだ。

あの時代の武者と現代の私を決して同列には語れないが、
人の世との交わりを絶ってしまいたい思いは
多少なりともわかる気がする。

併し、この無常というものが世の本質であるのならば、
私たちは決してそこから逃げることは出来ないのだろうし、
こうやって真の人生を知ってゆくのだと思う。
漸くその事実に気付いた今だから、
まだまだ人生はこれからだな、とも思う。
いずれにせよ、
私は直実ほど戦っているわけではないので
出家して人を救う立場に転身する資格もないのだから、
矢張りこの現状で生きてゆくしかない。
この先強くなれるかどうかは、自分次第だ。




いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。

ああ我が戦友


「ああ我が戦友」という古い歌がある。

蕭々とした荒野を思わせる一文から始まり、
友の戦死に際し、
死んだら互いの故郷へ知らせたの手紙を書く約束から、
どう筆を運べばよいのか、ト、悩む過程を経て、
遂に手紙を書きあげた後の、最後の一文で完結する。
私が今回紹介したいのは、この締めの一文である。

涙で書いたこの手紙 涙で読んで笑うだろう 
君の母君妹御も やっぱり大和の女郎花(おみなえし)


前回、「手巾」の母親の話に引用した一文は、
ここからきている。
本来、日本の女性とは、
この様に高潔で誇り高く、
まこと、尊いものである。






いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。

ハンカチ


先日何気なくテレビをつけていたら、
脳死と判定された子供の臓器が
他の子供へ移植されることになった、
ト、伝えるニュースを目にした。

会見で、ドナーの母親が、臓器提供へと至った経緯や
思いなどを話しておられたが、
その様子があまりにも淡々としていたので
私は少々の違和感をおぼえた。

子供の死という、
自分たちの身にかかった
おそらくこの世で考えられる最も過酷な運命のなか、
母親のその冷静な態度は
現実認識に至るまでのショック状態にあるようにも見えたが、
しかし、言葉の端々には
悲しみを無理に噛み殺しているような
発声の詰まりがあるようにも感じられた。

それからなにか釈然としないまま
数日を過ごしたが、
ある時、何かのきっかけで突然、凡てがわかった。
あっと声をあげるほどであった。
あの母親は、芥川龍之介の「手巾」だったのだ!

闘病の末に亡くなった息子の死を
その恩師である大学教授に報告する母親。
平然とし、微笑みすら浮かべているかのような
母親の態度に違和感を持った教授であったが、
ふとしたことから、
この母親の手がテーブルの下でハンカチを握って
引き裂かんばかりに震えているのを目にする。

これが「手巾」のあらすじであるが、
あのニュースでの会見は
まさにこれではなかったのか?
母親は、冷静を装ってはいたが、
実は全身で泣いていたのではなかったのか?
取り乱すことを恥とする
古来よりの日本の武士道精神が、
あの時、あの会見で、
母親にあのような態度を取らせたのではなかったのか?…

昔気質の美しい日本人はもういない、とよく云われる。
併し本当にそうだろうか?
表向きは現代人であっても、
やっぱり私たち日本人の精神の根底には
美しく誇り高い武士道精神が生きているのではないだろうか。
その現出が、
あの会見でのあの母親ではなかろうか、ト、
私は感ずる。

やっぱり大和の女郎花、である。
その高潔な姿には涙を禁じえない。






いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。

永遠を実現するヒント


ある小説での話。
愛する女性の美しい姿が損なわれた時、
男は自らの目を潰してその美を永遠のものとしました。

肉眼で知覚する外見的な美を保持する為に
自らの視覚を封じたその行為は実に合理的と云えます。
そして実際に美が永遠化された、
つまり、この理論が現実的である以上、
私がかつて、一度は不可能と決めつけた「永遠」というものに、
実現の可能性が見えてきたのです。

今は、暗闇の中の一点の光のような可能性ですが、
これには必ず応用できる手段があるはずです。

今は朧気でよく見極められません。



いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。

現実の痕跡


花とそらの写真を見るたび、
その輝くような生命の眩しさに
私は思わず頬を緩ませる。

その表情は、
今の倖せを謳歌する喜びと
純粋な生きる意志に満ちていて、
あまりにも鮮明な現実の痕跡に
私は改めて
損失を実感するのだ。

私はこの記憶にすがって生きてゆく。

写真のみせるその美しい生命の美は
ゆっくりと私の胸に流れ込んできて、
明日を生きる活力となる。







いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。




時間薬


私にとっての最も心強い希望は
「時間薬」という言葉であった。
これを知っていたからこそ、
歯の喰いしばりを以て、艱難の日々を耐え抜く事が出来た。
実体験から確信を以て云えるが、
時間は必ず、どんな悲しみをも癒してくれる。

時間薬の最も優れた、そして最大の特徴は、
何もする必要がない、ということだ。
時間とは勝手に進むもの。
時とは経つものなのだ。
ごく自然に朝日は昇り、
夕陽は自ずから沈んでゆく。

私たちは今ではなく、
その先に視点を置かなければならない。
悲しみを乗り越えたところには、
新しい人生が待っていて、
苦しんだぶんだけの、倖せがあるからだ。






いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。

| はなそらDAYz!ホーム | 次ページ