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達成


なんとか、この一大イベントを乗り切ることが出来た。
皆が笑顔で手を握り合える結末となった。
判明した問題は、発展の為の糧となろう。
全ての努力は報われたのだ。
私たちは、やり遂げた。
流した汗のぶんだけ、喜びの涙を流した。

さぁ、これでもう私はいつ死んでもいいことになった、などと、
少々物騒なことを考えながらも、
実は既に来年に向けての一歩が始まっていることを
私たちは知っている。

今年は大成功だった。
その喜びをグッと噛みしめて
小さくガッツポーズをしたら、
さぁ、次へと進まねばならない・・・



と、それではせわしないので、
とりあえず、黒ラベルで乾杯!




読んでくださった方、ありがとうございます。





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続・実感


私を顔面蒼白に至らせた事実とは何か。
それは、私が理想に浸りすぎた、という失態だ。

そうだ、私は未来を都合よく考え過ぎていたのだ。
私が思い描いたバラ色の未来は理想でしかない。
そうだと無理に信じることも出来るが、
心のどこかに刺さった小さなスイバリのような
不安は常につきまとう訳だから、誤魔化しはきかない。
理想は理想で、現実とは限らない。
サラ・コナーだって言っていたじゃないか、
未来は一定ではない、と。

要するに、大失敗に終わる未来もあり得るということだ。

この事実は私を狂乱させ、苦しめ、
ほとんど寸でのところでなんとか抑えたが、
思わず上着をかなぐり捨てて
奇声と共に金だらいを打ち鳴らしながら
表へ飛び出してしまうところだった。

生まれたての小鹿のように不安に震えていたが、
その時にふと気づくことがあった。

あぁ、そうだ。
結果は原因と過程を経ての結果なんだった。・・・

私の未来は過程で決まる。
これまでに行ってきた努力が虚実であれば、
行事は失敗に終わるだろう。
悪因悪果というヤツだ。
ところが、やってきたことに自信があれば、
結果は自ずとついてくる。
自ずから、自然の帰結、
禅で何度も何度も学んできたことではないか!
私の歩みに堕落はあったか? 妥協はあったか?
私は、確信に満ちた表情で太陽を見上げた。

言葉では知っていた。
しかし、実感というと話は別で、
今までは、ただ知っているつもりだけだった。
しかし今、漸く、理解に至った。




読んでくださった方、ありがとうございます。

実感


生活しているといろいろな節目で
気づく、というか、実感するポイントのようなものに
ハッとすることがある。

これから私たちの職場は、
一年で最も重要なイベントを迎える。
他に別の2組織と連携するのであるが、
私はその仲介役を仰せつかっているので
責任はけっこー重大だ。
「けっこー」と平仮名で書いて緊張感のなさを
演出しなければいけないほど緊張している。

過度の緊張は己を委縮させる。
動きを封ずる拘束具に近い。
しかし、昔の漫画の主人公が使った
大リーグボール養成ギブスとは訳が違う。
あれは鍛える為のものだが、
これはDr.レクターなどに施されていた
完全な拘束具だ。

取り除かねばならない。

そこで、未来の自分を考えることにした。
イベントが終了してホッとしている自分。
成功に胸を張っている自分。
緊張や不安が取れて、和らいだ笑顔の仲間たち。・・・

そこには、皆に囲まれて笑っている自分がいる。
何でもないさ、トでも言いたげな
すました表情が小憎らしい。
この自分、控えめに云ってもカッコいい。
凛々しい、実に端正だ。
顎に手をやった何気ない仕草に
キザな誇りを感じる。
うっとりと思い浮かべる2週間後の私、私、私。・・・

いや、然しだ、ここで重大なことに気づき、
私は顔面蒼白となるわけだが、
それは次回にお話しよう。



読んでくださった方、ありがとうございます。

続 夕暮れの大山 


薄っすらとした乙女の頬のような桜色に染まる大山。
前回、この感動を大いに述べた訳だが
その慣性が未だに働いていて
このままの勢いで続きを書こうと思う。

私がうっとりとその美しい姿に見とれている間も
時は刻々と流れてゆく。
大山を染めた桜色は段々と薄れてゆき、
太陽はついにその姿を
箱根の山々の向こうに落としてゆく。

然し、姿を消した後もしぶとくその光を放っていて、
大蛇がうねったような箱根の稜線を
くっきりと際立たせる。

この時、桜色の空は既にその明度を落としており、
すっかり濃いオレンジ色となっているが、
真っ黒な雲の隙間に見えるその輝くオレンジは
周囲を覆う黒雲との対比もあって
不思議に神々しく見える。

そこに浄土があると云われれば納得してしまうだろう。

そんな西の空を
大山がゆったりと眺めている。
宵の薄い暗闇に覆われて
大山にも休息の時が訪れる。
心なしか、
日中に見られた緊張が弛緩しているようにも見える。
大山に夜という安息が訪れる。




読んでくださった方、ありがとうございます。

夕暮れの大山


この時期、夕暮れ時の大山が美しい。

否、大山の名誉の為に云うと
当然いつの時期も美しいのであるが、
この時期は丁度、退勤の時間が黄昏時となるので
夕日に照らされる大山を目にすることも多く、
結果、美しと感ずる機会が増えるという訳だ。

とにかく、である。
大山が美しい。

入射角度や大気の状態も関係していると思うが、
この時期の大山は夕暮れ時に桜色になる。
それも、薄っすらとした仄かなピンクである。
乙女が恥じらいに頬を染めるような桃色である。
この可憐な緊張が大山には良く似合う。

丹沢の山々の中心に凛々しく屹立するその姿は
勇敢な女神のようだ。
容易に他者を近づけない、
潔癖で誇り高い、純白の百合のような姿。
毅然として背筋の伸びた姿は、
切れ味鋭く残酷でありながら
可憐でエレガントな高貴の女神、といった趣だ。

その女神がふと見せる憂いの表情。
それがこの時期の大山の桜色なのだ。




読んでくださった方、ありがとうございます。

新九郎譚 「思い出は温めるもの」


ここまで映画「ひまわり」の話をしてきました。
美しい記憶を再体験しようと
うっかり本物の映画を観てしまったものだから、
長年に渡って作り上げたイメージを
壊すことになってしまった、という、
少々情けない話ではありましたが、
時として虚実を虚実のままで信じきることは
幸せなのかも知れません。
大概、真実なんて知らないほうが
幸せなものなのですから。

ト、こんな話を
私の良き友人、新九郎君にしてみましたところ、
彼も似たような話を最近聞いた、とのことでした。
なんでも、彼の同僚である米人から聞いた話だそうですが、
ことは所謂SNS、〇ェイス〇ックなるものに関することだそうで、
うっかり過去を探求してしまったばかりに生じた
ある悲劇(?)のお話でした。

新九郎くんの友人、仮にKとしましょう。
ある時、KはこのSNSを使って
遠い昔の恋人を探すことを思いつきました。
米人というのは、たとえ名前が変わっても
このSNSには旧姓を記載している方が多いと聞きます。
検索にかかりやすいようにするのでしょうが、
これは歩いてきた遠い道のりに
花びらを落としてくるようなものなので、
探したいと思う人があれば
簡単に見つけることが出来るのだそうです。

とにかく、Kは容易に目標となる人物を発見したそうです。
Kは10年以上に渡ってその人物を思い続け、
結婚して子供が出来ても忘れることが出来ず、
その美しい姿は年月を重ねるごとに
いよいよ神格化されて
もうどうにもならないくらいに
確固たる存在となっていったとのことでしたので
発見の際の彼の狂喜は尋常でなかったでしょう。
その存在自体は確かに「過去」なのですが、
彼女を思う気持ちは「現在」なのです。

さて、元来過去とは、静かに佇むだけのシロクロの存在です。
それが今、SNSというツールを以て彩色され、
現実として動き出すのです。
諦めていた過去と夢でしかなかった現在に
不自然な接点が生じた訳ですが、
時間の摂理に逆らうこの行為が
果たしてKを幸福にしたのでしょうか?
新九郎君に聞いてみましょう。

曰く、Kは年月の残酷を知った、とのことでした。

呆れた話ですが、要は、
Kは、勝手に理想の人物像を作り上げて、
勝手に探して勝手にがっかりしたということです。
Kにとって、思い出は追及すべきものではなく
温めておくべきものだったのです。

SNSを貶めるつもりはないので一応記しますが、
今回のお話は悪い一例で、
多くの利用者は新九郎君のように古い友人を見つけて
旧交を温めるという良い使い方をしているようです。
まぁ、手段とは常に使いようだし、使う人次第ということです。





読んでくださった方、ありがとうございます。

続 ひまわりDEC18


私のなかの映画「ひまわり」は
永遠に自分バージョンのままであろう。

何故なら、ひまわりは長年に渡って私の中で
美しくありすぎたので、
今更オリジナル本編の内容を受け入れられないからだ。

ひまわりとは、こうでなくてはならないという
確固たるイメージが既に出来上がっている。
このイメージとは、とても悲しく、
悲しいが故に更に際立つ美しさを根拠としているので、
ある意味の聖なる存在に近いもののような気がする。
要するに、汚されたくない過去の美しい記憶、
それが(私にとっての)映画「ひまわり」だ。

ところが、である。
その記憶を追体験しようと、
うっかりDVDなどを買ってしまったものだから、
恐ろしい現実と相対することとなってしまった。
私の美しい記憶は、ある意味完全に否定されて、
理想を追い求める虚しさを思い知らされることとなった。

現実とは常に期待を裏切るもの。
夢を見ているだけのほうが
幸せであるのかも知れないが、
どうしても現実に期待を抱いて
迂闊な一歩を踏み出してしまう為、
人はいつも打ちひしがれる。

もうなんだか、
なんの話だかわからなくなってしまった。




読んでくださった方、ありがとうございます。


ひまわり DEC18



前回の話にちょっとだけでた、
映画「ひまわり」。
戦死したと伝えられた恋人を探し、
遠いロシアの地へ旅する悲しい女性の物語だ。

鑑賞したのは最早30年以上前であり、
懐かしさもあって、ふと、DVDを購入してみた。
そして驚いた。

長年の間になんと、私の心のなかで、
内容がすっかり改変され、アレンジがかかり、
もう完全に違う映画になってしまっていたのだ。

そもそも、私の中のソフィア・ローレンは、
可憐でおとなしく、日本的なか弱い、
おくゆかしい女性であったはずなのに、どうも違う。
本編に於いては
役所で係員を怒鳴りつけるほどの
豪快な女傑であって、しかも、
なかなかに開放的で、
離れ離れになる恋人との出会いも、
なんだかビーチで出会ってそのまま懇ろ、といった流れで
その後の別れに、いまひとつ、こう、同情出来ない。
もっと歴史ある、
時間を積み重ねたカップルだった気がしたのだが、
どうも、まぁ、違っていた。

こんな調子で、終始、記憶とは悉く
異なった展開が続いていって、驚いてしまった。

そして、最大の問題点はラストだ。
私の知る「ひまわり」は、
最後に傷心のソフィア・ローレンが
汽車からふと見た窓の外には、
美しひまわりの畑が一面に広がっていて、
そのまま幕を閉じる感動のラスト・・・ のハズだった。
ところが、その後、蛇足とも思えるエピソードが延々と続き、
なんだか正直、美しく簡潔に終わらなかった印象だ。

とにかく、驚いたのは自分自身の記憶のねつ造だ。
どうも、あのポスターの印象から
自分の理想のストーリーを長年にかけてでっちあげ、
熟成し、本物と疑わないほどに信じ込んでいたらしい。
本当はこうだったけど、こうであって欲しかった、という
願望もあったのかも知れない。

私バージョンのラストシーンでは、
ひまわり畑から段々とカメラが引いていって
広大なロシアの大地を映し出し、暗転したところで、
Fin の文字が筆記で記される細部まで記憶にあるのだから
もう、呆れるばかりである。
因みに、後にDVDを見直した時の記憶でさえ、
実はもう10年くらい前になるのでかなり怪しいという始末だ。

「ひまわり」は、私の心の中の、
素晴らしき映画トップ10の上位にランクされている。

にも関わらず、
私はオリジナルの「ひまわり」からは
緩やかに目を反らし、
このまま自分バージョンに
こだわり続けてゆくのだろうが、
これも、まぁ、ひとつの楽しみ方。






読んでくださった方、ありがとうございます。

菜の花


年末、近所を自転車で走っていて
菜の花畑に出くわした。

菜の花といえば春のイメージだ。
枯れ草色の景色の所々に
アクセントのように咲く黄色が、
数日のうちにあっという間に広がって
こうして私たちは春の到来を実感する。
空は限りなく青く、地には菜の花が広がり、
そして花そらは
天然のサラダバーだと云わんばかりに
菜の花を夢中で食べていた・・・
私にとっては非常に思い出深い花だ。

まさか12月に菜の花を見れるとは考えていなかったので、
私は一瞬、面食らって、とまどい、
それから徐々に湧き上がってきた感動に
心地よく浸った。

ひまわり畑を見つめるソフィア・ローレン。
私はまさにそんな心境で、
迂闊にも、心のなかに、
映画「ひまわり」のテーマが流れてしまった・・・

という、ある冬の一日。




読んでくださった方、ありがとうございます。

ひとつの幸福


夢を見た。

花とそらと一緒に
涼しい川沿いの公園を散歩する夢だった。

以前ならば、
夢の中に描かれるこの美しい絵画は、
目が覚めれば間近に見る事が出来た。
幸福の額縁にしっかりと収まったこの絵は、
かつてこの世にあり、現前しており、
当たり前のように手に触れる事が出来た。
然し、その絵は最早永遠に失われた。
見る事も出来ず、形を成す事もなく、過去に静かに佇むのみなのだ。

今昔の差と、此処まで5年の間の風雨を思い、
過去が未だに現在であると錯覚しながら
私は自らを過ぎ去った日々に閉じ込める事に決めた。

過去に生きる静寂の人生。
これも又、ひとつの幸福の形であるのだ。





いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。


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