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家康公のドラマ


去年の暮れに残念ながら例の鎌倉のドラマが終わってしまい、
今は家康公を主人公としたドラマが放送されている。

世間の評判は芳しくないが、
流石にあのドラマと比べるのは酷というもので、
比べなければ、そこそこの内容に思えなくもない。
致命的なのは、家康公と信長というビッグアイコンが
どちらもアイドルということ・・・かもしれない。
ここはどうにも、世間の好みが分かれるところだろう。

しかし、まぁ、私はそこにあるものを楽しむ主義なので、
別に大したこだわりはない。
要は、ドラマが面白ければそれでいいのだ。
ちょっと前の、漫画みたいな忍者のシーンとか、
私は最高に楽しめた。
ゴロツキなんだけど腕は確かな忍者軍団の演出とか
もう燃えあがるシーンが連続した。
それがあっけなく待ち伏せにあって、
壊滅させられたのは残念だったが、
あの回は
情報漏洩ルートの種明かしの意外さなど
ビールジョッキを振り回しながら語りたくなるほどの
興奮の内容が満載だったと思う。

満載といえば、野村萬斎の演じた今川義元も
強烈なインパクトがあった。
雅でありながら、強者、知者の雰囲気をまとう
これぞ、東海一の弓取りトいった義元だった。
さすがに本物の役者は違うといった貫禄であるが、
この辺り、まだ未熟な松平元康をアイドルに演じさせることにより
対比させて違いを際立たせる狙いがあるのであれば、
これは・・・すごい。

まぁ、なんであれ、
ちょっとしたドタバタコメディー色の大河ドラマも
たまにはいいじゃん、と、軽く楽しみたい。



読んでくださった方、ありがとうございます。
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花粉


今年は花粉が相当多いのだそうだ。
否、多いという言葉では
表現が十分でないトいった話もあるほどで、
12倍だか何だかで、
とにかく大気は花粉に満ち満ちているらしい。
見上げる先は黄色。

ある研究者などは、
1平方センチ内の花粉を数えて
あまりの多さに仰天した、などと話していた。
しかし私が最も仰天したのは、花粉を数えるという苦行を
当たり前のように淡々と行う
その研究者の姿勢であったが、
そこはさすが科学者ト感心させられた。

さて具体的な数であるが、
なんとオーバー8000個だったらしい。
50超えで「非常に多い」判定らしいので、
これは尋常でない。
そしてやっぱり、花粉を8000も数えるという
研究者魂が、
私を最も驚かせるのだ。

私のような者が同じ作業をすれば、
おそらく途中で悶々としはじめ、
「いっそこれを一息で吹き飛ばせば気持ち良いに違いない。」
などと考えだすだろう。
奇声をあげながら
タライ一杯の水をかけるかもしれない。
もしかしたら、禅の修行のつもりで
耐える可能性も無きにしも非ずだが、
いずれにせよ
鏡のように澄んだ水の心を保てるかは怪しい。
科学とは根性でもあるのだ。
花粉の話から、研究者への敬意の話になった。

ここから今度はJAXAの話へ飛ぶ。
先日、H3がうまく作動しなかったのは不幸なことであったが、
これから原因を究明してゆくのだから、
次はより良いものが出来るだろう。
科学に於いての失敗は単なる過程である。
むしろ、ここで不具合を発見できたことは
ひとつの前進であるのだから、
現実には、
また一歩完成に近づいたと見るのが正しい。
「科学に失敗はない」とはこういう意味だ。

そしてこの格言は、
「決して諦めない粘り」を前提としていることを忘れてはならない。

それにしても、
少ない予算と様々な制限の元で、
世界と互角に戦うJAXAの研究者には
本当に頭が下げる思いだ。
他の国とは、もう環境から条件から全てが違うということを
世間はもっと知るべきだと思う。

花粉の難儀のはなしをしようと思っていたが、
話が思わぬ方向に逸れた。
花粉ごときで泣き言を垂れ流すことはできない。
垂れ流すのは鼻水だけで十分だ。
研究者の崇高な姿に敬礼しつつ、
私もまた、今日を全力で生きねばならない。





読んでくださった方、ありがとうございます。

習慣


慣れとか習慣とかいうものには注意しなければならない。
特に、私のような無精者は尚更だ。
うっかりすると、
いつの間にか楽なほうへ流されていて
しかもそれに気づいていない。
自分では懸命のつもりでも
実は楽をしていたトいう
恐ろしい例を書き留めておく。

私は趣味でボクシングをやっていて、
それは、まぁ、未だにお粗末なものではあるが、
不器用は不器用なりに、
一生懸命とか一途で熱心とか、
せめて、そういった面では頑張ろうと思って
「常に全力」をモットーに踏ん張ってきた。

さて先日のこと。
自分のサンドバックの打ち方をチェックしようと思い、
動画を撮ってみた。
シャドーは鏡でフォームをチェック出来るけども、
サンドバックはそうはいかない。
当てる目標から目を逸らさない練習もあるが、
なんといっても見ていないと
的確な距離(これが繊細)で当てることが出来ないからだ。

動画を見て愕然とした。
なんというか・・・スピードがないのだ。
本来、速射砲のようでなければならない連打が、
まるで、お寺の鐘突きが連続するような動きで
どうにもスローモーションだった。
そういえばある時、ゆっくりでもいいから
力強い打撃を意識したことがあった。
それがそのまま、習慣になってしまって、
サンドバック打ちのスピードが落ちていたのだ。

正直、一発一発に力を込める打ち方は(比較的)楽だ。
一方、スピードを重視する連打は苦しい。
知らず知らず、楽なことをやる割合が増えていた。
流されていた。
そして、全体が楽に染まってしまっていたという
恐るべき状況であった。

勿論、すぐに引き戻した。
下手っぴで才能の無い私にできる唯一は、
不格好でも「常に全力」なのだから、
そこを崩してはならないのだ。

絶対に退けない
書き留めておかねばならない。
そして、
流される危険は常に認識しておかねばならない。




読んでくださった方、ありがとうございます。


2022年年末、会津


実は2022年末に会津に行ってきた。
前々から訪れたいと考えていたのだけども、
どうにも一歩前に出れなかったものが、
今回はすんなりと決まった。

会津は憧れの地であり、尊敬の地であり、
また、ある種、足を踏み入れがたい聖地でもある。

誇り高き高潔の士と清らかな人民の地、会津。

人びとは温かく、
にこやかで思いやりがあって、
そのうえ、規律正しく背筋がまっすぐだ。
正直、私の思っていた以上であった。
会津人として、土地の教えを
忠実に守るその姿は、ただただ美しい。

会津の精神をを説明してくださる
年配のガイドさんの口から
「ならぬことはならぬものです。」の一言を聞いた時、
思わず涙がでそうになった。
優しく微笑みながらのその言葉は、
ゆっくりとして、温かく、しかし、
力強い口調であった。
会津にいるんだ!と、心の底から感動した。
そして、身が引き締まった。

会津への旅は、人生をもっともっと真剣に受け止める機会となった。
自分の精神世界のことなので
くどくどと書かないが、
狼の山、そして会津、
2022年の年末は精神的な姿勢の転機となった。




読んでくださった方、ありがとうございます。

防寒装備


冬は寒い。
そして、寒さというのは耐え難いものである。
夏の暑さはなんとかなる。
しかし寒さはある意味、
生死にかかわる重大な問題だ。

冬の早朝、私は0600時前には自宅を出るのだが、
自転車で人通りのない散歩道を走っていてこう思う。
もしここで倒れて意識を失ったら。・・・

そのまま凍死すること明白である。

寒さというのは実に恐ろしいのだ。
夏だったら、たとえ行き倒れになっても、
せいぜい蚊に刺されまくるくらいの心配だ。
いやぁ、体中、もう本当に赤いボツボツだらけになっちゃって。
などと、照れ笑いとも何ともつかない
バツの悪い苦笑いですむ話だ。
真冬の早朝はそうはいかない。
冬はつとめて、なんて嘘っぱちだ。
風情もなにもあったもんじゃない。
皆が命がけなのだ。

実は先日、ある山に登った。
気温は5度程度であったが、
恐るべき強風に数時間にわたって
身体を冷やされ、正直、挫折しそうになった。
風の凄まじさは筆舌に尽くしがたい。
寒気の濁流、濡れた冷水のブランケット、
身を引き裂く氷の刃、
寒さはどうにもならない。

ところで、昔の日本の家は
夏の暮らしをにらんでの造りだったそうだ。
昔といっても、平安、鎌倉、室町、江戸なんかの話だ。
風通しを良くし、涼をとることに重点をおいていたのだとか。
なにしろ、エアコンがないので対策の取りようがない。

一方、冬はどうにでもなるト考えられた。
囲炉裏端は温かいし、
着こめばいいという考えで、
寒さなど然したる問題ではなかったようだ。

なるほど。
先人の知恵はまことに偉大である。
要するに、適切な対応をとれば
寒さはさして深刻な問題にはならないらしい。

しかしである。
ここで告白すると、私は厚着が大嫌いなので
いつも冬らしからぬ服装をしている。
厚着でモコモコと動きづらいが苦痛なのだ。
洗濯物が増えるのも気が重い。
手袋とか、ちゃんと中まで洗えるのか、などと考えると
使用を躊躇してしまう。
靴下も、夏用と冬用と分けて使用するなど
人生が複雑になるだけだ。
洗顔と髭剃りに同じ石鹸を使っていた
アインシュタインに笑われてしまう。

三枚ルールという規則(服はそれ以上重ね着しない)まで
作って、自分に課していた始末だ。

然しながら、矢張り今後はしっかりと現実対応して
ちょっとだけ厚着をしてみようと思う。
実は、近く会津に観光に行くのだが、
寒さに震えて心ここにあらずのようになったら
目も当てられない。
適切な服装は必要であるトいう結論。

(2022年12月)




読んでくださった方、ありがとうございます。

ひとつクリアー


大きなイベントをひとつクリアーした。
職場の検閲である。
何かあった際は即応できるのか、
その為の準備はできているのか、
様々な記録や何やが調べられて
実働までするんだから、念入りだ。
クリップボードを持った検閲チームの
眼鏡が光り、ペンが走るたびに
我々は戦々恐々、震えあがる。
ストレスMAXで、
机のうえがチョコの包装紙でいっぱいになった。

このイベントは何しろ大規模すぎて、
準備の為の検閲があったのが11月で、
本番の2月に備える、という大袈裟なものであったのだが、
その11月の検閲が実に厳格なものであったので、
もうこの2月の本番の検閲は
なんというか、やぶれかぶれのヤケクソ的な雰囲気と、
11月にしっかり結果をだしているんだから大丈夫、という
ある種の余裕(腹は凍りついているが)とが入り混じり、
非常に複雑な雰囲気のなかで行われた。

で、結果は予想以上の高得点で、
まぁ、いつも通りの余裕のパスであったワケだが、
矢張り明確な形で区切りがつくのは安心する。

・・・(ホッと一息)・・・

さて、小さくガッツポーズをしたら、
次を見なければならない。
11月の別のイベント、それに向けての調整、
やることは山ほどある。



読んでくださった方、ありがとうございます。


戒め


戒めとして書き残しておこう。

矢張り、悪い気持ちを悪い言葉にするのは悪い。
自分も悪い気分になるし、
聞く相手も悪い気分になる。
悪い言葉を発することは悪い印象にも繋がるし、
とにかく悪い悪いづくめだ。
算数じゃないので、マイナスマイナスがプラスになるワケもなく、
結果として生ずる現実も、当然、悪いものになる。

なんだか全てが自分にとって損である。
得失論から云うと最悪の選択じゃん、と、
合理化を目指す私にとっては
もう本当、悪いを通り越して最悪といってよいのだ。
悪い言葉は悪い結果に繋がる。真理である。

そもそも、
その人がいない場でその人の話をするのが悪い。
彼には無理だトいう意見メッセージを送る前に、
実は躊躇したのだけども
えぇい、ままよ!と実行してしまった。
全てを丸く収める為に、と思ったことだ。

しかし、その見込まれる失敗を自分でやってしまった。
最早ギャグである。

来週から、また一つ大きな山場を迎える。
取り敢えずはこの試練をクリアーする為に
集中する所存であるが、
その前に戒めとして書き残しておくもの。

月に照らされる崇高な孤狼の姿を
もう一度思い出さねばならない。
今の私は姑息で小賢しい醜い凡愚である。





読んでくださった方、ありがとうございます。

某市の歴史資料館


ある市にある歴史資料館に行ってきた。
実は前から気になってはいたのだが、
なかなか機会がなかった。

ちょうど休みの日、勉強の合間に
ふらりと酒蔵へ出かけるついで・・・ではないが、
外出する日もそうそうないので
コースを大きく外れるが行ってきた。

ちなみに、酒蔵とは違う市にあるので、
自宅からはちょうど正三角形的な
ルートになる。
ついでに寄ったのではない、ということを
しつこく書いておきたい。
(さらに云うと、
これがまた、見事な冬の大三角形の形で
思わず、おぉ!と声があがるほどであった。)

先に資料館へ行ってみて、
さて・・・ なるほど、確かに「資料」館だった。
展示物などはなく、本や書面での記録のみの場所であった。
建物の外に、「遺物保管所」と大きくかかれた
倉庫があったのを見たので
いろいろと想像してしまったが、
思っていたものとは大きく違っていた。
しかし、本好きの私にとっては
夢のような場所であることに間違いはない。

市の資料館なので、
割とニッチな本ばかりであるが、
そこが最大のポイントである。
全国的でないマイナーな題材のほうが
断然燃えてくる。
そこでしか読めない内容のほうが
貴重であるからだ。
これぞ、地方の醍醐味!と力強く書いておこう。

たとえば、門沢橋という場所があるが、
その場所に古くから伝わる「門石」に係る伝説など
全国規模の本では読むことができないだろう。
こういうローカルな話題こそが、
本当に貴重であって興味をそそられる。
身近な場所であるので
あれこれと想像出来て、
現実的な空想に浸ることもできる。
あぁ、この場所かぁ・・・と、
川の流れを見つめながら
うっとりと過去を思う
至高の時を過ごすことだって出来る。

あるお寺の山門にある仁王像が、
貧しい農家の幼い娘の手伝いをした話がある。
夕暮れまでに田の草取りを終えなければ
食事をさせないと云いつけられた娘が
懸命に草を抜く。
しかしその小さな手による作業には
限界があって、時間だけが過ぎてゆく。
泣きそうになりながら、娘がふと顔をあげると、
なんと田の雑草は全てなくなっていた。
帰路、娘はいつもの習慣で近所のお寺に寄り、
その日の無事をお礼申し上げるのだが、
ここで仰天する。
なんと、仁王像の脚が泥まみれであったのだ。

同じ仁王像を参観するのに、
この話を知っているのと知らないのとでは
雲泥の差が生じることは
云うに及ばないだろう。

こういった、地方の民俗学的な伝承からは、
時の流れを生きた過去の人びとの
素朴な美しさを感じる。
名前すら記録されない人々の
清らかな魂を感じる思いだ。

(ちなみにこの話は全国に似たバージョンが存在するが、
そこがまた、当時の人びとの息吹を感じるところでもある。)

時間がなかったので
じっくりと資料を閲覧することは能わなかったが、
他に気になったのが
市内の道祖神をまとめた資料だった。
各地に点在する道祖神さまの場所と写真が
いくつかのファイルにまとめてあった。
これは大変な作業であるが、
相当にやりがいのある仕事であったろう。
こうした、大変に貴重な資料をみることが出来るのも、
地方の資料館を訪れる醍醐味であるのだと思う。
まずは研究者に礼!である。

いやはや、随分と長くなったので、今回はこの辺りで筆をおこう。
歴史資料の話に、ついつい熱くなってしまった。



読んでくださった方、ありがとうございます。

座禅


臨済のある僧侶がよくおっしゃっていた。

禅をして何が変わるのかトよく問われるが、
な~んも変わりゃしませんよ。

(ここで声をあげてお笑いになる)

禅僧の話を聞くときは、
言葉づらだけを追ってはいけない。
必ず行間、その話の裏、
示唆するところや云わんとする真意を
「自分で」考えなければならない。

自分で考えなければならないのだ。
コツは、
何を問うてらっしゃるのかを考えることだ。

そうだ。
彼らの話は、常に問いかけであり
話しかけとは違う。
完結する会話がないようにも思う。
心のどこかにちょっぴりと刺さった
小さなトゲのように、
気にはならないけど
ずっとずっと在り続けて、
ふとした時に蘇って来て
何度も何度も語りかけて(問いかけて)くる。
座ったってな~んも変わりゃしませんよ。

これまで漠然と座ってきた。
座り続ければ何かが変わるかも知れないト考えていた。
世の中にはそうなれる人もいるだろう。
しかしそれは、きっとものすごく頭の良い人で、
私とは全く違う種別だと思う。

私は阿呆なので常に経験から学ぶ。
実は、ここ半年ほどのある一連の、禅とは全く関連の無い経験から
座る意味がわかってきた。
座ることは思考で自分を変える修行と考えていたのだが、
やっぱりここでも経験から学んだので、
これが実に私らしいところだト笑ってしまった。

この一連の経験というのが、
これがまた、全く関連のない
完全に独立した別々の出来事であるのが
支離滅裂で無軌道な、
行き当たりばったり私の特徴をよく表していると思い、
やっぱり笑ってしまった。

しかしまぁ、
これらがなぜか禅に帰着していったのが
まったく意表をつかれるサプライズで
驚きの発見であったワケだが、
これぞまさに、人生の醍醐味である!などと
膝を打って一人で感心し、
もう一回笑ってしまった。

座ることが意味を持ち始めるのは、
何故座るのかに気付いた時であるように感じた。
私の場合、それがなけりゃな~んも変わらんトいうことだった。




(私にとっては、気付け!気付け!という励ましたの言葉であった。
はっきりと言葉にしないのが、また、臨済の禅僧らしいと思う。)

読んでくださった方、ありがとうございます。

2023年


さて、2023年となった。
私は年越しイベントなどとは全く無縁なもので、
何の感慨も感じないし
特別何かをするわけでもないしで、
昔からあっさりしたものであるが、
今年はなんだか、この節目をきっかけとして
自分を観察し直そうなどと考えている。

我儘でやりたい放題の自分にしては、
こういう境地になっただけでも
極めて殊勝であるな、などど考えているが、
これには訳というか、きっかけがある。

一言では言い表せない。
(事情を説明する流れ、漫画なら回想シーンになるところであるが)
口に出して語ることでもない。
しかし大雑把に云うと、
2022年に様々な土地へお邪魔したことが
力強い触媒となり、確かに私を変えた。

落ち着いて考えてみると、
これは最初から計算された結末だったように思う。
全ては大いなる意志により計画されたことで
何もかもがここへ帰着するための準備だったようにも思う。
私は今、極めて静かだ。

これからの私は「律」、
自分を律することを目標とする。

浮ついた言動や態度も
自然と消えてゆくだろう。
恨みや憎しみを感謝に変える思考も出来ると思う。
習慣にしている写経も
心持が変わったせいか、
無意識のうちに、トメやハネを丁寧に行っていた。
晴れや曇りや雨や嵐があるように
人の心も一定ではないが、
きっと理想の一定を目指そうと思う。
私にとっての座る意味が漸くわかってきた。

さぁ、この先の未来が楽しみだ!
はりきっていこう!
(と云いつつ、まずは朝の蜂蜜コーヒーを。・・・)


読んでくださった方、ありがとうございます。

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