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永井路子さん


最近、永井路子さんの「乱紋」という小説を読んでいます。
浅井三姉妹の末っ子、お江さまが主人公の歴史小説です。

お江さまといえば、甲斐武田家の恵林寺から
石棺が発見されるなどあって、
恐れながらご縁を感じるところがあり、
しかも作者が永井路子さんということで
飛びついて購入したのがこの本なワケですが・・・

hana face1 花「あの恵林寺の件は本当に驚いたがな~。」


hana bikkuri 花「いっつも何気に通り過ぎていたあの大きな石の工作物が・・・」

sora mumu そら「まさか石棺、しかもお江さまのものだったなんて・・・!」

あれには本当に驚きました。



で、この「乱紋」ですが、
これがもう、読み進むのが楽しくって、
そもそも読書は勉強の合間にしているのですけど
休憩の時間をうっかり超過してしまうほどに
大いに入り込んでいます。

お江さまの人生や小説の内容についての説明は
ネット上の、私などより数段優れた学問の士にお任せするとして、
ここで強調したいのは、永井路子さんの
文章の美しさと言葉遣いの上品です。

人の紡ぐ文章というのは
何かとその人の人格や人生が現れるものだと思います。
例えば、三島由紀夫の文章には
格式や格調の高さがにじみ出ていると思いますし、
なによりあの計算された構成力や
確信に満ちた完璧な説得力には
瞠目どころか、五体投地までしてしまいそうなほどに
もう私は崇拝してやまないというレベルなのです。

hana ordinary 花「ユッキー好きだよねwww」

sora kyupi そら「不道徳教育講座は人類必携の書でしゅ!」


まぁ、ユッキーはいいのですが、
永井路子さんの文章は、先にも云いましたが
実に上品です。
私は「北条政子」から永井さんに入門したクチですが、
その後も数々の作品を読破しつづけ、
なぜか(よりによって)「乱紋」だけは読む機会がなかったのですけども、
この作品は特にその淑やかさ、
古き良き大和撫子というべきか、古風な雅というべきか、
言葉遣いやちょっとしたユーモアに
新鮮な衝撃を感じるのですね。
現代の平均的な女性とは
明らかに一線を画しています。
折り目正しい、それでいて愛嬌のある、
こういったお人柄が読み進める文章から伝わってきて、
「やめられない、とまらない~♪」という
ひと昔前に流行ったフレーズがピッタリくる印象です。

hana ordinary 花「ひと昔?www」

コピー ~ 12JAN09 218 そら「かっぱ〇びせんの「かっぱ」って、何なんでしゅか~!?」

だいたい何やってもそうなんですけども、
女性のほうが品があるんですよ。
サッカーやボクシングをみたって
女性は力まかせの暴力的なラフプレーはほとんどありません。
スピードとテクニックで勝負します。
見ていて不愉快になるような、
感情的な報復的振る舞いもありません。
正々堂々、実に清々しいのです。

hana ordinary 花「急にどうしたッ!?www」

小説だってそうなんですよ。
理不尽な暴力の描写も稀であるし、
不愉快になる要素が男性作家にくらべて少ないように感じます。

SORA smile 11AUG09 028 そら「もちろん、個人の感想でしゅ!」


そういった意味では、
安心して読み進める割合が高いと思います。
それに、妙に攻撃的な作者の言い分なども少ないので
読み手が困惑することも少ないように思います。
永井路子さんの作品はどれも上品、紳士淑女の模範的な規律正しさ、
歴史小説であるからには
もちろん不条理な場面もあるけども、
それにしたって必要以上の攻撃性や悪趣味な描写はなく、
どこまでいっても、なにがあっても品性に満ち溢れているのです。
畳の上にきちんと正座した着物の女性、といったイメージですね。
しかもその表情は、毅然としていながらも優しい。


さて、歴史を語る女性作家といえば、
三浦綾子さんについても触れなければなりません。
こちらは、また、違う魅力のある作家でして、
なんというか・・・ 切羽詰まった危うさを感じます。

触れれば一瞬で粉々になりそうな
薄いガラスのステンドグラスのような繊細さ、
いえ、もはや割れて散っているかもしれません。
破片に触れれば
小さいけれども深い傷が出来てしまいます。
流れる血は止まるところを知らず、
その紅で綴った血文字の文学。

追い詰められた切迫の文章だからこその真実の響き。
これが私のもつ三浦綾子さんの印象です。

どうにも長文になってしまったので、
また次回にしましょう。
思いつくままに書き散らしていいる文章なので
いつもまとまりがありません。


読んでくださった方、ありがとうございます。
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御心のままに


時間薬は確実に効くけども、
悲しみの渦中にあっては
時間というのは驚くほど進まない。
本当に驚く。驚愕する。
まだ5分たってないとか、そういうレベルだ。

一年二年先の未来を切望して
茫然と天を仰ぎ続ける毎日が続くと思うけども、
一度加速がついた時間は、
今度は驚くほど速くなる。

何度も云うが、
時間薬は唯一無二の確実な希望である。
時間の経過とは、象の歩みのように確信に満ちた絶対の前進である。
ありのままの自然とは、決して裏切らない救いである。


「御心のままになさしめたまえ」
最後にこの言葉を記そう。
時間の経過を待てず、
苦しくてどうしようもない時にはこう呟くとよい。






読んでくださった方、ありがとうございます。



今のままで良い


前回、時間薬の話をした。
ついでというワケではないが、
喪失の苦しみについては
まだ云いたいことは続く。

前回の最後に、踏ん張れ、頑張れと書いたが、
誤解を避けるために補足する。
無理をしては時間薬の意味がなくなるので
自力で前進しようとしてはいけない、
これは云っておかねばならない。
踏ん張れと書いたのは、「ただひたすらに耐えろ」という意味だ。
なにもせずに、ただひたすらに貝のように耐える。

時間薬というのは、あくまでも自然療法だ。
自然のなりゆきに、要するに時間の経過にまかせて、
ゆっくりと回復してゆくのが大前提だ。

その中にあって、無理にもがくことは
薬効を妨げることに繋がる。
羽化したばかりの蝶々がいるとしよう。
サナギから出たばかりで、
まだその羽はシワシワに濡れている。
早く乾かしてやろうとドライヤーをかけたらどうなるだろう。
決して良い結果にはならないハズだ。
美しい羽根でもって飛び立つためには
ゆっくりとした時間の経過が必要なのだ。

「早くわすれなきゃー」
「もう前進しなきゃー」などと、
悲しみに打ちひしがれる人に無責任な言葉をかける者がいるが、
こういうのは正直迷惑だ。
なぜ迷惑かというと、こういったことは大概、
ちょっと良いことを言った風の
自分に酔いたい者たちの自己満足でしかないからだ。
悲しみを知らない者の言葉だ。
そもそも、なんで早く忘れたり前進したりしなきゃならないのか。
まったく意味がない。

悲しみを振り捨ててまでする前進に意味はないのだ。
エンジンの調子が悪い車を無理して動かしていたら
必ず壊れるのと同じことだ。
機械は修理できるが、人の故障は深刻なのだ。
歩けない者の背中を押すような真似は
決してしてはならない。
必要なのは、寄り添うこと。
一緒に座り込んであげること。
寝込んだっていい。
酒をかっくらったっていい。
やりたいようにやらせてあげて、
一緒にいてあげることが周囲の者に出来る唯一のことだ。

喪失の苦しみが大きいのは、
それはそのまま、その人のもつ愛の大きさだ。
まずはそこを理解せねばならない。
だからこんな長期を苦しんでるんじゃん、というワケなのだ。

今のままでよい。

・・・どうもこのままだと、
まだまだあと一万八千字くらいは
ダラダラ書き続けそうなので、
ここらでペンをおこう。
云いたいことはつきない。



読んでくださった方、ありがとうございます。

時間薬


前回、時の経つのは早いと述べた。

そうだ、時間は過ぎる。
時間は確実に過ぎるのだ。
そして、時間は決して裏切らない。
今こうしている間にも確実に進行している。

時間とは単なる概念で云々とか
難しい話はいろいろあるようだけども、
体感として、
この世で唯一絶対確実なものが
時間の経過であることに間違いはない。
断言できる。

なぜこれほどまでにしつこく力説するのかというと、
これがまさに、今、悲しみのさなかにある者にとっての
唯一の絶対確実な希望であるからだ。

「時間薬」という言葉がある。
苦しみとは時間の経過と共に薄らいでゆくものト、
その事実を端的に表したわかりやすい言葉だ。

どんなに今、
胸をかきむしるくらいに、
崩れ落ちて啼泣するくらいに、
自分をコントロールできないくらいに
悲しみに苦しみ、もがき、耐えがたい痛みに
絶望しているとしても、
それでも、
時間の経過はその苦しみを和らげてくれるものだ。

決して即効性のあるものではない。
ゆっくりした象の歩みのようだが、しかし、
確実に、着実に、よろめきながらだけども、
現実的な絶対の事実として
徐々に徐々に効いてくる。

「時間薬」
唯一無二の絶対の薬効。
それを表した実にわかりやすい救いの言葉がこれだ。

時間は確実に経過する。
苦しみもそれに伴って減少してゆく。
太陽と和解の握手を交わせる日は必ずくる。
それまでは、神仏や身近な人に頼ってよい。
今まさに苦しみの渦中にある方があれば、
必ず訪れる未来を見据えて踏ん張って欲しいと思う。



読んでくださった方、ありがとうございます。

9月17日


2013年の9月17日は、
私たちの人生を一変させた運命の日だった。

その年の6月8日にそらが旅立ち、
それから私たちは一生懸命に花を守って生きた。
そして運命の9月17日だった。
今思うと、あの時の喪失感と絶望感を
よくも耐えたものだと思う。

武田のお不動さまの前に座して
動けなかったあの日、
あの燃える瞳の奥のお慈悲に
すがるしかなかった。

あれから8年が経った。

時の経つのは早い。




読んでくださった方、ありがとうございます。

「ザ・コクピット」その2


その「ザ・コクピット」であるが、
前回いろいろと書いたが
実はまだ全巻を読み終えていない。
それどころか、半分もいっていない。
全5巻のうち、ようやく2巻を読了して、
3巻にちょっとはいったところだ。
一気に読み進むものではないと
作品を知っている人ならわかると思う。

それはいいとして、
面白い話があった。
そのエピソードはなんと、松本零士自身、
つまり漫画家が語り部的なポジションで登場する。
彼は、
「漫画家は真実を伝えるがそこに創作を混ぜる。」
といった意味合いのことを云っていた。
確か複数回口にしたと思う。
前回のブログで私が書いたことと
内容的には同じなので、
なんだかとても嬉しく思ったというワケであるが・・・

漫画の良いところはここであると思う。
事実や史実をありのままに伝えるのは
漫画の役割ではなく、
それをいかにドラマチックに見せるか、
事実を曲げずに、いかに飾りたてるか、と、
これが漫画の仕事であるように思う。
ストーリーテラーとしての技術が求められるのだ。
裸のエビが立派な天ぷらに仕上がるのと似ている。
そこには創作があっても構わない。

松本零士の漫画はその根底に
男のロマンや美学があり、
そのうえで構築されるストーリーは
ある種の潔さに満ち溢れていて
登場する人物も高潔で迷いのない者ばかりだ。
それはそのまま、
モデルとなった人間たちへの敬意へつながるとおもうが、
これは重要だと思う。

この漫画は昭和40年代から50年代にかけて発表された。
当時の男の子たちは、もちろんワクワクやドキドキ、
戦いの高揚を感じながら読んだものだと思うが、
心のどこかに、きっとそれ以外の感情もおぼえたに違いない。




読んでくださった方、ありがとうございます。

ザ・コクピット


松本零士の「ザ・コクピット」という漫画を購入した。
これが実に素晴らしかった。
昭和四十年代の古い作品なのだが、
それだけに、
古い時代独特の、人の手作業で作られた温かみがあり、
これだけでも読む価値があるように思う。

今の漫画が工場で量産される幾何学的な工業製品なら、
昔の漫画は職人手作りの不揃いな工芸品といった趣があるように思う。
勿論、個人の勝手な感想だ。
そして当然、どちらも素晴らしいことに変わりはない。

それはまぁ、いいとして、
今回は、大人向けの劇画とティーン向けの活劇の
ちょうど中間といったこの作品について
語ろうと思う。

時代的に、作者は生きることや死ぬことを身近に感じてきた
世代でいらっしゃるので、
その経験から描かれる内容は
自ずと現代の漫画とは違ってくる。
プラスチックの質感のような作り話ではなく、
血や皮膚や生き物の匂いといった、有機的な何かが
織り込まれているように感じるワケだが、
(ちょっと云い過ぎかも知れない)
そこに松本零士独特の「男のロマン」が加味されるのだから
当時の所謂「男の子」にはたまらないものだったに違いない。

絵についても、
手書きの温もりが伝わってくる、
古き良き、人の手と汗と涙と感情が塗り込まれているような、
そんな作画で、
良い意味でのアナログな様相だ。
まさに、紙とインク、
紙の繊維にインクが染みて
線の生命を描き出す、といった趣だ。

現代の作品にはこういった雰囲気はないように思うが、
そこは、技術や道具や、
なにより表現したいテーマが違うのだから
違いが生じるのは当然だと思う。
どっちがどうとか、そういう話ではなくって、
種別そのものが違うのだ。

話が逸れつつあるので、
ここらで作品の内容について語ろう。

この「ザ・コクピット」、タイトルの通り、
乗り物とそれを操る人間の短編集であり、
コクピットというからには
それはもう、戦闘機の操縦席が主な舞台となる。
戦車や単車、乗り物が全く関係ない話もでてくるが、
主役はあくまでも戦闘機である。(ハズだ

舞台が戦場となるのは必然であるので、
それぞれのストーリーでは
深刻な事情が描かれることになる。
漫画という表現方法なのでヒロイックな描写もあるが、
そこがまた、一層この作品の
漫画としての完成度を高めているように思う。
ドラマ性を切り取って強調するのは
漫画の漫画たる所以であるからだ。
そして、松本零士という人はその第一人者であり、
ロマン、男の高潔を描かせたら
今でもトップクラスであるに違いない。

さて、ヒロイックなどと述べたけれども、
これは的確でないかも知れない。
何故なら、この漫画にヒーローは登場しないからだ。
皆、名もない一人の兵士で
しかも、人知れずひっそりと死んでゆく描写が多い。

「西部戦線異状なし」というドイツの小説で、
主人公が戦死した日の軍の報告書が
タイトルのこの一文で締めくくられていたのを思い出す。
一人の兵士の死は、大局を鳥瞰する目でみれば
こんな風に「異状なし」と一言で断言されて、
処理済みの引き出しに放り込まれる、というドライな現実を表現した
悲しく切ない場面である。
しかし、人の人生の終わりはそんな雑に整理されるほど
軽いものではないハズだ。

そこで創作は、大局ではなく、戦場の兵士一人ひとりの
感情、過去、勇気、弱さ、歩んできた人生に焦点を当てる。
歩んでいる人生に突然の理不尽な終わりが訪れるその瞬間を描く。
そこには、ドキュメンタリーでは語られない確かなドラマがあったハズで、
そのドラマを劇的に描くことが創作の役割なのである。

「ザ・コクピット」の一連の短編作品、
それぞれラストシーンは、必ず短い文章で締めくくられるのが
パターンとなっているが、
死者と、打ち捨てられた機械に対する作者の愛情が
深く感じられる名文が多く、ここが非常に読み応えがあるところだ。

たとえば、一つ紹介したいのが桜花が登場する話での一文であるが・・・
むしろ、その一文を紹介したくこの稿を書きはじめたのであるが・・・

どうも今回はダラダラと長く作文しすぎたので
また次回に語りたいと思う。
夜が更けすぎてしまった。



ここまで読んでくださった方、ありがとうございます。

マスクと中島みゆき


マスクは煩わしいものではあるが
良いこともある。
車の運転中に熱唱していても周囲にバレないという点だ。
以前、車内である歌を熱唱していたら
横断歩道をゆくおばちゃんに大爆笑されたことがあった。
思い出しても胸が苦しくなるが、
最早その心配はなくなった。

さて、中島みゆきである。

中島みゆきの歌詞は
力強いものが多いと思う。
疲れた人を勇気づけるものであったり、
傷ついた人を労わるものであったり、
ある種の達観した歌があったりなど。・・・
内容は様々だが、
そのほとんどは人間賛歌の勇気の歌だ。
プロジェクトXのスタッフが、
主題歌を依頼するなら、これはもう中島みゆきしかない、と
断言したのは有名な話だ。

私たちの苦悩を理解し、
そっと寄り添いながらどこまでも一緒に歩いてくれる。
人生のパートナーともいうべき歌の数々。

一人の時は二人、二人の時は三人、
苦しい時も悲しい時も、幸福な時も、
常に親鸞が共にあると思え。

親鸞が(大雑把に)こんな内容のことを云っていたが、
中島みゆきの歌もこの立ち位置に近いイメージ・・・だと思う。

中島みゆきの歌に関する私の考えを述べた。
さて、こんな風なんだから、
一人きりで車を運転していたら
どっぷりとハマってしまうのは当然の帰結だ。
知らずのうちに歌詞は口をつき、
突き上げてくる何かに胸がいっぱいになってくる。

声にだして歌いたいという衝動を抑えきれない。

そんな時に便利なのが、このマスクという黄金アイテムだ。
なぜもっと早く気付かなかったのだろう。
もう、なんというか、自分を振り切って
心のままに歌うことが出来る。
涙を流していたってバレはしない。
鼻声だってへっちゃらだ。
毎日のマスクは煩わしいが、
便利なことだってあるのだ。

ちょっと車内で感動したので
文章にしてみたという次第。




読んでくださった方、ありがとうございます。


花そらが存命時はよく歩いた。
毎日近所をたくさんお散歩をするし、
休みの度に、
丹沢だ、里山だ、森林公園だ、川沿いの散歩道だ、と、
とにかく歩いた。
私たちの暮らしは冒険、冒険だったので、
靴はすぐに履きつぶしていたワケだが、
そのうちの一組を未だに履いている。

靴底が潰れて穴が開いているので
歩くと、パキュ! ポキュ!っと、
空気の漏れる妙な音がする。
ちょうど、幼児が履く squeaky shoes のようだ。
先端が剥がれて口が開いた状態にもなっていて、
なかなかの歴戦の勇士といった様相だ。

それでも捨てられぬ。

友人が見かねて
新しい靴を買ってくれるという事態にまでなった。
当然その靴は(も)履く。
実はサイズが1センチ小さいのだが、
人からもらったものは大事にせねば義理が立たぬ。
親指の爪が折れて曲がり
内部が内出血し、
小指の爪が剥がれるまで履いた。
そのうち伸びて足にフィットするだろうと思っていたが、
そうでもなかった。
大事なものなので、清掃してキチンととってある。

さて一方、例の歴戦の勇士の靴も未だ現役だ。
しかし、雨を歩くとさすがにすり減った靴底から
水が入ってくるので
雨天は履くことを避けることにした。
濡れて傷みが進行するのも避けたい。
Rain Walkerという名を冠する靴を
雨天で履けないのは皮肉であるけども
これはもう仕方ない。
ちなみにこの靴は、DMXという名もついている。
DMXといえば、我々の世代は、Darkman X、NYのラッパー だ。
先日惜しくも亡くなった。
憎むべくは、薬物。

私はこの、リーボックのRain Walker DMXという靴を
歴代履き続けている。

もうそれこそ、
最初の購入がいつだったのか、
今のペアーが何代目なのか、
思い出せないくらいに昔から履き続けている。
花そらとのお散歩だけでなく、
ジョギングにも履いている。
丹沢の登山だってこれで行くし、
富士登山(複数回)だってへっちゃらだった。

履きやすいし、丈夫だし、
軽いし、そして何よりカッコいい。
値段もお手頃、買わない理由がない。

現行履いているものは、
そろそろ本当に引退の時期かもしれない。
綺麗にして、花そらと生きた時代の証として
これからも大事にするし、
もしかしたらあの世まで履いていくかもしれない。

靴には、たくさん歩いた冒険の記憶が刻まれている。




読んでくださった方、ありがとうございます。

思い出し笑い


ある夏の日。
そらが旅立って花が一人だったので、
2013年の8月のことだと思う。

山梨のある川で花を連れて遊んでいたところ、
地元のお神輿に遭遇した。

私はその時、
花に向かって英語でお神輿の説明をした。
何故そんなアホなことをするのかというと、
これがまた面倒な説明になるので
ここでは割愛するが、
とにかく英語で話していた。
「花」も、「HANA]ではなく「HANNA(ハンナ)」っぽく発音することで、
インチキ外人になりきるのだ。
サングラスをしているし、日系アメリカ人で押し通せる。
花は、なんだか、分かったのか何だか、
すました表情だ。

その時にお神輿の行列にいた
小学生の男の子が、大きな声でこう言い放つ。

外人の犬、スゲー!!

急に思い出してクスっとしてしまったので、
ここで急遽紹介することにした次第。




読んでくださった方、ありがとうございます。

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