熊谷直実


有名な一ノ谷に於いて敦盛を討って後、
熊谷直実は法然のもとで出家を果たした。

自分の息子と同年代の敦盛を討ったという事実が
決定打となり出家を決意したそうだが、
そうなるまでには様々な艱難辛苦があり
その果てでの出家だったに違いない。
過冷却の実験を思い出す。

この世はもう、実に無常で、
何もかもが絶えず変化し続けている。
行く川のながれは絶えずしてしかも本の水にあらず、とは、
本当によく云ったものだ。
いつまでもこの倖せが続けばいい、といくら願っても、
決してそうはならないし、
淀みに浮かんでは消える泡のように
命は常に去り行くのみだ。

あの時代の武者と現代の私を決して同列には語れないが、
人の世との交わりを絶ってしまいたい思いは
多少なりともわかる気がする。

併し、この無常というものが世の本質であるのならば、
私たちは決してそこから逃げることは出来ないのだろうし、
こうやって真の人生を知ってゆくのだと思う。
漸くその事実に気付いた今だから、
まだまだ人生はこれからだな、とも思う。
いずれにせよ、
私は直実ほど戦っているわけではないので
出家して人を救う立場に転身する資格もないのだから、
矢張りこの現状で生きてゆくしかない。
この先強くなれるかどうかは、自分次第だ。




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ああ我が戦友


「ああ我が戦友」という古い歌がある。

蕭々とした荒野を思わせる一文から始まり、
友の戦死に際し、
死んだら互いの故郷へ知らせたの手紙を書く約束から、
どう筆を運べばよいのか、ト、悩む過程を経て、
遂に手紙を書きあげた後の、最後の一文で完結する。
私が今回紹介したいのは、この締めの一文である。

涙で書いたこの手紙 涙で読んで笑うだろう 
君の母君妹御も やっぱり大和の女郎花(おみなえし)


前回、「手巾」の母親の話に引用した一文は、
ここからきている。
本来、日本の女性とは、
この様に高潔で誇り高く、
まこと、尊いものである。






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ハンカチ


先日何気なくテレビをつけていたら、
脳死と判定された子供の臓器が
他の子供へ移植されることになった、
ト、伝えるニュースを目にした。

会見で、ドナーの母親が、臓器提供へと至った経緯や
思いなどを話しておられたが、
その様子があまりにも淡々としていたので
私は少々の違和感をおぼえた。

子供の死という、
自分たちの身にかかった
おそらくこの世で考えられる最も過酷な運命のなか、
母親のその冷静な態度は
現実認識に至るまでのショック状態にあるようにも見えたが、
しかし、言葉の端々には
悲しみを無理に噛み殺しているような
発声の詰まりがあるようにも感じられた。

それからなにか釈然としないまま
数日を過ごしたが、
ある時、何かのきっかけで突然、凡てがわかった。
あっと声をあげるほどであった。
あの母親は、芥川龍之介の「手巾」だったのだ!

闘病の末に亡くなった息子の死を
その恩師である大学教授に報告する母親。
平然とし、微笑みすら浮かべているかのような
母親の態度に違和感を持った教授であったが、
ふとしたことから、
この母親の手がテーブルの下でハンカチを握って
引き裂かんばかりに震えているのを目にする。

これが「手巾」のあらすじであるが、
あのニュースでの会見は
まさにこれではなかったのか?
母親は、冷静を装ってはいたが、
実は全身で泣いていたのではなかったのか?
取り乱すことを恥とする
古来よりの日本の武士道精神が、
あの時、あの会見で、
母親にあのような態度を取らせたのではなかったのか?…

昔気質の美しい日本人はもういない、とよく云われる。
併し本当にそうだろうか?
表向きは現代人であっても、
やっぱり私たち日本人の精神の根底には
美しく誇り高い武士道精神が生きているのではないだろうか。
その現出が、
あの会見でのあの母親ではなかろうか、ト、
私は感ずる。

やっぱり大和の女郎花、である。
その高潔な姿には涙を禁じえない。






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永遠を実現するヒント


ある小説での話。
愛する女性の美しい姿が損なわれた時、
男は自らの目を潰してその美を永遠のものとしました。

肉眼で知覚する外見的な美を保持する為に
自らの視覚を封じたその行為は実に合理的と云えます。
そして実際に美が永遠化された、
つまり、この理論が現実的である以上、
私がかつて、一度は不可能と決めつけた「永遠」というものに、
実現の可能性が見えてきたのです。

今は、暗闇の中の一点の光のような可能性ですが、
これには必ず応用できる手段があるはずです。

今は朧気でよく見極められません。



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現実の痕跡


花とそらの写真を見るたび、
その輝くような生命の眩しさに
私は思わず頬を緩ませる。

その表情は、
今の倖せを謳歌する喜びと
純粋な生きる意志に満ちていて、
あまりにも鮮明な現実の痕跡に
私は改めて
損失を実感するのだ。

私はこの記憶にすがって生きてゆく。

写真のみせるその美しい生命の美は
ゆっくりと私の胸に流れ込んできて、
明日を生きる活力となる。







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時間薬


私にとっての最も心強い希望は
「時間薬」という言葉であった。
これを知っていたからこそ、
歯の喰いしばりを以て、艱難の日々を耐え抜く事が出来た。
実体験から確信を以て云えるが、
時間は必ず、どんな悲しみをも癒してくれる。

時間薬の最も優れた、そして最大の特徴は、
何もする必要がない、ということだ。
時間とは勝手に進むもの。
時とは経つものなのだ。
ごく自然に朝日は昇り、
夕陽は自ずから沈んでゆく。

私たちは今ではなく、
その先に視点を置かなければならない。
悲しみを乗り越えたところには、
新しい人生が待っていて、
苦しんだぶんだけの、倖せがあるからだ。






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今日の倖せ


人にはそれぞれ執念深く追う題材があると思うが、
私の場合、人生が時間に従って下らなければならないという
どうにもならない自然の摂理がそれに当たる。

「今日の倖せを感謝します。」

神仏に祈るある深夜のこと、
自然と口にでたこの言葉に少々驚いた。
いつも口にしているはずなのに、
妙な違和感というか、新鮮さを感じたからだ。

私はかつて、永遠を祈り、願った。
この子たちとどこまでも歩いてゆけますよに、と、
その事ばかりに執着し、現実から目を背けた。
事ある事に神仏へ願掛けし、
永遠は最早保障された確固たる現実であると、
そう思いこもうとした。

そして、現実を知らしめる運命の時がきた。
あれから時間は流れ、今に至っている。

私はその間に何を学んだのだろう。
現実の理不尽、この世の理を憎み、
神仏にすがり、空を仰ぎ見て、
その時間を経た後に、何に気付いたのだろうか。
やっぱり、神仏への感謝であった。

大いなる存在は常に私たちを助けて下さる。
併し、それは決められたルールの範囲内でのことだ。
私たち人間がそれ以上を願ったとしても、
それは不相応な図々しさでしかない。
私は常に身勝手極まりなかったが、
それでも神仏は私と共に在った。…

それを漸く理解した今、
発する言葉は同じであっても
その背景がまるで違うので
自分でも驚くほどに新鮮に感じている。





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経を唱える意味


春の朧月夜は
この世とあの世の境界を曖昧にする。

最早、神となった死者と交わす言葉は
私の胸に沁み入り、
霧雨が深々と土を濡らして
野山の新緑を育ててゆくように、
死して尚、私の生きる根拠であり続ける。

「般若心経は生きてゆく為の智慧ではないのか?
それを死者に唱えて供養になるのか?」
そんな問いをある僧侶に投げかけたことがある。
こたえは概ねこういったものであった。

確かに般若心経は生者の為の智慧であって
死者を弔う為のものではないかも知れない。
では何故、供養に唱えるのか?
そこが先ず、そもそもの思い違いである。
あたなは死者を供養しているつもりかも知れないが、
実は死者があなたに経を唱えさせているのだ。
唱えた経は墓石に当たって跳ね返ってくるだろう?
励まされているのは、あなたのほうなのだ。






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風鈴に風が言葉を伝えてる


私が蜻蛉好きなのは、
武田家の重臣、板垣信方に由来する。

その思いが高じすぎ、
遂には蜻蛉の風鈴を買うまでに至ったのは、
子供っぽい私の性質であるので、
笑って乾杯のグラスを差し出して欲しいところであるが、
さて…

私はこの風鈴を室内に掛けている。
この季節になって
リビングの窓を開ける機会が多くなり、
畢竟、涼やかな春の夜風に
風鈴が鳴る機械が増えたのであるが、
その何気ない音色が、時折、
私の心に流れる様に滑り込んでくる。

他との違いが
はっとするほど明確に感ぜられる。
私はそれを
花とそらの語りかけだと信じている。

現世では最早、直接の交信の手段を失ったので、
自然の風に乗せ、風鈴を通し、
花とそらが静かに語りかけてくるのだ。

それは果たして気のせいであろうか、
願望であろうか、夢であろうか。
それとも、稚拙な感傷でしかないのか。

それらをやんわりと否定する
確固たる何かが私の中にはあり、
ふと、頬を緩めて花そらに話しかけてみる。

風が蕭々と吹き抜けるばかりの朧月夜。
信ずるところに現実が在る。







* タイトルは、何処かの俳句コンテストでの小学生の作品を本歌取りしたものです。


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現実を補完する


前回からの続きです)

はたして
あのペンダントにはどんな背景があったのか?
何にもないでは、
あんなに張り切っていた新九郎君が報われませんので、
ここはひとつ、何か考えてみましょう。



男女の名前や日付が刻印されているのですから
ただ事ではありません。
その日付はきっと大事な記念日でしょう。
結婚かも知れないし、出会いの日かも知れない。
いずれにせよ、形にしなければならない程の
重大な出来事があったはずなのです。
それが放置され、回収もされないとなると、
そこに何かの意味があるのかも知れない。
もしかしたら、背景には、
悲しい別れなどがあったのかも知れないのです。

仮にですが、
二人はこの地で出会い、そして結ばれた、としましょう。
併し、その直後に戦争が起こったとします。

sora scaredそら「初っ端から妄想爆発ゥゥッ!」


やがて男は
遥かロシアの地へ出征することとなり…

hana hatena花「いきなり訳がわからんのじゃが?」


仮にです、仮に。

で、
数年して戦争は終わり、女は男の帰りを待ちました。
ずっとずっと、待ち続けました。
併し遂に、男が帰ってくる事はなく
女は意を決して
軍当局へ、男の消息を尋ねに行きました。

sora mumuそら「はぅぅ・・・!」


女を待っていたのは非常な記録でした。
男の戦死を告げられ、女は絶望の涙を流しますが、
涙を拭いたその両目は強い決意に満ちていました。
「こんな事があるハズがない!
私にはわかる、彼は生きている!
私は彼を探しにゆく…!」


hana ordinary花「なんかどっかで聞いた話じゃがなwww」


男の生存を信じ、必ず再会するんだという女の執念は、
遂に男を探しだします。
ずっと想っていた、ずっと求めていた、
男の生存だけを信じて、ただそれだけを心の支えにして、
今までこうして生きてきたジョバンナの苦労、
それが遂に報われる、かと思われました。

hana ordinary花「ジョバンナって云っちゃってるしwww」

12JAN09 218そら「ソフィ・・・ ジョバンナしゃん!!


遥か、遠いロシアの地でジョバンナが見た現実は…

戦争を生き延びた男(仮にアントニオとしましょう)が、
現地の女性、そして子供と、倖せに暮らしている姿でした。

26MAY10S.jpgそら「なんでしゅってぇっ!?」

05FEB09 039 SORA iyadeshuそら「ジョバンナしゃぁぁんっ!!」


アントニオは生きていた。
でも、もう二人の道が永遠に交わる事はない。
帰りの列車の中、
絶望に身も心も疲れ果てたジョバンナ。
光を亡くしたその瞳に映ったのは、
車窓の外に、何処までも、何処までも広がる、
ひまわりの花畑だったのです。。

hana ordinary花「ちょっと、これwww」



こういった話が(仮に)あったとして、
更に、ジョバンナとアントニオが出会ったのが、
新九郎君が落とし物係を務めた例のイベントだったとしましょう。

悲しい現実をつきつけられたジョバンナが
どういった行動をとるか?

もうおわかりでしょう。

二人の出会いの場所へ、
凡てを返しに来たのですよ。
ペンダントをこの地へ捨てる事で、
過去との決着をつけたのです。

それが、ジョバンナが未来へ向けて歩きだす
小さな一歩になればいい、と、
そう考えながら、何故か私が涙ぐんだりしていて
我ながらこの妄想の才には恐れ入ります。

hana ordinary花「それ、ソフィア・ローレンの「ひまわり」じゃがなwww」

sora mumuそら「ジョバンナしゃんでしゅ!」


まぁ、いろいろな説があるとは思いますが、
これがこの件の真実… かも知れませんね。


sora face1そら「知れないでしゅね…。」

hana uhe花「なんか痛い人らがおりよる…。」











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