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現実


私の夢見た永遠は実現せず、
否、それが決して実現しない理想だとわかっていながらも、
それでも切に願ったが、夢は儚くも散った。
自らの権利に固執する私は、
現実と不条理に折り合いをつける為、
仏道に折衷案を求めた。

併しその仏道とは、
この世界の無常を如何に受け入れるか、トいう、
謂わば、諦観を基盤とするリアリストの
現実的な解決戦略であった。
現実を拒絶する理想家の私とは
対極にある教えであった。

世のあらゆる事象は無常であり、
凡ては刻一刻と変化してゆく。


先ずその事実を受け入れ、
如何に其処で生きてゆくのか。
それを皆で考え、助け合いつつ歩んでゆくのが
仏教であるように感ずるこの頃である。
即ち、ブルカニロ博士は仏僧であったのだ。

私たちは人生というこの荒波を
上を向いて大股で歩いてゆかねばならない。
ではその理想をどう実現するのか。
私は仏道にその答えを求める。




いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。
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新九郎譚 「 This is fine 」


我らが新九郎君は、
職場では米人のチームに入っています。
紅一点ならぬ日の丸一点という形ですが、
これがなかなか面白く
日常あちこちに愉快な刺激が転がっているそうです。

さて、そのチームメンバーのみが所属する
LINEなる通信手段のグループという架空集落に於ける
やり取りもなかなか痛快らしく、
先日こんなことがあったと聞かされました。

その日、新九郎君のチームは、
職場の上位者からこてんぱんにダメ出しされてしまい、
それはもう、世界の終焉の3秒前といった雰囲気で、
皆が落ち込む事態となったそうです。
そもそも、その叱責や嫌味な指摘が
到底的外れで納得できるものではないうえに、
他者の否定を前提としての理論の展開に
皆がぐうの音も出ない程に辟易とするなかで
事態の説明すら許されずといった、
兎にも角にも、ほとんど嫌がらせのイジメのような
検査という名目の精神拷問の後に、
「3時間後に解決策を報告せよ!」
という指令を以て一次解散、トなって
その後はもう、陰々惨々、
誰もが口を閉ざしての悲惨な雰囲気となり、
仲間たちの苦悶の表情に
さすがの新九郎君もずいぶんと心を痛めたとのことでした。

そうして運命の時を待つ間、
一体、皆はどんな気持ちだろうと
もじもじと情けなく身悶えすることしか出来ない
新九郎君でしたが、その時、
チームのLINEに一通の投稿(画像)がなされました。

以下、投稿について
新九郎君が私に語ってくれた内容を
かいつまんで記します、曰く・・・

「米人というのは
何時如何なる時をもってしても
明るさを忘れない、
絶体絶命のピンチのはずなのに
それを簡単に笑い飛ばしてしまう、トいった、
良い意味での不真面目さを備えている。

どうにもならない八方塞がりの窮地に於いて、
衝動的に死に繋がる結論をしてしまう日本人の
尊い気真面目さも私は愛するが、
何より先ずはジョークを選択する米人の
潔い前向きさも又、愛さずにはいられない。」


(↓その画像)
This is fine




なるほど。
まぁ、それほど深刻なものでもないとは思いますが、
新九郎君には強く感じ入る何かがあったようです。
(この辺りは、当事者と傍観者の違いなのでしょうけども)

然し私はこの米人の姿勢、
物事と真正面からぶつからずに適度にかわしながら対応する
こういった余裕溢れる精神姿勢に、
世を生きてゆくうえでのヒントがあるような気がしました。


いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。

採血


先日、職場の健康診断に行ってきた。
これには採血が含まれるのだが、
私は注射が嫌いで
あの針が侵襲する瞬間の感触は
思い出しただけでも身震いがする。

注射針の無機質な冷たさ、硬さ。
どんなに言葉を尽くしても決して説得することは出来ない。
媚びようが哀れに振舞おうが、
煽てようがへりくだろうが、
同情などしてくれないし
ましてや味方になることなど金輪際ない。
要するに、話が通じない相手なのだ。
血管に差し込まれた際の
あの独特の異物感も不快だし、
私と注射針との間に和解の握手は期待出来ない。

さて、採血の寸前までそんなことを考えていたせいか、
私の表情は硬かったらしい。
不安が滲出していたのかも知れない。
採血の技術者が私の腕を取りながら、
あらぁ~、いい血管だわ~。
これはいい血管よ~。
おばちゃん長いからわかるのよ~。
ト、重ね重ねに褒めてくれたが、
まぁ、嬉しくはなかった。



読んで下さった皆様、有難う御座います。








参禅して修行する。

目的は人それぞれであろうが、
私の場合は確固たる自分を構築するために
この道を選んだ。
自分の弱い心をなんとかしたくて
座ってみようと思った。
要は、この苦しみを消し去りたいのだ。

然し、ある禅僧は
苦しみをコントロールなど出来ないと云う、曰く、
修行しようと何をしようと苦しみとは
決して取り除くことの出来ない人生の一部で在り続ける。


では何故座るのか?

「苦しみは消えない」
これは確固たる事実であるらしい。
言葉では簡単に云えるが、
私は今の時点ではおそらくは完全に理解していない。
いつかきっと、心底から理解し、
受け入れ、共存が出来れば、
目指す境地へ近づく一歩と出来るはずだ。
その出会いを求めて、座る。

よし、わかった。 ではどうするか。
私の目指すのはこれだ。




読んで下さった皆様、有難う御座います。

KATY


前回からの続きである。

そのKaty Perryの問題の曲、
今回初めてビデオを観た。
ビデオは大変な悲しい内容で
ちょっと胸が締めつけられるようなものであった。

冒頭で年老いた女性が登場する。
どうやらこの女性が主人公で
別れの思い出を歌う構成のようだ。
女性には平穏な日常があることがわかるが、
その心には若い頃の心痛が未だ残っている様子だ。
女性は70くらいに見えるが、
だとしたら、
曲の主題となっている別れからは50年以上が経っていることになる。

女性にとっての余程の大恋愛だったのか、
故に、別れが人生の一大事となる事件だったのか、
それにしても、半世紀以上も思い悩むというのは
若干の不自然さがあるように感ずるが…

さて、ビデオは曲の内容に沿って進む。
出会いから幸福の時を経ての終局を
描いているが、その終局というのが突然の別れで
ここがオリジナルの曲とは違う部分だ。
ここで、年月が経っているにも関わらず、
何故これほどまでに女性が思い悩むのかがわかる仕組みだ。
肝心な部分なので
未視聴の方のために語る事が出来ないが、
少々ショッキングな内容となっている。

しかし少しだけ語ろう。



このミュージックビデオ全体を通してのテーマが
追憶であるはずだが、その対象が、
オリジナルの曲ではほろ苦い青春の思い出だったものが
このビデオでは比べ物にならないほどの厳粛な別れとなっていた。
そこがまず、大きく違うところだ。
最早別物と云ってもいい。
死別であるからだ。

夕陽に二人の手が一瞬だけ重なるけども、
虚ろな静寂を以て女性が現実に引き戻されて
ぽつねんと一人で立ち尽くすシーンなどは
あまりの悲痛な姿に硬直してしまうほどだ。

きっとこの女性は、一生このままだろう。
過去に苦しめられ、泣きながら生きてゆくのだろう。
そんな未来を暗示するような
悲しい黄昏時を以て、このビデオは終了する。



さて、これは、
創作に外連味を加えて
視聴者の受ける衝撃倍増を狙った演出だろうか。
どうもそうには見えない。
何故なら、ビデオの元となった原曲に
死別の原因となった交通事故の描写など
微塵もないからだ。
とってつけたような付加体なのだ。
どうにも不自然だ。何故か。

ここからは純粋に推測となるが、
アーティスト・Katy Perryはもしかして、
誰かに捧げる意図があったのではないだろうか。
どうしてもそうしたいと考えるに至った
やむにやまれぬ事情ができたのではないか。…

それならば納得がいく。
真相はわからない。



読んで下さった方々、有難う御座います。


熱唱


Katy Perry という合衆国の歌手あり。
ポップで明るい曲が多く、
ある種、若さからくる短慮さや迂闊さを
晴れ晴れしく陽気に昇華させている印象だ。
彼女の世界は若さを楽しむ喜びで満たされていて
それは微笑ましほどの陽性である。

そんな明るいアルバムの世界であっても
中には思い煩う曲も存在する。
歌詞はいろいろ問題が生ずるとおもうので
ここでは出さないが、
その曲は若いカップルが破局しての後を
女性の視点から歌ったもので、
アルバムの雰囲気に則した明るいメロディーではあるが、
訴えかけてくるような歌詞はなかなかに重い。

この曲は別れの後、
最初の出会いを思い起こす場面から始まる。
高校の後の夏、盗んで飲んだ親の酒、一緒にいれたタトゥー、
まるで何か現実的な根拠があるかのように語り合った未来、
凡ては過去の遺物となってしまっていて、
思い出を語る主人公は痛々しい限りだ。
世界を敵に回しても、といったくだりなど、
所々に刺すような強烈な言葉が紡がれていて
これがこの曲を
他の明るい曲とは一線を画す存在としている。
ポップでありながらも切ないのだ。

特にサビの部分、
別の人生ではあなたとこうありたい、という
絶対に叶わない願望を語るくだりに至っては
最早その力強い歌声に涙がまじっているのではないか、と
錯覚するほどだ。

当然であるが、
私がこうした若い女性の恋愛の事情に共感することはない。
然し、私の心を捉えたのは
「もしもまた別の人生があるのならば」
この部分である、悲しい願望を語るくだりである。
聴き手というのは自分の都合に合わせて歌を聴き、
自然と自分の事情に重ねてしまうものだ。

「もしもまた別の人生があるのならば」
花とそらとまた一緒に…

こんな風に繋がってくると、
もうダメだ。 もういけない。
その歌は最早、失恋の歌ではなくなる。
自分の人生の損失をテーマとした一曲に変貌するのだ。

曲は、事情や背景の説明を経て、
サビの部分で歌い手の感情の頂点に達する。
車を運転しながら熱唱する私の気分も
クライマックスとなり、それはどうやら、
信号待ちの停車中に
目の前を横断する年配のご婦人が
顔を背けて笑いをこらえるほどとなったようだ。
車は個室と勘違いしがちだが、
この点には注意が必要というお話。



読んでくださった皆様、有難う御座います。

手段


前回、故紙録の飯塚染子さんが
悟りに至るきっかけとなった言葉を記した。

念仏一辺倒から
一旦立ち止まって息をつき、
落ち着いて周囲を見回すことによって
禅と出会い、
禅を通して悟りに至ったという話であるが、
これは決して念仏を貶めている訳ではない。

公案をみてもわかるが
悟りとは人それぞれだ。
畢竟、それに至る手段も様々となる。
千差万別、多種多様、バラエティーに富んでいて
どこに探し求めた答えが落ちているのかわからない。
ここでのポイントは、
視野を広く持つことによって
行き違いを防ぎ
目指す相手をしっかりと見逃さない、ということだ。
染子さんの場合はそれが禅であった。

まぁ、それだけのことで、
もう一度云うが、
これは禅と念仏を比べる話ではない。
念仏が尊く有難いものなのは当然の話で、
念仏を心の拠りどころとする人は
歴史を見ても枚挙にいとまがないし、
今だってそうだろう。
私も念仏をお唱えする。

禅が合わない人もいる。
禅は自分と真っ直ぐに向き合う修行なので、
かえって己を追い詰めることになり、
悲しく結末した話も多く聞いた。
要は、前述もしたが、人それぞれ、なのだ。
私は禅をやらせてもらっているが、
これはだらしない自分を引き締める目的だ。
豆腐を鍛えて鉄にする手段は
禅しかないと思っている。

これだと思って傾倒してきたものが、
実は自分には合っていなかった、ト、
そんな悲劇は大いにある話だ。

何かに集中した時間というのは
決して無駄になることはないけども、
やはり目指す目標に回り道はしたくない。

一旦立ち止まって周囲を見渡す。
道に迷ったら勘で曲がらず地図をみる。
あらゆる縁を大切にする。
人の話を聞く。
悟りのきっかけはどこにあるのかわからない。





読んで下さった皆様、有難う御座います。

続 故紙録


生まれてくる子供が次々と亡くなる。
苦しみの中で女性は
念仏に全てをまかせて
ただひたすらに念仏を唱えるのであるが、
そこに救いを見出す事はなかった。

そんな時、夫より以下の忠告を受ける、曰く、
念仏は確かに尊く有難いものだ。
然し、それだけに頼っていてはならない。

大きな転機になったのだという。
私はこの話に大いに感銘を受けた。




いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。

故紙録


故紙録、
ある古い時代の女性の記した書である。

この女性は、
子を次々と失くされたことから
なぜ自分だけが、という思いに
大変に苦しまれた、とのことだった。

然し、その後、悟りを認められるに至る。

そんな苦しみからどうやって
心の平穏にたどり着いたのか
私は尋常でない興味があったので、
話を聞かせて下さった方に
思い切って質問してみた。

しかし、その女性が悟りに至った過程を
話してはもらえなかった。
何故だろうと一瞬思案したが、
後になって考えてみると
単純な話、絶望から平穏への道程を
そんな簡単にまとめて語れるものではないし、
そもそも答えを求める私の姿勢が
あまりにも性急すぎたのではないか、と思った。
私はそこに、
凡てを転覆させるほどの
力強いヒントを求めようとしたのだ。

これでは話はしてもらえないだろう。

人が悟りに至る方法は様々で、
また、その悟りも人によって違うはずだ。
内容も程度も全てが異なる。
共通しているのは、
小さな気付きを一つひとつ実行する毎日が
先ず土台を作り上げ、
その僅かな積み重ねの
繰り返し、繰り返しの先にのみ、
漸く小さな蕾が結実するというこの事実だけだ。
花が開くきっかけも、又、様々だ。

地道な思考の繰り返し、
それがある年月を経て遂に満ち満ちて、
ひっそりと小さな花として現出する。
それが悟り、人の強さ、平穏であり、
そこに行きつくには内容と過程が必要なのだ。
簡単には語れない。

さて、理屈ではこうしてそれっぽく語れる。
然し果たして、私は本当に理解しているのか?
趙括談兵、笑止、であろう。
だからこうして考えてゆくしかないのである。





いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。

人間世界の中の猫


もう完全に陽の落ちた帰宅の路に
猫の家族を見た。

母猫とおぼしき茶色の美しい猫が
草むらに身をかがめており、
三匹の子猫が寄り添うそうようにして
頑なに身を緊張させている。

皆がこちらを見ている。
目には警戒の色が浮かび
そこから怯えが読み取れる。
私は決してこの子らの敵ではないのに。

この家族が笑って暮らせる日はくるのだろうか。
私はなんだか悲しくなった。
人の世界にひっそりと生まれた野良猫の家族に
倖せはあるのだろうか。
母親の温もりが唯一の倖せなのだろうか。
何のために生きるのか、命とはなんなのか。
この純粋無垢な魂の尊さは絶対だ。
それなのに、
その澄んだ心に平穏を予感出来ない。
見ないふりをして立ち去るしかなかった。



いつも読んでくださっている皆様、有難う御座います。

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