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新九郎譚 「You are my son」


さて、我らが新九郎君は
いつも悪い事ばかりしている訳ではありません。

常識がないとか無鉄砲とか、
まるで伊予松山あたりに赴任した
例の教師のように云われていますけども、
いいところだってあるんです。

あれでなかなか義侠心があって
たまにそれを発揮することもあり、
人助けに首を突っ込む事だってあるくらいです。
勿論、常に全力、猪突猛進なので
良かれと思って行ったことが
どう結果に結びつくかは
神のみぞ知るといったところですが、
手抜きというものがないだけに
その行動には人の心に訴える力があると、
私はそう信じています。

今日は、
新九郎君のこんな話をしましょう。

先日、
新九郎君の10年来の親友(米人)が離婚の危機を迎え、
相手方(日本人女性)のご家族と
話し合いをすることになりました。
話をしっかり理解したいというご家族の希望があり、
第三者の通訳が必要ということで、
新九郎君に白羽の矢が立った訳ですが、
よく知った仲の、それも特別に気の合う友人の
離婚ということで…

いつもエネルギッシュな新九郎君が
なんだかボンヤリとしていたのを
私はよく覚えています。

こういった話し合いに於いては、
中に立つ者は双方の感情を
まともに受ける訳ですから、
その心的負担というのは想像以上です。
私にも経験がありますけども、
美しい海を汚す流出した重油のように
感情のぶつかり合いは
精神を荒々しく汚染します。
深淵も又等しくこちらを見返すに近い理屈です。

しかも良く知った者の関係なのですから
その負担ははかり知れないでしょう。

さて、話し合いの内容については
決して明かされることはありませんでしたけども、
その後の新九郎君の様子から
決して呑気ではすまされないものと伺えました。

しかしその長い、数時間に及んだ話し合いの中で、
一瞬だけ、
破壊され、廃墟となった町の片隅に
ひっそりと咲いた一輪の花のような
美しい場面があった、と、
傷心の新九郎君が
以下の如くに語ってくれました。

話し合いもいよいよ終盤となった際のことです。
離婚という言葉が皆の心を支配し
最悪の結末を予感しつつ、押し黙る中、
日本人妻方のお母さまが一言、
こうおっしゃったのだそうです。

「これからも私達はあなたを息子だと思っています。
あなたは私たちの息子よ。」

新九郎君は役割から一瞬通訳しそうになりましたが、
然し咄嗟に思いとどまり、通訳しなかったそうです。
何故なら、
言葉は訳せても気持ちまでは訳せないからです。
ここでは明らかに、伝えようとしているのは心です。
「お母さま、それは直接彼に云ってあげて下さい。」

「あなたは私達の息子よ、わかる?
 You are my son. You are my son. 」

気持ちは確かに伝わったようでした。
この言葉に顔を紅潮させて涙を流す彼に、
新九郎君は、
嵐の後で漸く差した陽射しを見た気がしたそうです。

今回のお話はここまでです。




いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。
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読書


私の毎日は読書と共にある。
書は師であり友であり、私自身であり、
欠かすことの出来ない暇つぶしの道具でもあったり、
現実を押し付けてくるおせっかいな存在で、
同時に現実から逃避させてくれる救いでもある。
要するに、
なくてはならない人生の伴侶だ。

ハムレットにオフィーリア、
藺相如と廉頗、
助さんといえば格さん、といったほどの
切っても切り離せない存在、それが書だ。
これだけ言っても、まだ言い足りない。

さて、ここ数か月の疲労困憊の日々に
どうにも気分がすぐれなかった。
自分の能力に疑問が生じ
自信の根底が揺らぐ事態が続いた。
こんな時は三島由紀夫だ。
三島由紀夫の格調高い文章を読めば
なんだか自分が優秀であると錯覚できるので
きっと調子も戻るだろうと画策し、
すわ!と一冊取ってみたが、
なんと、拡張が高すぎて
読み進む気力が続かない。

よかろう、ならば、と、
今度は川端康成を手にした。
川端康成の静かな文章に浸りたい、などと
ある種、泣く子が母親に甘えるような姿勢で本を開いた。
淡々とした刺激のない、淡い色彩の美しい風景がひろがる。
人々は誠実に、懸命に生きている。
史記などには決して登場することのない
名もなき市井の人々。
一人ひとりに感情があり、思いがあり、人生があって、
そのひたむきな姿は私に勇気を与えてくれる。
登場人物の上品な言葉遣いも大きなポイントだ。

なるほど、今風の表現をかりれば、これは癒しの文章だ。
早朝の澄んだ森林に漂う霧のような清々しさだ。
今更ながら、回復の書を発見した。




読んでくださった方、ありがとうございます。


写経 後半


さぁ、いよいよ後半である。
前半は文字の大きさの調整に難儀した。
後半は前の行と見比べながらなので
文字のサイズには微調整がきいてくる。
上から下まで(ほぼ)同じサイズの文字が
(だいたい)整然と並び、
一行に(概ね)美しくおさまっている。
この時点で最大の問題は解決している。
(かのように見えなくもない)

さて後半。
後半は後半で実は深刻な問題がある。
苦手な漢字が集中しているのだ。
「夢」「呪」「等」「能」
これらはいずれもバランスが難しい。
「密」「羅」などはバランスが取りやすく、
悪筆の私でもそれなりの見栄えなのだが、
先に挙げた漢字はバランスを取るのが極めて困難で
複雑で厄介だ。
もう、どう練習しても、ダメだ。
そういえば、前半で頻出する
「苦」「菩」などの、ひし形に収める漢字も苦手だ。
結局、どこへいっても苦手な漢字があるようだ。

こうして最後の真言、
羯諦羯諦~にはいってゆくのだが、
このころはもうふっきれていて
字体やバランスにはこだわらなくなる。
のびのびを書けているのが自分でもわかり、
文字も悠々ハツラツとし、楽しい気分にさえなる。
自然、止めや払いに余計な力も入らず
結果として、なんだかそれっぽく見える出来になる。
真言は、書くのもリズミカルだ。

こうして私の写経は出来上がる。

供養のためにはじめたものであるが、
ただ続けることが今では楽しくなってきた。



読んでくださった方、ありがとうございます。





写経 前半


写経が上手くいかない。
既に500枚近く書いてきたのだが、
未だに
字の大きさがうまくいかない。

一行の文字数は決まっている。
きっちり17文字だ。
行の最初から始めて
きっちり17文字。
最後の文字の下に隙間が出来てはならない。
また、スペースが足りなくなって
最後の3文字などが極端に小さくなってもならない。
同じ大きさで同じ間隔、整然としていなければならぬ。

然し、である。
先にも述べたがこれには相当の修練を要するようで、
私などは500枚近くも書き上げていならがら
未だに文字のサイズ調整に難儀している。
最初の一行など、常に、いつも、年がら年中、
開けても暮れても、絶対に何故か、
スペースが足りなくなる。

気が付いた時にはどん詰まりが目前なので、
畢竟、最後の3文字は極端に小さくなる。
バランスが悪いし、何より美しくない。
稚拙で未熟、
他愛もない子供っぽさだ。

二行目にすすむ。
一行目を見ながら、今度は文字を若干小さくする。
一行目の最後にスペースが足りなくなった反省を踏まえ、
間隔で文字のサイズを調整しながら進めてゆくのだが、
ここで大きな障害が生ずる。
「一」という一文字だ。

これは難しい。
ただの横に一本の線が、この文字だ。
書くのはいいだろう。
多少弓なりにしながら、力強く左から右へ。
最後はぐっと踏み込んで終了。
立派な「一」の完成だ。
ところがである。
なまじ単純であるがために、
なんと、この文字は上下の幅をとらない。
今、問題の焦点は
一行の中に如何に17文字をバランスよく収めるか、であるので、
上下の幅を取らない文字がそこに入ると
全体のバランスが崩れてしまうのだ。
要するに、「一」を含む一行は、
他の16文字が多少大きくても
行の最後でスペースが足りなくなることがなくなる。

では、「一」とその前後の文字の間隔を大きくとればよかろう、と
指摘してくださる諸兄もいらっしゃるだろう。
ところが、その調整が微妙で難しい。
私が如何に、進歩とは遠い存在かがわかる。

三行目にかかる。
前の行の文字サイズを参考にしながら進めるのだが、
そうすると又、二行目の「一」が問題になる。
「一」とその横にくる「是」では
縦のサイズが全く違うので、
どうしても「是」のほうが長くなってしまう。
横一列にがそろわないのだ。
これはもう、見えないマス目を書いて調整するしかないのだが、
感覚で生きている私に
そんな器用なことは不可能だ。

こうして様々な問題を抱えながら、
いよいよ後半に突入していくわけだが、
少々長くなったので
今回はこのへんにしておこう。



読んでくださった方、ありがとうございます。

うた



前回、見知らぬ誰かがインターネットに掲載した
廃校の写真の数々と、
朽ちてゆく教室の黒板に記された
ある素晴らしい歌について語った。

改めて、日本の文字文学の素晴らしさに感動した。

流れゆく悠久の時の中で朽ちてゆく母校、
それを現在というポイントに立って見つめている自分。


例の歌は、
決められた文字数で心情を見事に表現していた訳だが
和歌の素晴らしいのはここなのだ。
無駄な装飾が一切なく、必要最低限の言葉で以て、
決められたルールの中で最も効果的に思いを表現する。

まぁ、和歌に限らず俳句や川柳も同じだ。
制限の中で、如何に言葉を選んで、抑揚を工夫し、
己の心情を表現するのか。
これはある種、
ゲームや遊びに通ずるとも考えられるので
気楽で楽しい文学ともなるのだ。
例のお茶商品の川柳など、皆さん楽しんでいて
実に微笑ましい。

こう云うとなんだか
決まりにこだわっているようだが、
これは決して自由律の句を否定している訳ではない。
尾崎放哉のように
心情をそのまま何の細工もなく表現するのも
芸術の極みの一つであるし、
そこに規制がないぶん
かえって自然がそのまま自然というか、
これはもう別のジャンルといって良いくらいなのだから
こちらはこちらで、また、美しい。

私は派手な装飾を好かない。
お金と言葉は無駄に使うな、トいった意味合いの言葉があるが、
シンプル且つ内容の充実したものが
最も美しいと思うし、
そこに文学の極みがあるとも思う。

ちなみに前述の言葉は中国のものであるが、
中国の歌も又、素晴らしい。
漢詩の美しさは芸術であるし、
その技法や平仄に則った整然、しかも、
雄大で且つ繊細な美しさ。
こういった文字文学は世界共通で美しいと思う。
漢詩を読むと一献かたむけたくなるのも、また愉快だ。

しかし私が最も好きな漢詩は
実は怒りの作品である。
所属する組織と決別する際、
己の怒りを漢詩に込めて
壁に殴り書きにして去ってゆく士が
中国の物語にはよく登場するが、
私のような俗人には
その姿がとても崇高に見えて眩しく、
ある種、ヒーローを見上げる少年のような心境になる。

何の話だったのか、かなり本筋から逸れてしまった。
黒板の和歌にもどろう。

作者不詳、山奥の廃墟にひっそりと綴られた
美しい人の痕跡。
血脈の通ずる言葉。

これが達人の作であることは最早疑う余地もなく、
私はただただ、心底、いたって感動してしまい、
在野の賢人とは実在するものなのだなぁ、などと、
膝を打ってうんうんと何度も頷いたのでした。



読んでくださった方、ありがとうございました。

廃校 後編


廃校の撮影者、鑑賞する私、
そこに現れた第三者。
この第三者こそが、実は今回の主役であり、
私がお伝えしたかった最も重要な存在である。

私はインターネットに掲載された
名も知らぬ誰かが撮影した廃校の写真を見ている。
前回、芸術という形を以てお互いの感性が共感したと書いたが、
現実には私の一方通行な思いでしかないので、
他者の干渉それ自体が起こりえないはずだ。

しかし、起きた。
その第三者はそれほどの衝撃だった。
廃校内部を進んでゆく撮影者が
ある教室へ足を踏み入れた時、
黒板に残されていた
その第三者の残したある痕跡。
静止した時の中に
見えない波紋を発し続けているかのような、
朧げでありながら判然と綴られた文字。
私はその時、はっきりとこの問題の第三者と
対面していたのだ。

朽ち果てて悲しからずや我が母校
窓辺 滅(数文字判別不可) 悠久の河


なんという和歌だろう。
見事な表現だと、先ずはハッと感嘆する。
それから胸に流れ込んでくる
この方の寂寥感というか、悲しい思いに、
今度は息がつまりそうになる。
朽ち果ててしまって悲しくはないのだろうか、ト、
疑問形であるが、明らかに悲しみを肯定している。
下の句が一部判別不能なのが惜しまれるが、
窓辺を流れる時間という悠久の河は滅ぶことはない、
トいった内容なのだろうか。

この黒板の和歌を実際に目にした瞬間の
撮影者の驚きと感動が伝わってくる。
出会いの際、撮影者と和歌の作者との間に、
どんな無言の対話があったのだろう。・・・
そんなことを考えながら、また何度も読みかえした。
私たち三人は、静かに盃をかたむけた。

この黒板に記された
人の心の欠片も又、
朽ちてゆく運命からは逃れられない。



読んでくださった方、ありがとうございます。


廃校 前編


最近のネット社会というのは便利なもので、
見ず知らずの他人様が掲載した
冒険の写真などを楽しむことも出来たりして
これがなかなか楽しい。
写真とは表現であるのでそこには芸術性がある訳だが、
時として胸を打つような一枚に遭遇することもあり
私の場合は廃墟の写真群にそれを見出す機会が多い。

どこそこの廃墟に行ってきたので写真を掲載・・・
これが私の最も興味をそそられる種別だ。
今回は廃校の写真を楽しむことが出来た。

森と同化する過程にある朽ちてゆく建物。
どうやらどこかの山の中の廃校らしい。
かつては几帳面な直線で構成された人工物が
今や歪んだ曲線に見悶えている。
ところどころの壊れた部分から幼い樹木が枝を伸ばしていて
年月の経過が見て取れる。
これからゆっくりとこの樹木たちは成長してゆき、
建物はただ滅びてゆくのみだ。
それは侵食でなく浄化であり、
無理に曲がった梁を緊張から解き放つ救いであるのだ。
自然にかえろう、土にかえろう。
森は今まさに、
疲れ切った建物を抱擁しようとしている。

冒険者は内部に足を踏み入れる。
埃を被った机や、うず高く積まれた本、
ボロボロに劣化した手書きの日誌や連絡帳。
かつて人がいたことを示す生活の痕跡は
その建物が放棄されたことを雄弁に語る。

今や、埃と乱雑の静まり返った空間であるが、
かつてこの教室では子供たちが学んだ。
遊び、走り、時には喧嘩をし、
笑い、泣き、ほのかな恋心をおぼえ、たくさんの思い出を作った。
そして皆が例外なく去っていったのだ。

時は確実に流れる。
それはそのまま、
決して戻れない過ぎ去った過去を意味するのだから、
過去が美しければ美しいほど
胸の痛みも鋭いものとなる。
廃墟とは即ち、損失を具現化したものなのだ。
私はどうにも、そんな風にしか見ることができない。

きっと、この冒険者/撮影者も同じ思いであろう。
だから、私の様に思いを同じにする者が鑑賞すると、
その胸の痛み、過去を偲ぶ哀寂、
帰れない日々を思ってのいたたまれない思い、
これらがはっきりと伝わってくる。
冒頭で芸術という言葉を使ったのはこの為だ。
撮影者と私の間には共感という絆が生まれた。
これが芸術の醍醐味だ。

そんな思いで写真の鑑賞を続けていたが、
ここで思わぬ第三者の登場となる。

(長くなったので一旦おき、後編に続けます。)




読んでくださった方、有難うございます。

現実


私の夢見た永遠は実現せず、
否、それが決して実現しない理想だとわかっていながらも、
それでも切に願ったが、夢は儚くも散った。
自らの権利に固執する私は、
現実と不条理に折り合いをつける為、
仏道に折衷案を求めた。

併しその仏道とは、
この世界の無常を如何に受け入れるか、トいう、
謂わば、諦観を基盤とするリアリストの
現実的な解決戦略であった。
現実を拒絶する理想家の私とは
対極にある教えであった。

世のあらゆる事象は無常であり、
凡ては刻一刻と変化してゆく。


先ずその事実を受け入れ、
如何に其処で生きてゆくのか。
それを皆で考え、助け合いつつ歩んでゆくのが
仏教であるように感ずるこの頃である。
即ち、ブルカニロ博士は仏僧であったのだ。

私たちは人生というこの荒波を
上を向いて大股で歩いてゆかねばならない。
ではその理想をどう実現するのか。
私は仏道にその答えを求める。




いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。

新九郎譚 「 This is fine 」


我らが新九郎君は、
職場では米人のチームに入っています。
紅一点ならぬ日の丸一点という形ですが、
これがなかなか面白く
日常あちこちに愉快な刺激が転がっているそうです。

さて、そのチームメンバーのみが所属する
LINEなる通信手段のグループという架空集落に於ける
やり取りもなかなか痛快らしく、
先日こんなことがあったと聞かされました。

その日、新九郎君のチームは、
職場の上位者からこてんぱんにダメ出しされてしまい、
それはもう、世界の終焉の3秒前といった雰囲気で、
皆が落ち込む事態となったそうです。
そもそも、その叱責や嫌味な指摘が
到底的外れで納得できるものではないうえに、
他者の否定を前提としての理論の展開に
皆がぐうの音も出ない程に辟易とするなかで
事態の説明すら許されずといった、
兎にも角にも、ほとんど嫌がらせのイジメのような
検査という名目の精神拷問の後に、
「3時間後に解決策を報告せよ!」
という指令を以て一次解散、トなって
その後はもう、陰々惨々、
誰もが口を閉ざしての悲惨な雰囲気となり、
仲間たちの苦悶の表情に
さすがの新九郎君もずいぶんと心を痛めたとのことでした。

そうして運命の時を待つ間、
一体、皆はどんな気持ちだろうと
もじもじと情けなく身悶えすることしか出来ない
新九郎君でしたが、その時、
チームのLINEに一通の投稿(画像)がなされました。

以下、投稿について
新九郎君が私に語ってくれた内容を
かいつまんで記します、曰く・・・

「米人というのは
何時如何なる時をもってしても
明るさを忘れない、
絶体絶命のピンチのはずなのに
それを簡単に笑い飛ばしてしまう、トいった、
良い意味での不真面目さを備えている。

どうにもならない八方塞がりの窮地に於いて、
衝動的に死に繋がる結論をしてしまう日本人の
尊い気真面目さも私は愛するが、
何より先ずはジョークを選択する米人の
潔い前向きさも又、愛さずにはいられない。」


(↓その画像)
This is fine




なるほど。
まぁ、それほど深刻なものでもないとは思いますが、
新九郎君には強く感じ入る何かがあったようです。
(この辺りは、当事者と傍観者の違いなのでしょうけども)

然し私はこの米人の姿勢、
物事と真正面からぶつからずに適度にかわしながら対応する
こういった余裕溢れる精神姿勢に、
世を生きてゆくうえでのヒントがあるような気がしました。


いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。

採血


先日、職場の健康診断に行ってきた。
これには採血が含まれるのだが、
私は注射が嫌いで
あの針が侵襲する瞬間の感触は
思い出しただけでも身震いがする。

注射針の無機質な冷たさ、硬さ。
どんなに言葉を尽くしても決して説得することは出来ない。
媚びようが哀れに振舞おうが、
煽てようがへりくだろうが、
同情などしてくれないし
ましてや味方になることなど金輪際ない。
要するに、話が通じない相手なのだ。
血管に差し込まれた際の
あの独特の異物感も不快だし、
私と注射針との間に和解の握手は期待出来ない。

さて、採血の寸前までそんなことを考えていたせいか、
私の表情は硬かったらしい。
不安が滲出していたのかも知れない。
採血の技術者が私の腕を取りながら、
あらぁ~、いい血管だわ~。
これはいい血管よ~。
おばちゃん長いからわかるのよ~。
ト、重ね重ねに褒めてくれたが、
まぁ、嬉しくはなかった。



読んで下さった皆様、有難う御座います。







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