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オフィーリア


先日、
スズメさんたちに炒り玄米を提供している話をした。

前の日に出しておいたお米が
次の日には無くなっている。
空のお皿を見るたびに、
なんだか手紙のやり取りをしているような
妙なくすぐったい気分になってしまう・・・
などと書いた。

千代、千代、と囀りながら
幸せそうに食事をするスズメさんたちの姿は
私を幸福にしてくれる。

敬愛の念を込めて
彼らを「チュン吉さんたち」と呼んでいる。
チュンノ進、チュン太郎、チュン兵衛、
どれもしっくりこない。
チュン吉さん、これが一番語感がいいので、
もう皆をまとめて「チュン吉さんたち」と呼ぶのだ。

スズメはどこか和風だ。

さて、この季節、我が家にはヒヨドリが飛来する。
漂鳥と種別されるヒヨドリは
春になると去り、冬になると帰ってくる。
冬はヒヨドリとの再会という楽しみがある。
好物は果物。

ヒヨドリたちはまとめて、
「オフィーリア」だ。
大きな個体、小柄な個体、
みな「オフィーリア」。
~たち、は付かない。

優雅でいて迫力のある体躯。
逆立った頭髪がワイルドでありながら
どこか気品のある羽毛の凛々しさ。
ヒィィィィィ!という叫びのような囀り(?)が
また独特で愛おしい。

ヒヨドリのオフィーリアは食事の作法も極端で、
輪切りにした蜜柑に
ついばむ実があるうちは
チョコチョコと上品に食しているが、
なくなってくると皮を食いちぎって
辺りに放り投げる。
このギャップがまた良い。
マナーに縛られた欧州の姫が、
時折垣間見せる癇癪の素顔、といったイメージだ。

こちらは西洋の貴婦人。

チュン吉さんたちとは一年を通じての付き合いだが
オフィーリアとの交流は冬の間だけだ。
今をゆっくりと楽しもうと思う。



読んでくださった方、ありがとうございます。


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新九郎譚 「名刺」


我らが新九郎君は米国人ばかりの職場で働いています。
右も左も米人だらけで
新九郎君が唯一の日本人でありますので、
日本の組織と取引がある時は
新九郎君が米人たちを引率せねばなりません。

ある時新九郎君は、
新任の米人とその部下を連れて
日本のある組織に着任の挨拶で
出向したのですが、
今回はその時のお話です。

この米人の方、大変真面目な性格で、
とにかく相手に対する尊重の意思を全面に、
日本人的な奥ゆかしい慇懃な態度で接しますので
当然日本人ウケも良く、
あっという間に打ち解けてしまって
新九郎君も、先ずはほっと安心です。

なにしろ、出発前にお辞儀の角度までおさらいするほどの
真面目っぷりですので、へまを踏むような真似はしません。
彼の所属する組織のモットーである
「一人ひとりが外交官のつもりで接せよ」
を忠実に実践し、
日本人側が、ほぉ、とため息をつくほどの
折り目正しい礼儀正しさには
思わず新九郎君も見とれてしまったとのことでした。

挨拶からお互いの経歴の話を経て簡単に今後の話をし、
そして流れで雑談、と、一通りのコースをこなして、
さぁ帰ろう、となった時、
この米人さん、すわ!と、日本社会に欠かせない
一大イベントを思い出して、さっと懐に手をいれます。
そうです、名刺交換を忘れていたのです。

あぁ、そういえば名刺を作ったようなこと云ってたっけ。…
新九郎君は司会進行的な役柄ですので、
いやはや実は、と話を切りだして
米人が名刺を作ってきたことを日本側に伝えます。

ほぉと皆さんが笑顔のなか、
さっと取り出したる米人の名刺に新九郎君は絶句します。
しまった!先にチェックしておくべきだった!

なんとそれは、チープな紙にプリントされてハサミで切った
一目でホームメイドとわかる手作り感たっぷりの一品で、
その米人の立場にそぐわない事、甚だしく、
しかも輝く笑顔で「片手」で差し出しています。

両手!両手!
と、新九郎君が小さく鋭く助言しますが、もう既に遅く、
名刺はすっかり受け取られて、交換の段階にはいっています。
しかもその隣では、お付きの若い部下が、
名刺を持っていないかわりに握手の手を差し出して
日本の偉い人とガッチリ握手までしちゃってます。

新九郎君、もうすっかり慌ててしまったそうですが、
しかしこれが意外とウケたようで、
場はますます和気あいあいの楽しい雰囲気になったとのことでした。
異文化交流というのは、型にはまったやり方に沿うのではなくって
こういったギャップを楽しむのも一つの面白さ、などと、
無関係な私は大笑いしたのでしたが、いやはや、
新九郎君、いつもお疲れ様です。
そして、いつも面白いネタを提供してくれてありがとう!




読んでくださった方、ありがとうございます。

道程


ある試験でなかなか満点が取れない。
のこりあと5点、10点のところまできているのだが、
その最後の詰めが甘いようで
どうしても点数は980点台にとどまっている。
ちなみに満点は990点、取れない数字ではない。

休日はとにかく試験勉強、
最後の詰め、ほんのわずかな水漏れというか、
小さな補強を行う為に励んではいるのだが、
なにしろ範囲が広いのでどこにヒビがあるのか
はいつくばって探しては補強、探しては補強、といった
そんな具合で、どうにも気が遠くなりそうだ。
イメージだと、見上げるような巨大ダムの壁面にへばりつき、
細かな補強をしながら完璧を目指す、といったところだ。

ダムの壁面と完璧とうまく洒落たつもりだが、
そもそも完璧という言葉は
藺相如が和氏の壁を
秦より無事に持ち帰ったエピソードに由来する。
当時の強国、秦の要求を無下にすれば、云々々々・・・

hana ordinary 花「突然どうした? www」

sora scared そら「何があったでしゅかっ!?」

あぁ、すみません。
知ってることを喋りたかっただけです。

・・・・・・・・・

私の学問を支えているのは
「努力とは、才なき者にとっての唯一の味方」
「努力とは即ち人生の充実」
といった、
これら数々の幸田露伴の教えであり
人生のどの一点に於いても
微塵の疑いすら持ったこともない。

しかし、さすがにこうも道程が長く険しいと、
途中、息切れにあえぐこともある。
暮れの青空を眺めながら、
この美しい空にぽつんと舟を浮かべたい、
などと、どこかの文士のような独り言を呟き、
ほぉとため息をついたりするのである。

そうして、鏡に映った自分の姿にうっとりと
敬礼をし、漸く私は・・

hana happy 花「うぉぉぉい!? www」

12JAN09 218 そら「ますます誰かになってきたでしゅ~!」

また脱線してしまいました。


まぁ、要するに今ちょっとスランプ気味なので、
暮れの大掃除でもして
建設的な一日を送ることとします。

勉強はいつでも出来ますが、
暮れの大掃除は季節イベントなので
今をやり逃すとまた来年になってしまいます。

さて、では、どっこいしょっと。




読んでくださった方、ありがとうございます。


深い森の中にぽっかりと開いたその広場には
森の鳥や動物たちが集まってきます。
皆それぞれ、果物や野菜、木の実を持ち合って、
困っている者に分け与えるのです。

ある時、私は、広場に向かって歩いていました。
傍らを一羽の鳥が飛んでゆきます。
嘴には、小さなナンテンの実をくわえていますが、
広場に入った瞬間に、ナンテンの実は、
立派な林檎に変わりました。

「今日、おかあが会いに来てくれたよ。」
私の足元には、小さな白い猫が座っていました。
子猫は語りかけてきます。
「おかあに会ったよ。」

私は不憫な子猫を抱き上げて
そっと頬ずりしました。
あの冷たい夜に凝っと体を寄せ合っていた
猫の親子。
一人になった子猫を
母猫はいつも見守っているのでしょう。



読んでくださった方、ありがとうございます。

ピアノ


ピアノの音は実に不思議で
鍵盤をポーン、ポーン、と
叩いて出すだけの音であっても
深みと上品な響きがあるのだから、
そこから編み出される楽曲となると
これはもう芸術である。

ピアノの響きには高貴な威厳がある。
格式高い西洋の建築物のようだ。
しかし同時に、
純白の百合の繊細さも併せ持つ。
もっと云うなら、
銀のドレスを着た美しく気高い貴婦人、
神々しい宗教画の持つ神秘、
どこまでも行きつく先がないが、
こう考えているうちに
もしもピアノが弾けたなら、などと
思わずため息が漏れてしまう。

hana ordinary花「その歌い手に貴婦人要素は欠片もないがのww」

コピー ~ 05FEB09 039 SORA iyadeshuそら「歌い手の話じゃないんでしゅってば!」


このように私は、
ほとんど信仰と云ってもいいほどに
ピアノの音を愛している訳であるが、
特に好きなのは
休日にご近所から聞こえてくる
ピアノの練習の音だ。

たどたどしいのに味がある。
たまに間違えるのに趣がある。
優雅なクラシックから、いきなり思い立ったように
となりのトト■を弾き始める
あの切り返しがまた素晴らしい。
人が弾いている、
血の通った生きた音、まさに生演奏、
演奏の向こうに人がいる、
その存在が音楽に命を吹き込むのだ。
CDの機械的な音からは感じられない
生命の鼓動がある。

私は常々、
芸術とはその背後に
「人の鼓動」を感じられてこその芸術と考えている。
例えば、ゴッホ。
あのグネグネした真っ黒な木の枝、
その背後にはっきりと見える彼の苦悩を思うと
胸が苦しくなる。
一連のゴヤもそうだし、モネのカミーユもまた然り。
ドフトエスキーの苦悩、若きゲーテの悩み、
宮沢賢治の理想郷の背後にみえる悲しみ、
芸術からは確かな現実の「人」が感じられる。

hana ordinary花「苦悩ばっかじゃん!?www」

sora scaredそら「となりのトトロはどうしたでしゅかっ!?」


まぁ、その・・・
それが苦悩であれ希望であれ、
明るい音楽の喜びであれ、
とにかくですね、人の息吹の感じられる作品に
ジャンルを問わず、私は芸術を感じるのです。

休日は部屋に閉じこもって
一日中勉強しているのですが、
そのBGMに聴こえてくるピアノの音色に
いつも癒されているので
その感動を書きたかったのですけど
何だかまた、まとまりのない文章になってしまいました。



長文になりました。
読んでくださった方、ありがとうございます。


年月


布団の中で、ふと思った。

年齢を重ねてゆくことは
連続する損失を意味する。
つまり、これから先の人生は失くすことばかりなので、
その現実に自分は耐えられるのだろうか、と。

たとえば、若いころから続けてきたボクシングだ。
もう若い人たちの指導をある程度任されているので
ミットを受けたりしている。
先日も、何人もの若者をマンツーマンで指導した。
育成は楽しいものだから、その日はそれで大いに満足して
清々しいほどの満足感で帰宅した。
しかし、だ。
私が本当に好きなのは、
かつてがむしゃらに拳を振るったあの若き自分なのだ。
その自分は、今は失われた。
しかしこうして、今でもリングでしっかり動けているではないか。
そう自分に言い聞かせても、
今はこうして動けているがこの先どうなるのだろう、などと、
どうしてもネガティブになってしまう。
損失とはどうにもやっかいなものだ。

まぁ、これが現実である以上はどうにもならないのだから、
これから先の人生は
どう向き合ってゆくか、に集中しなければならない。
なるほど、私の答えはもうでている。
禅である。


読んでくださった方、ありがとうございます。

写真


写真を撮ることは保険のようなもので、
後からいくらでもその光景を見返すことが出来るという油断から、
その瞬間にその光景に出会った感動を
おざなりにしてしまう恐れがある。

現実のその、
実体験で感ずる衝動は
その瞬間にのみ感ずることが出来る
刹那的なものであるからこそ、
消えてしまう前提だからこそ、
重大な価値があり意味があるのだという。

だから、その瞬間に集中する為にも、
写真は撮るべきではなく
現実世界のリアルを感ずることに
全身全霊を向けてもらいたい、と、
そいういった内容のある高僧のお話を聞いたことがある。

なるほど。
それも一理ある。

しかし、写真というものは実に偉大で
その時、その時の空気をそのまま密封して
遺すテクノロジーだと私は思っているので、
全面的に同意は出来ない。
琥珀に閉じ込められた白亜紀の生物のようなもので、
確かにその時、そのままの時間を
閉じ込めて保存するのが写真なのである。

過ぎ去った時間、
去っていった人たち、
みんながかつてそのままの姿で、
写真の中にあるのだ。
その時の感情や思いや愛おしさや切ない気持ちや、
何十年も前の自分そのままが蘇ってくる。

全てを失くした現実と照らし合わせれば
それは残酷な凶器にもなりえるが、
かつて存在した倖いが確かにこの手にあったという
その証拠を、
この目で確認したくなるのが人というものだ。

私は今夜、
この写真を抱きしめて涙を流そう。
しかし明日は、
現実の世界の太陽のもとを
胸を張った大股で歩いて行こう。



読んでくださった方、ありがとうございます。

嵐の中にこそ平穏


嵐の中にこそ平穏。
実に上手い言葉だ。
流石は私がスーパースターと敬愛する太宰治だ。
核心をつく言葉をさりげなく織り交ぜてくる。

実はこのところの勤務の難しさに
もうウンザリして疲弊しているのであるが、
ふとこの言葉が目に留まる機会があった。
嵐の中にこそ平穏。
今のこの勤務は嵐。
その嵐も、ずっと遠い未来から見返した時には
きっと懐かしく思って同時に
もう帰れない日々に切なさを感じるかも知れない。
この嵐そのものが平穏なのかも知れない。

嵐の中にこそ平穏。
嵐の向こうの晴れ間を見越しての意味もありそうだ。
嵐に立ち向かい、乗り越えた時には
格別の思いを感じることができる。
私は今、嵐の向こうの晴れ間、
平穏がより一層に際立つ晴れ間に向かっている。(はず)

嵐の中にこそ平穏。
今この時、その先、全てが平穏。




読んでくださった方、ありがとうございます。

熊野を思う


熊野の旅の思い出は私の心をすっかり支配して
その思いは薄れるどころか
時と共にどんどん強くなってゆく。

この懐かしい感じは何だろう。
人生のある一点に於いて感じた夏草の香り、
帰るべき家と家族の食卓。
人生の終焉どころか
過去にも現在にも未来にも、
何に対しても不安も恐れも慄きも感じず、
損失の恐怖など微塵も知ることのない
雲のように自由な子供の時代。

山は高く、川は力強く、
見るもの全てが私の背丈を遥かに超える存在、
そんなちっぽけなハズの私が感じた
何の心配事もない万能感。
小さな子供の無力を自覚しつつ
その責任を年齢のせいにして
安心して大人に頼っていた日々、
何も考える必要がなかった。

私は、熊野で山の斜面を滑空した。
山道を駆け回る子供の私を眼下に、
今は風となった花そらと一緒に
広大な青空に溶け込んだ。
そのまま消えてなくなり、気が付いたら
夜の熊野を汽車に乗って旅していたのだ。
そして今、また、ここにいて、
遠い熊野を思っている。





夜の闇をゆく車窓の光はぼんやりと暖かい

31AUG19 - 01SEP19 KUMANO 1 033a








読んでくださった方、ありがとうございます。

スズメとの会話


何年もスズメにご飯をあげている。
玄米を炒った、所謂、炒米というものだ。

炒米とは、戦国時代のMRE(戦闘糧食)で、
そのままポリポリと食べることも出来るし、
お湯に浸せばご飯にもなるという便利な携帯食だ。
似たもので、干飯というものもある。
とにかく、立派な食べ物であるのだが、
家の近所のスズメさんたちは
贅沢にもこの炒米を食していらっしゃる訳だ。

朝、雨戸を開ける音に反応して
スズメたちは集まってくる。
炒米をお皿に移す間、
お隣の屋根に列を成して
行儀よくこちらの様子を伺っている。
千代、千代、といって鳴くが、
早よせい、早よせい、と云っているように聞き取れる。

中には待ちきれずに
周囲を飛び回っている者もある。
バサバサバサという羽音が聞こえる。
空気を掻く音。
鳥の運動量とはこれほどであるのか、と驚く。

室内に入って窓を閉じ、カーテンを閉めると、
スズメたちの食事が始まる。
幸せそうな穏やかな囀り。
時折の、チチチチ!と激しく鳴く声。
自分がスズメたちの人生の一部になったような、
そんな甘い錯覚に心が安らかになる。
平穏とはこういったことであるか、などと
一人うっとりとする。

出勤が早い日、辺りがまだ真っ暗のうちに
炒米を準備する。
スズメ達の姿は見えない。
見上げた空に月。

月は一人気高く煌々と世界を照らし、
私は勤務前の緊張に身を震わせる。

翌日の朝、
炒米を準備する為に庭へ出る。
前日、確かに丘を成していた炒米は
綺麗になくなっている。
空中に吊るしたお皿だ。
スズメさんたちが食さない限り無くなることはない。
ハタハタと飛んで集団で集まってくる
彼らの姿が目に浮かぶ。
米粒をついばむ姿が目に浮かぶ。
新しく炒米をお皿へ。…

私たちは確かに交流している。
空になったお皿を見るたびに、
なんだか手紙のやり取りをしているように感じて
愛おしい気持ちに身震いしそうになる。

月は笑って見下ろしている。




読んでくださった方、ありがとうございます。

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