翻訳文を楽しむ


文学を本当に理解するためには原文で読む必要があります。
その言葉に含まれた絶妙のニュアンスがわかれば
自ずと意味が変わってくるわけですから
及ぼす影響についてもより深く理解することになります。
又、何気なく読み飛ばすような位置の一文に
さりげなく重大な意味が込められていることだってあるかも知れませんから、
そこを見逃すのは
背景を知らないままにゲルニカを鑑賞するのと一緒です。

sora tang2 そら「利休のお茶碗で綾鷹を飲んだ、みたいなでしゅか?」

なんかちょっと違いますね(笑


言葉の裏にある文化、そこから生じる慣習や不文律、
その国の教養の根底を成すある種の学問、

HANAsmile03SEP09.jpg 花「日本だと漢文の知識じゃの。鴎外の文章が簡にして潔なのは漢文の素養のうえにあるものだし、漱石やのぼさんだって子供の頃から漢文の素読を徹底的にやってきた人たちだから云々云々、そもそも四書五経なんて昔は当たりまえに云々あれこれ・・・」

SORA smile 11AUG09 028 そら「そ・・・それでしゅよ!それ!💦」


母国語の文学だって全てを理解するのは難しいのですから
訳文を読むのは、ただ表面を撫でているだけにすぎないのです・・・
と言うのは言い過ぎって気もしますが、
金の林檎をそれと気づかないで
3時のおやつで食べちゃった、的なものでしょうか。

hana ordinary 花「まぁ、学者でもなけりゃ、気楽に読めばいんじゃね?」

確かにそうなんですけどね・・・
私が言いたいのはこういうことです。

たとえば、川端康成を英語で読んで
あの文章の美しさを感ずることが出来るでしょうか。
無理です。
もしも出来るという人がいれば、その人はきっと、
無意識のうちに英語を日本語に訳し直して、
いわば逆輸入の形で
川端康成の原文を再現しているのでそう思うのでしょう。
原文で読む重要性は、多くの人が指摘している通りなんです。
私は文章の美しさを語りたいのです。

コピー ~ 05FEB09 039 SORA iyadeshu そら「落ち着いてくだしゃい!」


私は独逸語が出来ません。
露西亜語も無理です。
上記の理論でいくと、
私はゲーテやドストエフスキーを原文では読めないので
本当の理解には至っていないことになります。
それは本当に悔しいところで、ゲーテなんておそらく、
いろんな繊細なニュアンスを駆使して
工夫に工夫を重ねた花束を作りあげているのでしょうけども、
私の受け取る花束は、
フリーズドライだかの保存技術が加えられたもので、
もはや生ものとは程遠い物となっているのかも知れません。

いや、こういう云い方だと、
苦心を重ねて翻訳している翻訳家の先生方に申し訳ないような気もします。
「うぅむ、ゲーテのこの素晴らしい言葉を
どうやって日本の人たちに伝えたら良いのだろう。」
この言葉も違う、これもしっくりこない、
そんな葛藤を繰り返しながら苦心する翻訳家の姿が目に浮かんできました。

05FEB09 039 SORA iyadeshu そら「翻訳家しゃんに謝るがいいでしゅ!」


「ヴェルテルのこの言葉は、直訳すると実に味気なくなってしまう。
えぇい!意味を伝えるには・・・感動を伝えるにはどうしたらいいんじゃ!」
翻訳家はきっと、こうやって如何に意味を伝えるかに苦心していることでしょう。
そこで夏目漱石の「月が綺麗ですね」になるわけですが、
こうなってくると、最早翻訳家は既に翻訳家ではなく、
純然たる作家となってくるわけです。

HANAsmile03SEP09.jpg 花「なんかエライことになってきたがな。」


こうして原文は、翻訳家という名の作家の手を経て、
共同執筆に近い合作という全く別の文学に生まれ変わるのです。
したがいまして、
翻訳文学の完成度はそれを伝える者の器量に大きく委ねられることとなり、
元は一つの文学であるはずのものが、
多くのバリエーションを持つこととなるのです。
最近だと、カラマーゾフの兄弟の兄弟が有名です。

こう考えると、そのカラマーゾフひとつとっても、
難解な鋼鉄の文章と、亀山訳のように親しみやすい文章と、
選択の幅で出来る訳なので、
私達読者にとっては非常に有難い話となります。
正に昨今の消費社会ではありませんが、
市場に商品が溢れ、私たちは選ぶ楽しさや
多様性を楽しむことが出来るわけで、
こうなってくると最早、真の理解うんぬんはどうでもよくなってきます。

hana ordinary 花「どうでもようなりよりよったwww」


むしろ、翻訳家による様々な解釈や云い回しの違いを楽しめる
翻訳文のほうが娯楽性が高いような気さえしてきます。

原文が読めないからと落胆する必要はありません。
原理主義が常に正しいとは限りません。
私達は、無理せず手の届く範囲で
多様性を楽しむことにしましょう。

sora mumu そら「ラジャーでしゅ!」

hana face1 花「結局いつも通り、よう意味がわからんかったの。」






いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。
スポンサーサイト

マヤ・アンジェロウ


このところ疲れがピークで
危うく挫けそうになりながらも
どうにかやってきた。

たまりにたまった有給休暇を使いたいところだが
状況がそれを許さないので勤務せざるをえない。
体調不良を訴えて一日くらい休もうかとも考えたが
それをやると仕事が前に進まないので
結果として墓穴を掘る事になる。
それに加えて、甘えは癖になるので
ここで悪癖を作ればその後の人生は
堕落してより困難なものとなろう。
とにかく!
やるしかないなら、やるしかないのだ。

それでも腹をくくれない。

さて、そんな時、GOOGLEのトップページに
黒人女性のイラストがあるのを目にした。
その日にちなんだ人物のイラストをクリックすると
関連する情報のサイトが表示されるという、
単調な毎日へ加えられた
ちょっとしたスパイス的なサービスなわけだが、
その時は何故か気になってその人物を調べてみた。
マヤ・アンジェロウ、なるほど、聞いたことはある。

どんな方か知るには、
残した言葉を読むのが一番だ。
Quoteを何気なく読んでいたのだが、
そのうち段々と前のめりになってきて
いつしか姿勢が真っ直ぐに
正されていることに気付いた。
そして、(これは最後に紹介するが)
決定的なあるフレーズが私を硬直させた。

この人をもっと知りたい…!
焦る心を抑えきなくなっていた。
私は救いを求めていたのだ。

なんとこの人は苦労に苦労を重ね
それでも負けず、踏み外さず、
懸命に生きてこられたのか。

それが率直な感想だった。
少しの言葉にも関わらず、
人生の艱難辛苦が伝わってくる。
本当の苦難を味わった者のみが紡げる言葉、
そこにある真実を確信した。

少々大げさに聞こえるかも知れないが、
私が受けた衝撃は、まさに落雷の衝撃だった。
脳天に落ちた雷が背骨を通って五臓六腑を焼き
両足から大地へ抜けてゆく衝撃。
そのショックにより姿勢は真っ直ぐに正され
寝ぼけていた頭も清明に晴れて、
両目爛々と輝く精気。
もちろん、これを実演してしまうと
甚だ怪しい人物になってしまうので
見た目は静かにPCモニターに向かっているだけであるが、
内面では、大気を引き裂く雷鳴に
一瞬にして全てが引き締まっていたのだ。

では最後に、甘えという悪魔に背を引っ張られていた私を
こちら側に引き戻してくれた言葉を紹介して締めとしよう。

We may encounter many defeats but we must not be defeated.
多くの敗北を味わうかもしれない、
しかし、負けてはならない


maya 002





* must not というところに、尊く高潔な意志を感じます。






いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。

美学


美学とは人生に張り合いを与えるもので、
なりたい自分を目指して
実際そうなるという、ある意味、
身近でしかも手軽に叶う夢として
実に重宝する。

私は現在、所定の勤務時間を大幅にオーバーし、
休日だ何だとそんなものが眼中に入らないくらいに
勤務に集中している。

課せられた仕事はこなすし、
任ぜられた役割は果たす。
必ずやり遂げる。

これは責任感などという尊いものでは決してなく、
単なる自分の美学なのであるのだが
ここが厄介であり楽しいところだ。

美学は騙すことが出来ないし、
誤魔化すことも出来ない。
まぁ、そもそもそんなものがあれば
それは美学とは云わない訳だが、
兎に角、私はやる。

夏目漱石ではないが、現実こそが真実、
やった結果のみに価値があり、
汗と涙と血の滲みの結晶にこそ
私の追及する美がある。

そして、その先には、
また新しい
より高位の自分が現出するトいう訳だ。

満足しながら成長できる。
美学というものは、実に重宝だ。





いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。

休む


前回述べたが、
私は休むことが苦手だ。

休日は勉強をすることによって
仕事に対する不安を解消する。
これだけやったのだからきっと次は上手くいく!
この安心が欲しいのだ。
その為には勉強あるのみ、なのである。

さてそんな私であるけども、
ある時、オンオフ切替論を人に勧められ、
一日ぼんやりと過ごそう、ト、決心した日があった。

ちょうど天気も良い。
昼前で気温も上がってきたし
陽はさんさんと心地よい。
洗濯物も凡て美しく調和を以て干した。
すわ、今日こそ!と、私は公園へ出かけた。

さてベンチに座ってみたが、
ぼんやりと過ごすというのは
意外と難しい。

休むときには何も考えてはいけないらしいので
何も考えずにベンチに座っていようと思ったのだが、
この何も考えないトいうのが
実は極めて困難なのだ。

30秒くらいは耐えたが、
そのうちどうにもならなくなった。
周囲を見回すと
子犬を連れた老夫婦が歩いている。
子犬が愛らしく、しばらく眺めていたが、
そのうち飽きてしまったので、
仕方ないから瞑想した。
それにもすぐ飽きて目を開けると、
先程の老夫婦が目の前の土手に
腰をおろして何やら話し込んでいる様子だ。

私は紳士なので他人の話を盗み聞きする趣味はなく、
今度は注意を別の人に向けた。

段ボールに乗って土手を滑り降りる子ども、
それを撮影する親、
バトミントンに興じる親子、
上空を飛ぶSH-60、
ヒヨドリのさえずり・・ 雄たけび、
カタツムリ枝にはい神、天にしろしめす…
7~8分が経過した。

これまでの時間、これから帰る時間、
これらの間にアレが出来た、コレが出来た、
そう考え始めたら段々とうずうずし始め、
私は結局帰宅して勉強したが、
その方がリラックス出来た。

何かやってないと落ち着かないというのは
ある意味損なようで
実は幸せなことであるが、
まぁ、人には向き不向きがあるということだ。



いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。

切り替え


オンとオフの切り替えは大事
休む時はしっかり休む


これらは、まぁ、よく云われることで、
その重要性を説明されれば、なるほど、と思うし、
確かに出来る人というのは周囲を見ても、
休む時にはしっかり休んでいるように思う。

併し私にはこれが出来ない。

かかしと云われても出来ない。
その休んで遊んでいる時間が勿体ないのだ。
仕事に役立つ勉強をしていたほうが
余程に有意義だし、そもそも学問というのは
毎日の積み重ねなのだから、
休む訳にはいかない。

休めば休み癖がつく恐れがある。
休めば学べるはずだったものを
学べなくなる。

その場に留まる為には全力で走り続けなければならない、という
赤の女王理論に従うなら、
休めば一歩後退どころか、ベルトコンベアに乗って
みるみるうちに見えなくなってしまうだろう。

なんという恐怖!

などと考えていると、
もう居ても立っても居られなくなり、
要するに臆病なので
勉強せずにはいられなくなるのです。
勉強していないほうがストレスが溜まるというのですから、
いやはや、休むなどとんでもない。
勉強が私のストレス解消法であり
不安を取り除く安心の妙薬だったのです。

気が小さくて、良いこともあるのですね。



いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。

冬の朝


快晴の真冬の空は澄み渡り
一片の雲すらない。

輝く青の空というのは
どんな印象派にも再現不可能ではなかろうか。
それほどに美しく、神の荘厳すら感ずる。

寒さに心地よさを感ずる花とそらにとって、
晴れた冬の日はどんなに心地よかったろう。
私は今、この静かな家の中で
あの子らがいた日々を思う。

空はただ何も云わず
頭上にひろがり、
私たちを見守るのみだ。



いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。


かんなみ仏の里美術館


先日、約二か月ぶりに伊豆へ行った。

伊豆はドライブには程よい距離にあり、
よく思い付きでふらふらと出かける。
そんな調子なので、
道中で目的地を決めることも多々あるのだが、
今回は以前から考えていた
「かんなみ仏の里美術館」へ真っ直ぐに向かった。
私には珍しく、
確信に満ちた足取りのドライブであった。

さて、どうやら到着した。
道中多く設置された看板からは
所謂おもてなしの温もりが感ぜられる。
私はもう、入館前からその心地よい雰囲気に
うきうきとしてしまう始末で、
然しこれは決して根拠のないことではなく、
人と人との繋がりの深いコミュニティーに
今まさに参加しようとする
確かな予感からきたものであったように思う。

果たして的中した。
ボランティアガイドさんの丁寧な解説は
非常に丁寧で
そのわかりやすく順序立てられた説明は
聞き手のことを考えた思いやりに満ちたものであった。
又、ずっと地元で大切にされてきた仏像群と
それに関する歴史を
ビジターによりよく理解してほしいという
気持ちも伝わってきて、
その真摯な姿と共に
私の心を強く打つものであった。

こうして私は、
ガイドさんの解説だけですっかり満足してしまった。

美術館に来たにもかかわらず、
展示品の鑑賞に移る前に
解説だけで十分すぎるほどに満たされてしまったのだ。
そして、
精神交流から生ずる美こそに真の文化的価値があるのだ、
などと、おかしな説を唱えて、
一人で、うむ、などと頷きながら
妙な感動にうっとりと陶酔した。

さて、ガイドさんの解説に
以前紹介した八重姫のお話がでた。

少しこの地を離れれば
知っているひとは少ないであろうお話だけども、
ここ中伊豆では
皆さんが知る昔話として語られていることは
ガイドさんの口調からわかる。

あの時梯子があったならば
そう考えて
供養の為に梯子を持ち寄る人々姿は、
悲しいけども純朴で美しい。

こういった善男善女の暮らす
静謐な山峡の小さな集落で、
1000年もの間
受け継がれてきた清らかな信仰。

その一端に少しでも触れることができたこの一日。
出会いと交流と驚きと清廉に、
私は深く感謝したい。




いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。

真珠院にて


修善寺での帰り道、
少々時間が早かったので
前から行きたかったお寺に立ち寄りました。

真珠院、という曹洞宗のこちらのお寺には、
八重姫という平安期の
悲しい姫様を祀るお堂があり、
私は思うところあって、
お参りさせていただこうと思いつつも、
なかなか実現しなくって
この日に至っていたのでした。

実在の方の悲劇を物語るのは
非常に気が引けるので簡単に記しますが、
八重姫とは、源頼朝公との悲しい恋の末に
入水なされた伊東家の姫様で
それはそれはお美しい方だったという
伝説が残っています。

夕刻の日が落ちた薄闇、
静謐な趣のなかに
ひっそりとお堂は佇んでおりました。
傍らには、ミニチュアの梯子が
たくさん立てかけてあります。

この梯子に
私は思わず目頭が熱くなりました。

これこそ、
八重姫様が愛されていた証で、
姫様の死が如何に
世の人々の心を痛めたかを
雄弁に語る生きた証拠なのです。

梯子は、姫をお救いしたかった、
という人々の心が形となったものでした。
姫の入水の川は今はもう流れが変わっていますが
当時は深い淵だったそうです。
その場に、せめて梯子があれば、
沈みゆく姫をお救いできたかも知れない…
そういった人々の思いが昇華し、
こうして梯子をお供えするのが
いつしかの流れとなっていったのだそうです。
私はこの悲しくも美しい伝説に
人々の素朴な誠実を見るのです。

1000年の時が経ち、
今は願事成就のお供えと
その意味は変わりましたけども、
それでもかつての痕跡が
こうして残っていることに、
人の世の尊さを感じます。

見上げた先には
真珠院という場所から見るに相応しい
美しい月がそっと浮かんでおりました。


29DEC17 SHUZENJI 024





いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。

修善寺にて(後編)


修善寺宝物館、
そこで私が目にしたのは・・・

なんと、北条政子様の直筆の書でした。
世にどれだけ政子様の書が残っているかは知りませんが、
なにしろ平安期~鎌倉幕府の時代の人です、
相当に貴重なのではないでしょうか。
そういった時代的な要素もあるのですけども、
私がいたく感動したのは!
その書がッ!
政子様直筆というこの事実!
そこに筆をとった政子様が在り、
実際に記されたというこの歴史!
そこなのです!

興奮して少々JoJo風になってしまいましたが、
なにしろこの時は書を前にして
動悸と興奮と手足の震えに
卒倒しそうになったのは大げさでない事実です。

よろめきながら歩を進めてゆくと、
ガハッ!
次は吐血するほどの衝撃に
全身を硬直させることとなったのです。
落雷の直撃と迎え放電で
筋肉という筋肉が痙攣し、その後の硬直から
筋繊維一本一本が解放されて塵と化し、
もはや私の肉体は消滅して
森羅万象と一体化するほどのインパクトでした。
私は人を超えていたのです。

なんと、そこには、仏像の体内に収められた
(おそらく)政子様のものと思われる
3束の黒髪が展示してあったのですよ。

1000年前のものとは思えないほどの、
黒く濡れた艶々しい髪は
まさに、まさに、
日本最高の女傑というに相応しい
神々しいほどの輝きを放っており、
正直なところ、私はもう、その御威光に
呆然と立ち尽くすしかなかったのです。
こういった感動を文字で表そうとすると
実に陳腐になってしまいがちですが、
言葉がないとは正にこのことでした。

更にこの次、伊勢新九郎(北条早雲)が
討ち死にした武者を供養する為に
血で記したという経文を見るに至り、
私は最早、ヒーハーヒーハーと、
ダースベイダーのような呼吸をするのがやっとで、
ほとんどもう、半死半生の状態で
宝物館を後にしたのでした。

あれほどの衝撃を受けたのは
実に久しぶりでした。
矢張り、人生とは素晴らしいものです。
一歩の先に
どんな驚きが待っているかわかりません。



いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。

修善寺にて


年末、ふらりと修善寺へ行った。

この地は、頼朝公嫡男の流刑地であり、
更に漱石大患の地でもあるので
少々イメージは良くないかもしれないが、
されど、その景色は何とも風流で美しい。
山間に現出した小京都の
更に縮小版といった趣だ。

文化的な美だけでなく
自然科学的な美もまた、素晴らしい。
周囲を見渡すと、
いかにも若い火山群といった
急峻な山々の間を
澄んだ川が浸食も深く走り、
その川底には分厚い溶岩の岩盤が
肌の一部を見せていて
地球の神秘を伺わせているのだ。
伊豆は地質学の大地!

などと無作法にはしゃぎながら
辺りを散策した訳だが、
私の如き野暮であっても
風流を解するふりだけでもしたいので、
気取りながら修善寺へと足を運んだ。

お参りをすませ、
敷地内の宝物館を見学することにした。
中国の古い仏像が展示してあるらしい。
期間物なので、この機を逃すのは痛い。
限定品好きな日本人としては
見学しなければならないだろう。

さて、中はこじんまりと心地よい。
他に人もいないので
ゆっくりとこの世界に浸れそうだ。
心は澄んでいる。落ち着いている。
あの年末の喧騒が嘘のようだ。

展示の仏像群は、
なるほど貴重と云われるだけあって実に見事だ。
一言で云うと、静謐。
千年以上、中国から日本へ、
長い時間と長い道程の間で
この深く静かな瞳は、
一体どれだけの人々の祈りを
受けとめてきたのか。

さて、こうして歩を進めてゆくうち、
私はとんでもない品を目にすることになった。
驚愕天地とはこのことな訳だが、
少し長くなったので次回にしよう。
正直、腰を抜かすほどでした。




いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。

| はなそらDAYz!ホーム | 次ページ