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成仏


いつかある僧侶の本で読んだ成仏の解釈が
非常に素晴らしかったので記しておきたいと思う。
ただ、目にしたのがずいぶんと昔のことなので
細かくは覚えていない。
したがって、内容に間違いがあってはならないので
著者のお名前を記すことは出来ない。

あるところに子供を亡くした母親があったとする。
その母親は、子供の死後、
雨の日も風の日も毎日お墓に通って、
一日を共にした。
年月が流れ、やがて訪問は毎日である必要がなくなり、
ご自宅の仏壇へのお祈りといった
毎日の生活に重大な影響を及ぼさない
自然な営みへと移り変わっていった。
ここをもってして、成仏、となる。
僧侶はこう語られた。

また別の方は、
失くした子供を投影する等身大の人形を持ち続けた。
その人形には生活の痕跡が見えるほどであり、
生きていた時と同じように接せられたことが明白であった。
しかしある時、その人形は寺へと納められた。
人形が代役を務める必要がなくなったのだ。
即ち、それをもってして成仏。
小林秀雄の「人形」にあったご婦人も
ここに至ったことを願う。

一般に成仏とは、
亡くなった方の魂を主体とするが、
こちらの僧侶は、残された側の心境の変化を以て
成仏としされている。
この点が非常に興味深く、
強く印象に残っている。



読んでくださった方、ありがとうございます。
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続・心無罣礙


さて、
意味が云々なんて気にしない、などと書いたが…

こうなってくると、
この「心無罣礙」という言葉が非常に気になってくる。
言葉ではこのままスラスラと続きも出てくるのだが、
はて?果たして意味は・・・

私の般若心経の写経は既に500枚を超え、
そらで書くことも出来るのだけども、
なんと、意味について詳しくは知らない。
いや、見栄が働いてそんな言い方をしてしまったが、
実は本当に理解していないのだ。
要するに、氷で覆われた天体を研究するのに
表面だけ撫でていて、その下の海を無視しているようなものだ。
エウロパやエンケラドゥスに謝らねばなるまい。

話が逸れたが、とにかく、心無罣礙、である。

早速(今更ながら)意味を調べてみた。
いや、言い訳になるが、
以前にも般若心経の全編に渡って
意味は調べているのだ。
しかし、それが身につかないまま現在に至ってしまった訳だが、
決して学問しなかった訳ではなく・・・
などと、延々と言い訳が続きそうなので
ここまでとするが、
この「心無」というのは何となくわかる。
問題は「罣礙」だ。

いろいろと調べてみたが、
直訳から意訳に転じて、
どうやら「煩悩」を指すらしいことはわかった。
般若心経はここから、
心に煩悩無くば故に云々、ト続くので、
なるほど、日めくりカレンダーの教えに繋がっている。

こころに漂う悪意が妄想となり、
結果、自分自身の中に鬼を生じさせて
自らを苦しめることになる。
今の私がこれなので、なんとかしたいと思っていたのだが、

 無罣礙
心を空っぽに

この言葉が重大なヒントとなって
少しだけ前に進めた気がする。

日めくりカレンダーの進行が停滞していたことには
意味があったようだ。

神仏に感謝、である。




読んでくださった方、ありがとうございます。

心無罣礙


自宅にある禅語日めくりカレンダーが更新されず、
早や一週間が経つ。

この日の禅語は、

 無罣礙
心を空っぽにする


ある朝ふと目にとまり、その時は、
ふむ、なるほどな、程度にしか感ずるものがなかったが、
日中、そりが合わないある人物のことを考えて
ムカムカと一人で腹を立てていた時に、
ふと、解説文を思い出した。

概ねこんなことが書いてあったと思う。

禅の修行とは心を空にすることである。
空の心は鏡のように澄みきっているので、
映るのは畢竟、美しいものとなる。

なるほど。
それなら、どんなに嫌なことでも
きっとポジティブに転化されるのだろうから、
無駄に怒りのエネルギーで自分を消耗させなくてすむ訳だ。
これは便利だ。
しかし困った事実がある。

そうだ。
私は修行不足なので心を空にする境地からは
ほど遠いところにあるのだった。
前提が先ず、成り立たないのだ。

よって、私の曇った心の鏡に映る
その人物の姿は、間違いなくぼやけたものとなろう。
もしかしたら、頭に角のある姿かも知れないし、
陰口をまき散らす
狡猾で陰険な光景を想像してしまうかも知れない。
そうすると余計に疲れるだけだ。

ではどうしたらいいのか考えた。

ヒントは既に目にしていた。
「心を空っぽに」
これである。

もう最初から余計なことは考えないことにした。
ムカムカしてきたら、こう自分に呟くのだ。
心無罣礙、心無罣礙!
心を空っぽに!

意味が云々なんて気にしない。
これでずいぶんと楽になった。



読んでくださった方、有難う御座います。








ある一言


SNSなど、なんとなしに見ていると
友人がポストした名言/格言などに
うん、なるほどね・・ などと
独り言で反応することはよくある訳だが、
ハッと目を見開くことはまず少ないだろう。

先日のこと。
週末を前にして例のFaceb〇〇kなるものを
なんとなく眺めていたら、
ある友人の以下のようなポストが目にとまった。

ジーザス・クライストが伏目で微笑み
こんな意味のことを云っている。
「この週末は、あなたの抱えているストレスや悩みを
全て私に預けて、ゆっくりと休みなさい。」

私はその時、次の週の予定に気が重く
とても週末を楽しむという気分ではなかったのだが、
この一言でずいぶんと救われた気がした。

予定はしっかり立てていて
準備は出来ているのだから、
心配ばかりしたって仕方がないのだ。
だから、抱えている不安や心配事やストレスを
全てJesusにお預かりしていただいて
自分は頭を空にすることにした。

これでずいぶんと休めたと思う。

私は神仏に甘えることが多いけども、
そのぶん結果を出せるように励もうと思う。




読んでくださった方、有難う御座います。

私と大山


つい先日の話。
自転車で約10分の場所へ所要があって出向し、
その帰り道でのこと。
ふと大山に目をやると
山の8分目辺りがキラリと光った。

私は何故だかそれを大山のウィンクだと感じ、
心の中で浮かれあがって、
「あぁ、大山が私を応援してくれている!」
などと、一人ぽっと頬を染めて、
自転車のペダルに一層の力を込めた。
矢張り大山は女性的な優しさを持っていて、
こうして私を祝福してくれるのだ、などと考え、
うむ、と頷き納得した。
初春の風はまだ冷たくも心地よい。

さて、小躍りで階段を上がってオフィスへ着き、
カバンを置いて、ふぅと一息ついた時、
漂う幸福感を貫く霹靂が一閃。

あっ!
なんと私は雑用をこなして満足し、
メインとなる要件を完全に忘れていたのだ。

再び出向となってから、その道で気づいた。
先だって私がウィンクと勘違いしたものは、
大山からの問いかけのサインに違いなかった。
「おいおい、何か忘れてやしないかい?」

まったく・・・
ウィンクだなんて甘っちょろいことを
云ってるんじゃないよ。

呆れ顔の大山が目に浮かんでしまったが、
対話を感じた気がして、
それはそれで、十分に貴重な経験だった、と、
やっぱり頬を染めた私であった。
なるほど春の到来を実感。




読んでくださった方、ありがとうございます。




雪の大山


一日降り続いた雨は
3月だというのに肌を切り裂くような
厳しい冷たさであったので、
次の日の朝は丹沢の雪化粧を期待していたら、
案の定、大山も周囲の山々も、
真っ白な雪に覆われて、
透明に輝く朝日に照らされたその姿は
ほとんんど蓬莱の神の地であるかの如くに見えた。

私は大山に向かって丁寧にお辞儀をし、
おはようございます、大山! ト、小さく呟き、
職場へ向かって張り切って自転車を飛ばした。
今冬で雪の大山をみるのはこれできっと最後だろう。
そう思うと少し悲しい気もするが
大山はいつも大山で、
その姿が消え去ることはない。

ちらりと横眼で大山の姿をみる。
大山はいつもそこにあって、
いつも私を見守ってくれている。

春霞のむこうで、
夏の濃い緑に覆われ、
秋の夕日を背に、
そして冬の雪に覆われながら、
大山はいつも私を見守ってくれている。



読んでくださった方、有難う御座います。

永遠の記憶


確かにこの腕に抱きとめて決して放すことはない。

そう信じていた子らは、
いとも簡単に私の抱擁をすり抜けた。
あっさりと手の届かないところへ行ってしまった。
あの日、私はもう二度と、
過去が蘇る事はないと痛感した。
消して同じにはならないのだ。

併し、共に過ごしたあの日々は現実だ。
決して無くなることはないし、
消え去ることもない。
その記憶は天のサンタマリアに守られて
私の中で永遠の輝きを放ち続ける。

私の求めた永遠は完成していた。



いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。


試験前のひととき


定期的に受けているある試験で
非常に苦手なひと時がある。

試験の説明が終わってから
開始までのほんの数分。
ピンと張りつめた空気の中で
何をするでもなく、
凝っと試験開始の合図を待つあの時間。
プレッシャーに弱い私には
ほとんど拷問のような数分だ。

着座から試験開始まで30分。
先ずは、厳格な説明がなされて、
試験用紙、答案用紙が配布され、
あとは開始の号令を待つだけとなる訳だが
この間、会場は重苦しく厳粛な沈黙に包まれる。
多分この間は、咳払いすら許されない。

試験官による開始の号令まで約10分、

① 鼓動は激しく打ち、
動悸、息切れ、めまいなど、
何かのCMで聞いたような現象に悩まされ、
一分一秒が、それこそ何時間にも思えてくる。

② 静寂に耐えられなくなり、
憤怒をもって上着をかなぐり捨てて
金盥を打ち鳴らしながら
会場を走り回りたくなる衝動にかられるが、
そこはグッと押さえて瞑想など試みる。

③ 衝動とは英語でイムパルスである、などど
そのうちよそ事を考え出すのだが
緊張を思い出すと今度は吐き気がしてくる。

④ そしてまだ金盥の衝動となる。

⑤ 試験が始まれば、あっという間の二時間であるが
終了の合図で今度は反動がくる。
ただもう何もやる気がおきず、
ただひたすら帰宅して
弛緩しての自由を満喫したくなる。

その割には歩くのがやたらと早くなり、
もうほとんど競歩のようになってしまって
そのうち走り出したくなるが、
走ると不審者みたいで職質にかかる恐れがあるので
走り出したい衝動を必死におさえるという
なんとも忙しい思いをしながら、
帰宅して、ゆっくりと黒ラベルを楽しむのだ・・・

という妄想をしながら、
①にもどってひたすらループという、
長い、長い、10分だ。




読んでくださった方、ありがとうございます。

模試と禅


さて、試験が近いので
休日は模試を繰り返している。

私の休日は回復の為ではなく
進歩の為にあり、
本番の試験も日曜日なので
休日の度に艱難辛苦の喜びに
武者震いを繰り返しているという
変人っぷりだが、
これはこれで楽しい人生だ。

模試に要する時間は二時間。
体調が良ければすんなりいくのだろうが、
休日の私はたいてい前夜の飲み疲れがあり
いつも途中でダレる。
集中力が切れる。
進歩の為の休日はどうした、と、
喝をいれながらの模試になる。

こんな時にいつも思うのが、
もっと禅をやっていればよかった、という反省だ。

びっしりと文字で覆われた頁を見るたび、
正直、うんざりする。
投げ出したくなる。
何か理由をこしらえて中断したくなる。
しかし、続けるか投げ出すかの
この分岐点で将来が決まるので
やめるわけにはいかない。
そこで続けるは続けるのだが、
だからといって精神的苦痛は依然として残る。
気づくのだが、この苦痛が、
なんと、
禅の途中で生じる苦痛と同じものなのだ。

上手く言い表せないが
自由に跳ねようとする巨大なバネを
抑え込もうとする歪みから生ずる
居心地の悪い違和感。

ちょっと気を抜くと
あっという間にあらぬ方向へ飛んで行ってしまうであろう
危険な可能性をひめたエネルギーに対する焦燥感。
このバネを自由に解き放ってはならないという緊張。
同時に、自由への渇望。

なんだかダラダラ書いてしまったが、
要は、我慢しながら何かを継続、
しかも集中して行うことの苦痛、といったところか。

なるほど。
これは、禅も模試も同じだ。
やはり、勉強の合間の生活の中に、
もっと時間を作って座らなければならない。
それがきっと、勉強に限らず
他のことにも繋がってゆくはずだ。




読んでくださった方、ありがとうございます。

達成


なんとか、この一大イベントを乗り切ることが出来た。
皆が笑顔で手を握り合える結末となった。
判明した問題は、発展の為の糧となろう。
全ての努力は報われたのだ。
私たちは、やり遂げた。
流した汗のぶんだけ、喜びの涙を流した。

さぁ、これでもう私はいつ死んでもいいことになった、などと、
少々物騒なことを考えながらも、
実は既に来年に向けての一歩が始まっていることを
私たちは知っている。

今年は大成功だった。
その喜びをグッと噛みしめて
小さくガッツポーズをしたら、
さぁ、次へと進まねばならない・・・



と、それではせわしないので、
とりあえず、黒ラベルで乾杯!




読んでくださった方、ありがとうございます。





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